新著『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』 発売!
明日3月19日、この一年ほどかけてじっくりと進めてきた久しぶりの単著『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』が発売になります。今日はその内容のご紹介をしたいなと。ちょっと長くなるかも。できるだけ短くしたいのだけど。
実はすでに早い地域ではポストに届き始めているようで、おそらく全国の本屋さんでもそろそろ並び始める頃だろうなと思っています。著者としては、いよいよという気持ちではおりますが、一方において、一番大変な「書く作業」が終わっているので、なんというかとても晴れやかで気楽な気分です。そして執筆の全てが終わった今言えるのは、この本はこの20年ちょっとほど自分がいろんな「迷い道」を歩いた結果のすべてが詰め込まれている本になったということです。そして、とても満足しています、いい本が書けたと思う。少なくとも「類書」はあまり存在しない、僕が書く理由があった本になっている。それがとても嬉しいのです。
そんな本を出させてくれた出版社のインプレスさんに感謝したいし、そんな本を提案してくれた編集者の牧浦さんにも深く深く感謝したい。昨年の10月中頃から2ヶ月間の執筆期間でやりとりしたメールを先ほど見返したら196通もありました。文通かっていうくらいこの期間、僕の乱筆に付き合ってくれたわけです。仕事とはいえ、もう「戦友」みたいな気持ちですね。
その担当編集者の牧浦さんが書き上げてくれた紹介記事が先ほど出たので、まずはそちらをご紹介。
牧浦さんらしい、簡潔にして的確に、この「混乱」を形にしたような書籍の核心をまとめてくれてます。曰く、
はい、かっこいい。なんかすごくいい感じ。僕もこういう感じの文章書けたらいいんだけど、僕はまとまっている話をわざわざ風呂敷広げて混乱させるのが役割なので、これはもう編集者さんにお任せの領域。すごい。
てことで、以下から、今日のお品書き。
1.本書を書くにあたっての問題意識
話は戻りますが、今回の本は最初にも書いたけど「類書」があまりない本です。というのも、僕のやっていること自体が結構「類書」がないからっていうシンプルな理由なんですよね。でもそれが結構大事で、この本の骨格を形成している。
今、写真家は世の中にたくさんいるし、このご時世、プロとアマの差なんてほとんどないほど技術的には高止まりしているのがカメラと写真の世界なわけです。また、本を書ける人、文章の上手い人も世の中にはわんさといらっしゃる。そしておそらく、写真を撮れて文章が上手い人も、ようやく今、2024年になって結構目につくようになってきました。上手い人が増えてきてます。それは数年前から言い続けたことだけれど、「写真も語らねばならない」という認識が、若手を中心に少しずつ「クリエイティブ」のあり方として認識されてきているからだと思います。でもね、写真がある程度撮れて、カメラ業界の最前線近くでなんかごちゃごちゃやってて、文章もそこそこかけて、大学で文学とか社会学とかを教えている人間ってのは、多分今のところ僕以外あんまりおらんのですわ。いや、もしかしたらいるのかもしれない。でも本当に数が少ない。その数の少ない経験と知見から生まれた思考を、最大公約数的に本の形にしたのがこの本なんです。だから珍しい。
一方、単に珍しいだけの本にはしたくなかったのですね。珍しいけれど、この本は「読者と歩む本」にしたかった。もっというと、上のまとめ記事に書いてくださっているけど、「迷いの森へと誘う本」なんです、この本。そんな本を書いたのは、まさに上のことを本という形で体現したかったから。最初は文学研究者として社会に出た僕は、そのあと写真を撮れるようになって、なんだかいくつか賞をもらって、そこから「写真について書く」ということをしながら、関西大学の社会学部でも教えるようになって、、、と、振り返るとどうしてこのルートを通ったのか自分でも全然わからない。歩いている途中は常に「五里霧中」で、迷い続けているような感触しかなかった。でもその「迷い続けてきたこと」が、とても今の僕にとって大事な基盤となって、そしてそれが形となって凝縮したのが今回の本なわけです。
そして大事な点は、そうやって「迷うこと」によって、個々人の能力や経験や社会的立場の「偏差」がより多様な冗長性を獲得するようになるってのを、僕は身をもって経験しているってことなんです。どのような個性であってもコモディティ化してしまう2020年代のSNS&クリエイティブ界隈の空間において、自己の存在のあり方が単一的だと非常にリスキーなんですね。多層化・多様化・冗長化しながら、その揺らぎのダイナミズムを最大限に発揮する行為こそ、20年代以降で躓かないキーワードの一つかと思ってるんですが、それを行為として一言で言うと、「迷うこと」に尽きると思っています。コスパとタイパの対極にある「迷う」という行為の果てに、みなさんが歩く「獣道」がしっかりと現れてくる。本書はだから、みんなに「一緒に迷おうよ」という体裁をとることで、読者の持つ可能性を未来に向けてわずかでも拓く可能性を喚起したい、そんな思いを込めた本なわけです。
2.本書の手引き
昨日のXとInstaのライブでも後半にお話ししたけど、この本は写真の本としてはかなり変わっているし、人によっては脱落しかねないような凝縮した議論もところどころに展開されているので、ちょっと手引きを書いておきますね。
まず脱落しそうなのは冒頭、序章「写真とは何か」のとこ!
ここね、結構読む人をふるいにかけてしまいそうで、怖いんですよね。だって「写真とは何か?」っすよ?哲学か!いや、マジで哲学引用してて、実際に序章では、ソンタグ、ベンヤミン、ニーチェ、デカルトの名前まで引用しながら、文字数の許す範囲内で、「写真」の根源を問おうとしてます。やばい、みんな脱落しそう、怖い。この種の文章に馴染みがない読者は、面食らい、読むことを諦めてしまうかもしれない。それは、筆者としても超無念なので、読み始めて「やべ、なんか面倒かも」って思ったら、序章すっ飛ばしてください()
で、その後まず目次の他のトピックを眺めてみて、何か興味が湧きそうなタイトルがあればそこから読んでみてほしい。結構上の目次、刺激的なタイトル並んでるでしょ。「バズという踏み絵」とか「絶景ハンターの死」とか。本全体は序章からずっと一貫したテーマと視野で書かれてるんだけど、一章は一つ一つのトピックそれ自体で読み切りで完結できるように書いてます。それは二章以降も同じ。
第二章の「表現のコモディティ化」ってのは、まさに僕が書いたあの記事からスタートしてます。
あれからもう3年。いよいよこの「コモディティ化」の話を前に進めていきたいと思ったんですわ。そこからスタートして、今の写真とカメラの世界において、あるいは単に生きる上でさえ目を逸らすことのできないSNSやAIとクリエイティブとの関係性に興味がある人は、是非とも第二章をご参照。
あるいは冒頭の文章を読み終えたら、いきなり最後の第三章「写真で何を語るのか」に飛んでもらってもいいかも。この章は、序章から続いてきた「迷いの森」を抜けた先に、わずかに灯される「希望」について書かれた章になっています。そして書いている僕を含めたすべての表現者たちに対して、僕がいま、皆さんに手渡すことができる小さな祝福の灯火について綴っています。
そう、僕はこの本を絶望と恨みの繰り言として終えたくなかった。生きている以上は、希望を見たいわけです。結構苦しみながら書いた本なので、この第三章に入るまでは重ための話が進行するけど、第三章はそこからどうやって再び立ち上がるのか、歩き出す先はどこかのか、表現全領域に渡る混迷の時代に対して、掲げることのできる篝火を皆さんに提示していようとしてるのが第三章です。この第三章を書きながら頭の中に浮かんでいたのは、映画「ゼロ・グラビティ(原題はGravityなので正反対ですね)」の、あのラストシーンですね。そこをいきなり読んでもらうってのは大いにアリ。
ということで、兎にも角にも、せっかくお手に取っていただけたら、どこか興味のあるところをつまみ食いしてほしいと思います。どういうわけか日本の教育は「本を最初から最後まで読むこと」を前提にするので、みなさん最初から律儀に読もうとするのだけど、そんなの全然、今日以降一切忘れて欲しい。僕は20代の全てを大学院の文学研究科というところで過ごして、文字だけの人生を10年間生きてきたのですが、その過程で得た最も大事な学びの一つは「読みたくない部分は飛ばしてしまえ」でした。最初から最後まで本を徹底的に読む必要など全くありませんし、僕の本もまさにそう思って書きました。本書も、読者の皆さんの「つまみ食い」のお供となることを願っています。
3.本書のいくつかのキーワード
その「つまみ食い」に際して、読書の利便性を底上げするために、本書で繰り返し出てくるいくつかのキーワードをいくつか説明しておきたいと思います。結構珍しい書き方をしているので、事前に知っていてもらった方がいいかなと。本書のキーアイデアですね。
・獣道
山を歩いていると、獣が歩いて作った道を見つけることがある。彼らは人間が作った道ではなく、自らの命に必要な道を切り開いて生きている。本書では、そのような野生生物たちが切り開く獣道を、人間の営為にも当てはめている。作り上げられた文化や、社会的慣習、本書においては伝統的な写真や、あるいは今の流行の写真、社会的な認知が固まったそうした表現とは違う場所へと向かう道を「魂の獣道」というような表記で表現している。
・コモディティ
トピック一つを使って語っているのだが、ここではコモディティという単語の基本的な意味を掲載しておく。コモディティの直訳は「商品」だ。ただ、このコモディティという単語が他の商品という英単語=Merchandise、Goodsよりも強調している点は、コモディティと名指された商品たちが、「代替可能である」という点。資本主義においては、どのような商品も「特別」であることはできず、どのような品質の商品も「代替可能」な商品で溢れかえる運命を持つ。本書では、資本主義世界でこの100年で起こってきた「コモディティ商品の登場」と同じことが、表現の領域で起きてきたことを何度も指摘することになる。
・ストゥディウムとプンクトゥム
哲学者ロラン・バルトが20世紀の半ばに指摘した写真の二つの様相。ストゥディウムは社会一般で受け入れられた写真であり、言語による説明が可能な文化的にコード化された写真受容。一方プンクトゥムとは、そうしたストゥディウム的な写真に収まらない、個人を貫く体験として観察される写真受容。文字化もできず、共有もできない、極めて個人的な写真体験を指す。
・バズ
SNSにおいてしばしば観察される、異様なインプレッションが局所的に生じる状況。「炎上」と混同される状況になることも多い。バズは中立的、あるいは一部においては好意的な意味合いで受け取られる場合が多い。
・炎上
SNSにおいてしばしば観察される、異様なインプレッションが局所的に生じる状況。「バズ」と混同される状況になることも多い。炎上は主に、その投稿者や擁護者にとってはネガティブな意味合いで受け取られる場合が多いが、時にインプレッションの増大を目的として、炎上し続けることを選択する投稿者も少なからず存在している。
・AI / 生成AI
2023年がAIの一般的な普及元年だとすると、2024年は本格的な流通の年になると予測される。ChatGPT、Genesis、Bingなどのテキストベースの回答を提出してくれるサービスや、StableDiffusionやMidourneyといった、画像ベースとの出力を可能にしてくれるサービスまで、2024年段階ではそれぞれの領域の仕事のあり方を変容させるほどに、人類の生産活動に食い込み始めている状況。おそらく2020年代が終わる頃には、人類の生産活動の多くはAIによって塗り替えられることが予想される。
4.まとめと、ちょっとしたお願い
まずは、この文章を読んで本に興味を持ってくださった方で、まだご購入いただいていない方がいらっしゃったら、是非とも以下から、何卒、何卒!!!
もしもう購入いただいている方は、めっちゃご感想お聞きしたいです。SNSでご投稿いただく際は、是非ともタグをつけてくれると検索しやすくて助かります。 「 #写真で何かを伝えたいすべての人たちへ 」でお願いいたします!(鉤括弧は抜いてくださいね)。あとは、ぜひメンションもお願いしたいです!通知に来るから!!!Xなら @TakahiroBessho で、インスタなら @takahiro_bessho になります。こういうとき思うんやけど、ほんとアカウント表記は統一した方がいい!!
そしてさらにもし可能だったら、是非是非是非是非Amazonの方にご感想いただけたらすごくすごく嬉しいです。皆さんからのご感想が次の本へのやる気につながります。
そう、次の本。僕ね、前の本を書いたときにね、「もう書くことねーや」って思ったんです。実際前の本を書いてから今回の本まで、5年空いてるんですよね。しかも書き終わった時点で、「もっと書けたよなあ」と思ったにも関わらず、「もう書かないでいいや」と思ってたんです。一冊出したし満足だって。
でも今回の本、これは全力で書き切って、去年の12月の末時点では「書きたいこと」はなかったのに、でもその一方で、「ここに書いたことは2年後、もしかすると1年後にはもう時代遅れになるかもしれない」という予感をその時点で持ちました。今はここまでが全部、でもこの後すぐに、もっと書くべきことが出てくる。その予感があるから、ここから2年後、僕は多分新しい本を書くことになると思うんです。今から体験すること、見ること、その全てをその時の社会の形に合わせて出力すると思う。その出力に、みなさんからの感想が大きく関わることになるんですね。
結局本は、最終的には自分の目で見たものしか反映できないし、自分の思考も時に(あるいは常に)すごく視野が狭くなる。でもみなさんが僕の書いたことを、みなさんの目線で語ってくれることで、僕の思考は違った角度からの光が灯されることになる。それがすごくありがたいんです。
というわけで、是非明日、3月19日の発表以降、みなさんのお手元に届いた本をご一読いただけた後に、ご感想をお待ちしています!!何卒、何卒!!!
(Amazonの著者ページです。よかったらこちらものぞいてねん)