メディアとしての写真が「媒介」するもの
3時間目開始まであと19分。で書けるテーマでは本来ないので、エッセンスだけ短く行きますね。
12月7日に関西大学で講演の予定なんですが(一般公開なので、お時間あればぜひ!)、その一つの目的は、写真を撮る学生さんたちに対して「写真」というものの属性を、今一度考えてもらうきっかけを作れればと思ってるんですね。というのも、いまさらマクルーハンを持ち出すまでもなく、写真という表現はある種の「メッセージ」を伝えるコンテンツでありながら、この世界の実相を媒介して伝える「メディア」的特性も持っているという二面性があります。きれいな写真はきれいな画として自立する一つの「コンテンツ」であると同時に、それを撮った状況や、あるいはその撮った本人の属性までもが、写真を通じて不可避的に媒介され表現されてしまう、「メディア(媒介者)」的な機能を持っているんです。
昨今の写真を通じた炎上騒ぎというのの大半が、この「メディア」としての特性に対する油断によるものです。写真は単なるコンテンツではなく、デジタル化とSNSを経て以降、撮ったあなたの全てを伝えるメディア=媒介物になりつつあります。
これは仕方ない面もあって、写真はまた、スマホに搭載されたことをきっかけにして一気に身近になりました。今やカメラは、本来持っていた「モノ」的な性質を少しずつ失いつつあり、その一方で「コト」を常に記録していくライフログメディア的な存在へと変貌しつつあります。
そしてそれがSNSと結びつくことによって、「カメラの脳化」が始まっている。我々は何でも全部、全てをスマホのカメラで記録しておくような、そういう振る舞いを得つつあるということです。議事録やポスター、知らぬ街で見たレストランや読んだ本の文章。全てをカメラでパチリパチリと残していく。後から見返すため。つまり、自分の脳の代理のメモリとして、写真を残すわけです。実に自然に、それと意識することなく。「メディア的特性」が目に見えないほど、自然な存在にカメラや写真が変貌しつつある中、我々の全てが「カメラ」を通じて記録されてしまうんです。
そのような状況で、写真がSNSと結びついた時にグロテスクな程に肥大する側面は、写真というものがあなたの通過したあらゆるものを媒介して伝えちゃうような高解像度な情報を持ってしまっているということなんです。
コンテンツとしての写真の写っている「画」自体もさることながら、それがいつとられて、どのような時間帯に撮られて、どのようなアプリで編集されたかまでexifに記録される。さらにはインスタのストーリーなんかで撮影シーンを記録していたら、あなたがどの「場所」にいたのかもたどることができる。時には現像の色味で「あ、この人の写真だ」とわかる。写真を見た人々はそれを「あなた」として覚えます。あなたが写真をSNS上に載せるたびに、多くの人の「脳」や「パソコン」や「スマホ」の中に、あなたのふるまいの全てが記録される。一枚の写真を媒介にして。これが今の写真の置かれている状況です。写真はあなたの全てを伝えてしまうんです。媒介者として。
だからこそ、写真はいわば、「全人格的社会的表現メディア」になるつつあることを意識してほしい、というのが2018年の終わり頃において僕が若い学生さんたちに伝えたいことの一つなんですね。写真はただの一枚の「画」じゃない。それは、あなたが生きているその過程を、あなたの人格とともに、一つの「物語」として表現してしまうわけです、不可避的に。
だからこそ、写真で自己を表現しようとする人は気をつけてください。単に「いい写真」が撮れると思っているだけでは、ある意味では危険になりつつあります。あなたがどんな人間で、あなたがどんな人格を持っているのか。その振る舞い自体の強度までもが、写真という物語空間の中で試されるのが今の写真という表現なんですよね。
よし、授業開始まであと3分、間に合った!!
(補足)
3時間目が終わった後に読み直して、ちょっと補足したくなりました。なんだか監視社会っぽい暗澹とした結論に見えますが、悪いことばかりではありません。今の状況は実は良いことのほうが多いんです。それについては12月7日、関西大学の千里キャンパスにて開かれる講演会にてお話したいと思います。ぜひ皆さん来てねー(特に学生さん!)