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SNSでの誹謗中傷に、僕らはどういう態度を取ればいいのか

1.まずは結論

若い人が一方的に誹謗中傷を受け、それを周囲の力のある大人や組織が適切な対処を取らず、最終的には自ら命を絶つという事件が、この記事を書いている前日にありました。

それ以降、昨日から暗澹とした気分でいます。その後たくさんの著名人や専門家のコメントや批判の文章を見ていたのですが、自分の中でこの流れにどういうふうな態度を取ればいいのか、見えて来ませんでした。もちろん、倫理的な問題点は明白かつ議論の余地のないものです。SNSで行われた誹謗中傷は、言葉による殺人というべきもので、単なる誹謗中傷では済まされない、一人の人間を死に追いやる言葉によるリンチです。

でも、この現象に何か言葉を出そうとすればするほど、むしろ物事が悪くなるような印象を覚えるんです。強い言葉のナイフに対して、こちらも不用意な強い言葉で「善」を出そうとすると、どこまでもすれ違うというか。どう考えればいいかわからず、ずっとモヤモヤを感じていました。でも最終的にこういうことだと思ったんです。それが今回の結論でもあります。

たとえそれが仮にある程度正しい解決法だとしても、誹謗中傷する側が自らの行為を正当化出来るロジックを含む言説を、僕らは注意深く回避しなきゃいけない。

つまり、仮に正しいと思われる言葉やロジックでも、簡単にその言葉が都合の良いように歪曲され、次の「攻撃」の理由にされてしまうような怖さがあるんじゃないか。だから、このSNS空間では「自分の正しさ」を留保する作法を身に着けなきゃいけない、そんな気がしたんです。(なんでこちら側が対応せねばならないのか、と思われるかもしれません。それには理由がありますが、それはまたいつか書きます。)

必死に「正しいこと」を訴えても、その一部が次の攻撃のための根拠として、換骨奪胎されかねない状況にモヤモヤしていたんだと気づきました。

2.不合理な正しさ

具体的な例を書いてみますね。

1.SNSなんて使わなきゃいい
2.所詮SNSじゃないか
3.誹謗中傷なんて気にしなければいい

こういう言説、あるいは直接的ではないにせよこういうニュアンスを仄めかす言葉を避けるべきだと思うんです。なぜか。それは、これらの言説は、ある意味では「そのとおり」なんですが、これらの言説は「誹謗中傷する側」にとっても好都合なものの言い方になり得るんです。

つまり

1.SNSなんて使わなきゃいい(のに使っているのだから、攻撃されても仕方ない)
2.所詮SNSじゃないか(だから攻撃してもSNS上だけのことですよね)
3.誹謗中傷なんてきにしなければいい(のにSNSに出てくるのだから、叩いても大丈夫ってことでしょ)

こんなふうに論理展開できてしまう。「そんなの不合理だ、そんなつもりで言ったんじゃない」と思うかもしれないんですが、ハラスメントやいじめにカテゴリーされる加害者の理屈は、往々にしてこういう「歪んだ正しさ」「都合の良く曲解された独善的な正しさ」を根拠に行われます。

今回、多くの芸能人や著名人の方々が、「芸能人だって人間なんです」と発信していますし、「こういう誹謗中傷を許しちゃいけない」って発信しています。中には「ちゃんと告訴しましょう」というふうにアドバイスされている方もいます。これらは全て、そのとおりだし、今回大きな意味合いを持つと思うんです。一人の女の子の死が、少し風向きを変えました。これがなにかに結実することを強く願っています。

3.「正しさの簒奪」が起きない空間

ただ、こういう発信や、あるいは実質的な対処をできる人というのは、ある程度以上に「強い」人たちです。彼らは今の状況において、反論や批判を受けても、自分のメンタルを保って社会を前に進めることができる人たちです。それ自体は本当に素晴らしいことだし、その勇気に敬意を示すべきです。

でも多くの一般人、あるいは多くの芸能人や著名人たちでさえ、おそらくはそんなに強くない。上でも書きましたが、「芸能人だって人間」です。全く同じ人間。だから「強い対処」を取れない場合の「パッシブスキル」のような状態はなにかないかと考えました。それが最初に書いた

たとえそれが仮にある程度正しい解決法だとしても、誹謗中傷する側が自らの行為を正当化出来るロジックを含む言説を、注意深く回避する

というような作法、ないしは想像力を身につけることなんだと思うんです。つまり相手に「歪んだ正しさの根拠」を与えないような、そういう空間の醸成です。

今回の事件では「強い人達」が矢面に立って積極的に「空気」を変えようとしてくれています。でも彼らの「タンク」としての能力だって、無限ではありえない。いつかは耐久力を全部削り取られて、一番触れてほしくない致命的なコアの部分が攻撃にさらされ、傷つき倒れていく。このままサイトカインストームのように「過剰な防衛反応」によって目立つ他者を攻撃することを見過ごしてしまえば、おそらく社会全体が多臓器不全になって倒れてしまう。この数ヶ月で世界が、国家が、経済が、社会がコロナによって危うくなったように、僕ら個人個人が今度は内的に死んでしまう。

このままだとそんな社会がやってくる、昨日の事件を見てそう感じました。そして多分これを根本的に抑え込むには、コロナに対して「緊急事態宣言」や「ロックダウン」を出さなければならなかったように、本当はSNSを個人番号や免許などに結びつけて、国家権力が管理・監視するしかない気がしますが、それはもう最終手段であり、表現の自由やネットの自由が根本的に奪われることとトレードオフになるでしょう。それはできれば避けたい。

4.精神的な「リモートワーク」

だからこそ我々は「自粛」に似た、あるいは「Stayhome」に似た、精神的な「リモートワーク」を導入しなきゃいけない。今回のようなネットやSNS上における誹謗中傷の問題が湧き上がった時に、自分の言葉が巡り巡って「敵」に有利に働くような意味を持つかどうかを想像し、吟味する静かな時間です。

そのような対応は、全然即効的でもないし、目に見える劇的な効果を発するものでもないけど、そういう人たちが一定数増えることでじわじわっと数年単位で効いてくると思うんです。ただひたすらみんなでがんばって家で過ごしているうちに、少しずつコロナの罹患者が減っていったように。

こうした対処はまだるっこしいのですが、ネット上で匿名で誹謗中傷するような人たちにはある程度効くような気がします。彼らは「自粛警察」に似ていて、「自分たちはある程度正しい側にいる」という、その場の「空気」を読んで、言葉を発します。逆にいうと、「空気」がなければ、自分の言葉に根拠を与えるものが何もないんです。自分の正当性を個人名で記すような覚悟や、培われた知識、自分一人でも間違ったことを指摘出来る勇気や、傷ついた人を想像できる愛情、そうした「強い動機」を彼らは何一つ持っていない。目に見えない、まるでウイルスのような無色透明の「空気」がなければ、ほんの少しの行動さえできないんです。

だから「空気」を変えましょう。もちろん強く真っ直ぐな言葉で、傷つく人をサポート出来るなら、それに越したことはありません。でもそれには割と大きな代償が必要になるかもしれません。それは次の犠牲者を増やすことにもなりかねない。だから弱い僕らは、弱いなりの戦い方の作法をやりましょう。攻撃に同調しない、攻撃の可能性のある言葉は使わない、誰かが傷つけられている場所があれば、眉をひそめるだけでいい。見過ごすんじゃなくて、わずかでも抵抗の印を残していく。それを積み重ねていって、その場所で武器を振りかざす人間が肩身が狭くなるほどに。弱者には弱者なりの抵抗の仕方があるはずです。

5.Viralな世界に生きる僕ら

今回のこの事件、僕はこれも「コロナ禍」だと思ってます。今回コロナは僕らの性質を浮き彫りにしました。それは良い意味でも悪い意味でも、僕らの本性というか、「できること」の限界値を見せつけました。一方において、ストレスの捌け口を他者に執拗にぶつけるような残酷性も顕わにしましたが、他方では人生が破綻する危険性をおかしても我慢して同じ方向に向いて事態を改善する努力ができることも学びました。それならば、SNSという、コロナと同じくらいに拡散力の強い「メディア」にだって(「拡散力」は、英語ではviral、つまり「virusのように広がる」という意味を持っています)、僕らはなんとか対応できるんじゃないか。そんなことを願うんです。というか、僕自身そうありたいと自分に言い聞かせてます。

=*=

昨日一人の女の子がなくなりました。まったく知らなかった女の子ですし、彼女が最初の犠牲者でも、最後の犠牲者でもない。それでも苦しかったのです。

いつか見た、いつか助けられなかった人たち、見なかったふりをしてやり過ごしてしまった人たちのことを思い出しました。今回もまた何も言わないで、明日以後も何もなかったように忘れてしまうのは、とてもつらかった。だから文章にしてみました。

何より、これからこの世界に来る人達に、「ここはこんなにひどいんだよ」と絶望しきって話すわけにはいかないんです。

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別所隆弘
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