すべてを肯定するために(あるいは『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』が目指す場所)
カミュの本「シーシュポスの神話」は、多分10代から20代の僕にとって最も大きな影響を与えた本だったと思う。尖りまくってすべてを否定し、薙ぎ倒そうと思っていた10代の僕は、カミュがこの神話の最後に書いた「すべてよし(tout est bien)」という一言、そしてそれを体現した「いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。」という一文に出会って、世界への見方がガラッと変わった。
神の罰によって、永遠に岩を山の上に運び続ける(しかも頂上に着いた途端に岩は地上に転がり落ちる)という途方もない徒労を背負うことになったシーシュポスは、その徒労の意味を一切変容することなく、それ自体として「すべてよし」と引き受け、自らの人生を、物語を、命を自分の手に取り戻す。絶望の果てにしか訪れない強烈な肯定は、この世界に生まれた以上、死んで消えゆくしかない運命を背負わされている我々の、いわば「負け戦」が運命付けられた生に対して、人がなしうる最大の抵抗だと感じたのだ。シーシュポスの姿は我々人間の姿そのものなのだ。それ以後、僕は、あらゆることを肯定しようと心掛けてきた。
もちろん僕はもともと極めて偏狭で心が狭く、激発しやすいタイプの人間なので、必ずしもそれがうまく行き続けるわけではない。時に怒りや悲しさに心が乗っ取られて、嫌になることだっていくらでもある。それでも、その自分の揺らぎも含めて、自分に起こったことを、我が物として受け入れる。「すべてよし」と考えることによって、自分の人生を自分自身の手の中にしっかりと保持しておきたい。何が起こっても、いいことも悪いことも、自分の人生の一部として受け入れ、他者に手渡したくない。そう考えた。
人生に対するそうした基本的な姿勢が、今回の本に現れていると思う。すべてを肯定すること。もちろん、本当に完全に全部を受け入れることは、限りある能力の人である限り不可能だ。でも、人生の手綱を手放さないのと同様、アートが、あるいはクリエイティブが無限の創造性をその内側に拓き続けるには、あらゆる表現のありようが許容されるべきだと強く思っている。だからマウントを取らないし、比較しない、説教をしないというのを本の基本的な態度として採用した。
そういう場所として、写真を、アートを、あるいは人生を拓きたいのだ。誰の人生も阻害したくないし阻害されたくない、誰の表現も否定したくないし、否定されたくない。だから、もしそれらを壊そうとするような言説が生まれるなら、そしてそのような言説は常にこのSNS世界においては日々生まれ続けているのだが、その呪いの激流に対して小さな防波堤を作りたい。それが本書で目指していた現実的な目標の一つなのだ。
できれば読者の皆さんにも、この防波堤に一つの「石」を積み上げてほしい。シーシュポスの岩と違って、この石は一つ積めば、紛れもなくどこかで小さな「篝火」が灯される。その篝火は、僕のいる場所からは遠い遠い光かもしれない。それでもその小さく温かい炎から立ち上がる煙は、あなたがそこで、間違いなく篝火を灯したことを教えてくれる。僕らの人生は交わらないし、その温かい火の場所まではいけないだろう。それでも、呪いの言葉が溢れる場所に、わずかに息をつける休息の場所が出来上がっている、それを心に思い描くだけで救われるのだ。奔流に立ち向かうのは私だけではない、あなただけではない。そう思えることが大事なのだ。
そのような篝火となる最初の火を、僕は今回自分の本として著した。多くの人が、多くのクリエイターたちが、自分の身の回りでその火を紡いでくれることを切に願っている。