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一枚のドレスが世界観を大きく変えた話(あるいは安易な共感がもたらす世界について)

長い時間、人の書いた文章についてあれこれと考える研究をやっていた頃に、一つ気づいたことがあるんです。それはですね、「どんなにがんばって時間を注いでも、最後の最後のところで他人のことは全くわからない」ということなんです。もちろん、ある程度は時間を経れば統計的な積み重ねが経験となって、高精度の推論を作ることは出来ます。でもね、やっぱり他人はわからない。自分のことさえあまりわからないのに、他人のことなんて分かるわけがない。だからこそ最近よく思うんです。「安易に共感がはびこる今の世界は危険だなあ」と。だってそうじゃないですか。安易に共感した相手は、ホントは思っているのとまったく違う人間なのかもしれない。というより、多分そうなんです。

もちろん、最初に強調しておきたいんですが、「共感」そのものが悪いわけではないです。というよりも、この世界は今、共感とか他者への配慮をものすごく必要としている。でも、共感とか配慮って、わりと大変なんです。だって想像力という「見えないものを見る目」が必要だから。そしてその目は色々経験しなければ育たないものだから。で、そんなめんどくさい「目」なんて必要ない、形だけの共感が流通している状況が、一体何をもたらすのかというのが今回の記事の骨子です。

と同時に、矛盾するようですが、これは今の燃えやすい社会の本質とも通底した状況の様に思います。人を簡単に燃やすことが出来るということの根底には、「自分の価値観は一般的に見て多数派を占める」という思い込みや予断が、その燃やす人にあるからだと思うんです。他人の振り上げる拳の正義が、自分のものと一緒であると簡単に思える空気。それこそ「安易な共感」が流通したSNS社会の成れの果てだと思うんですね。

1.一枚の写真が衝撃を生んだ

時間軸を少し戻します。数年前のことです、ある一枚の画像に衝撃を受けました。何度かこのノートでも書いたことですが、これです。

このドレスが僕には「白と金」に見えるんですね。ことの経緯を知らない人は、ぜひ上の記事を読んでみてください。このドレスの話題が出て以降、僕は授業の中でこのドレスが何色に見えるのか、毎年学生さんたちに聞いてみるようにしてるんです。僕の持ったクラスでは7:3くらいの割合で、「青と黒」に見える方が多いという結果でした。もちろんクラスによっては半々に近づくようなときもあるんですが、基本的には「白と金」は少数です。僕は少数派の側の見え方をしている。そして実際にはこのドレスは「青と黒」が正解なんですが、正解を言われようとも僕には「白と金」にしか見えない。そのことの面白さと、そして恐ろしさのようなものを痛感したんです。つまりはこういうことです。

視覚のような、人間にとって基本的かつ偏差の少なそうな認知システムでさえ、実は固有の偏差が大きいのではないかという疑惑。

もっと平たく言うとこうです。

あなたと私の見ている世界は、もしかしたら全然違うのかもしれない。

僕はもともと、極めて強い個人主義的考えを持っていて、自分の場所や時間を他者と共有するのがすごく苦手な人間ではあるんですが、それでもぼんやりと、人間の「判断力」や「倫理観」への信頼みたいなものは持ってたんです。「よいこと」とか「ほんとうのこと」はどこかに見つけうるんではないか、そしてそれは他者と共有出来るんではないか。大澤真幸が説明するところの、ルソーの「一般意志」みたいなものを想定していました。我々人間が到達しうる理想的な「意志」みたいなものがこの世界には存在するんじゃないか。多分ぼんやりそう思ってた。でもね、やっぱり無いです。無かったんですな。だって、色みたいな極めて単純そうな事物でさえ認知の差異が出てくる。基本的な外界認識のためのデバイスですよ、そこで差異が出る。じゃあ残りは推して知るべしです。みんな全員違う、そう考えるべきなんだろう。むしろ「みんな本当に違う、基本的な部分から」という前提を本気で意識しつつ、物事を把握し直さなくてはならない。前々から思っていたことをついに徹底するよう認識を変えられたのが、この「白金・青黒ドレス」の問題でした。

2.相手をまず他人と思うことの重要性

でも、それこそ今の世界においては、もう一度問い直さねばならないことのように思います。どこで読んだのか忘れたんですが、「夫婦がうまくいくための基本的なコツ」というような話で、「配偶者をまず他人と思うこと」というアドバイスがありました。もちろんこれは「配偶者も他人なんだから信頼してはだめ」という話ではないです。逆です。「他人として考えることで、ようやくちゃんとした関係が築ける」という話です。これは僕は極めて正しいと思うんです。

世の中の結婚の大半の問題って、自分の配偶者を自分の分身と捉えることから起こっているような気がします。自分の分身、簡単に分かってくれると思っているから、「掃除洗濯して飯作ってゴミ出しはしといてくれよ、俺は(私は)外で働いて疲れてるんだから、な、わかるだろ」というような話になるわけです。そういう「共感と理解の無自覚な強要」こそが、配偶者をイラつかせる。妻や夫をイラつかせる。でも、まずは「契約関係を結んでいるとは言え、配偶者は他人である」ことが前提となると、そういう発想は出てこない。互いに相手のことを想像して動くようになる。それこそがいわば「敬意」の本質です他者を他者としてまずはしっかりと認識して、その相手の考えを想像し、その上でその考えを尊重するということ。他人の気持ちはわからないからこそ、必死になって考える。それが相互の共感の精度を、より高めていくわけです。その上に初めて「敬意」が成り立つ。

3.「敬意」という単語の本質的な意味

英語において、「敬意」とか「尊敬」は、respectという単語を使います。中学には習います。で、respectの語源は、ラテン度のre-spectareです。つまり「再び見る」ということ。つまり、「敬意」とか「尊敬」というのは、他者という存在を改めて他者として「再び見る」ことから発生するということが含意されている。だから、同じ語源のrespectiveという単語はrespectの形容詞である「尊重すべき」という意味ももともとはあったのですが、それは今は使われず(その意味はrespectableの方に吸収されました)、語意は「それぞれの、各々の」という意味になります。自分は自分、他人は他人、ということを意味する単語です。その意味がrespectと全く同じ語源re-spectareから派生しているわけです。そう、だから、「敬意を持つ」というのは、まずは「自分」と「他人」が「それぞれ」として別個の存在として独立しているという認識を持つことから初めて生まれるわけです。英語の語源は色々教えてくれますね。

だからこそ、簡単で安易な「共感」は危険っていう最初の話に戻るわけです。安い共感からは、敬意とか尊敬とかって生まれないんですね。だってまず、他者のことを独立した別個の存在として考えるというプロセスを抜きにしているわけですから。必死になって相手のことを考えるプロセスを抜きにして、自分にとって都合の良い気持ちいいものだけが取捨選択される。で、気持ちよくなったら捨てる。共感を感じる先は大量に供給されるから、本人的にそれで問題ないんですが、その高速に回転する共感流通の世界においては「敬意」は生まれにくい。

4.悪貨は良貨を駆逐する

SNSというシステムは、一言で言うと「共感」を流通するものです。人に「いいね」を簡単に押させて、共感の敷居を下げるシステム。根源的にはそれは資本主義の内在化と言えます。価値を回すこと自体が次の価値を生む資本主義と、「いいね」を回すこと自体が次の「いいね」を生むSNSというのは、実はすごく相性が良い。アメリカという最強の資本主義国家でSNSが最高に発達するのもよくわかります。そうやって「循環」をシステムの根幹に据えることで、差分の「価値」が生まれる。それが利ざやを生んで、システム自体が雪だるま式に肥大化していく。

でも、ドラゴンボールにおいて強くなると数値がインフレしていったように、1円の価値はシステム内で下がり続け、1いいねの価値も相対的にどんどん低くなっていく。こうやって、「共感」そのものが安く買い叩かれる世界においては、本来スローペースで成立するもの、例えば「敬意」のような大事な感情の全てが消えていく運命にある。悪貨は良貨を駆逐するとはよく言ったものです。で、そういう「悪貨=安い共感」が流通する場所というのは、「反感」も容易に流通しうる場所であることは自明でしょう。共感が安いなら、反感も極めて安価になっているのが今の状態です。

結論めいたことはないんですが、改めて最後にもう一度書いておきたいのは、どんなに親しい相手でも、たとえ親兄弟でも、たとえあなたから見てどんなに好ましく、あなたにとって気持ちよい存在でも、他者は他者として独立して存在しているっていうことなんです。あなたではない。あなたの気持ちとは関係なく生きている。絶望的な前提に見えますが、相互依存の安い共感を排除した時、初めてその後に続く関係が、幾分かはベターな形で構築されるような気がするんですよね。


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