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「自分の表現で伝えられないこと」(あるいはクリエイティブの倫理と地獄)

この話をちゃんと誤解のないように書くことができるだろうか。自信はない。自信はないけど、書かなければいけない。写真と言葉、表現と倫理、その狭間で揺れ続けている僕は、ここから目を背けていては次には進めない気がするからだ。終わりは見えないが、書き始めてみよう。

(1)卓越したコピーの力とそれがもたらす地獄

きっかけは、一枚の広告を電車の中で見たことだった。吊り広告というやつ。そこには二人の子どもが視線を合わせている写真が写っている。

そして横にはキャッチコピー

"I am a child,
 I have a child."

https://www.ad-c.or.jp/campaign/support/support_07.html
公益社団法人ACジャパン

簡潔にして誤解しようのないメッセージ。発展途上国における児童婚と出産、特に強制的な結婚や出産の廃絶を求めるための公益広告だった。ハッとして、引き込まれ、一つの文章の持つ力強い表現力に感銘を受けた。しばらく目を離せなかった。そして、何かが心に引っかかった。

トゲというほどでもない、違和感というほどでもない、でも無視し得ない何かモヤモヤしたもの。なんだろう?その正体を見極めようと、もう一度広告を見つめる。次第に自分の内側に生まれたモヤモヤが形を取り始める。

それは、あまりに良くできたコピー、あるいはコピーに限らず作り込まれたクリエイティブ全般が持つ、見えざる罪深さへの葛藤のようなものだ。

(2)優れたクリエイティブが覆い隠すもの

この広告は一瞬にして、この少女とその子どもを取り巻く社会的問題を提起する力強い表現力を持っている。それは疑いようがない。言語的に簡潔で、文構造も詩のように整っており、その上で具体性もある。

しかし、それはあまりにも良く出来すぎているのだ。

彼女を取り巻く社会的環境、文化的環境、あるいはこのような状況が現実にあることを知りながら看過している、先進国に住む我々のオメラス的な原罪性。一冊の本でも伝えきれない問題群は、本来言葉を尽くしてようやくほんのわずかにその一端を伝えうるものであるはずなのに、たった一文のコピーが伝えきってしまう(ように思わせる)。その後に文章は続くが、それを読もうと言う気さえ起こらない。それほど、この二文は完璧なのだ。

その卓越した表現性が、それ自体に一種の美的な価値を与えてしまう

もちろん、このコピーは報道的機能をしっかり果たしている。それは本来この広告が目指したものであるし、その目的は100%果たされている。本来はもっともっと言葉を尽くすべき問題であったとしても、少なくとも「児童婚」という問題がこの世界に存在していると言うことを、最大公約数的に知らせる機能はいささかも失われていない。

それでも、このコピーを見ていると、その出来の良さに暗い気分になるのだ。よくできたクリエイティブを目にして、否応なく美的・審美的な価値を感じている自分に対して。そしておそらくは、これを見た人の多くにも、似た反応が起こるであろうことに対して。

同じ車内にあった、同じく「優れたコピー」

それはつまり、上に書かれているすべての諸問題がこのコピーの力によって覆い隠されてしまって、このコピーが一種の「鑑賞に耐える文学」として美学化されてしまうと言うことだ。まるで最高のヒップホップのライムを聞いた時のように、言葉の巧みさに感銘を受ける、その感情の動きはすごく残酷に思える。

このコピーを見た時、多くの人は問題自体の残酷さを一瞬忘れて、「いいコピーやなあ」と、その言葉の力に感心してしまうだろう。その時、僕らは一枚の写真、一幅の絵画、一つの彫刻を前に「この作者はすごいなあ」と感心するのと同じように、美的に感動している

この瞬間、僕らは、この写真の女の子のことを忘れている。あるいはその子どものことを。美的に優れたものは、それ自体が残酷なほどに力を持って、全ての「他のもの」を覆い隠してしまう。写真もまた「メディア」であることをやめ、添えられたコピーと呼応しながら、それ自体の持つ構造やリズムや光や影が意味と価値を持ってアートとして独立してしまう。

こうして、本来伝えられるべき「この世の地獄」は、何か神的な悲劇性を持った「観賞すべきドラマ」として、記号化されてしまう。それはかつて、スーザン・ソンタグがセバスチャン・サルガドの写真を強く強く批判した時と全く同じ構造として現れてくる。

「問題は、写真が無力な人々、無力な状態へと追いやられた人々に焦点を定めているところにある。無力な人々がキャプションの中で名前を与えられていないのは意味深長である。被写体に名前を付さない肖像は、意図的でないにせよ、有名人崇拝の文化に --- 無名の被写体の写真とは正反対の性格を持つ写真への飽くことのない渇望が煽り立てられている文化に --- 加担している。有名な人々にのみ名前を付与することは、その他の人々を、職業集団、民族集団、悲惨な状況にある集団の代表例という存在に格下げする。」

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』P.77

僕はサルガドもソンタグも大好きなので、どちらがどうとかは言いたくないのだが、それでもサルガドの写真を見ると、この場所が悲劇的な労働搾取の現場というよりは、まるで神話の創世記の一瞬でも見ているような、そんな「感動」を覚えてしまう(下のリンクから写真を見ることができる。)

https://heapsmag.com/sunday-art-scroll-real-time-exhibition-news-from-all-over-the-world-gold-serra-pelada-mine-sebastiao-salgado

ソンタグが指摘するのは、まさにその「感動」の裏側にある、人間の意識の作用だ。名を奪われた人々の受苦が定型化され、ただの「可哀想な人」という感情処理へと自動化されてしまう。そして残るのは、圧倒的な表現をもった美学的な価値。その価値が、我々の自己欺瞞の本質を覆い隠してしまう。ソンタグの言葉を借りるならば、「美しい写真は深刻な被写体から注意を逸らし、それを媒体そのものへと向けさせ、それによって記録としての写真のステイタスを損なう」(ソンタグ、P.75)のだ。僕らの心は、悲劇的な労働搾取の現場という報道的価値と、それが美しく撮られたクリエイティブの美しさを天秤にかける。そして後者を取る。無意識的に。そしてそのまま事の本質を自らの無意識へと沈めていくのだ。

こうして問われるべき本質的な問題点は永遠に遠ざかり、ただただ、優れたクリエイティブがこの世界に残っていく。圧倒的な表現力が覆い隠してしまう現実の地獄。先ほどのコピーと同じ問題がここに潜んでいるのだ。

(3)濱田さんと「写真の倫理性」について話をした

実はこの問題系は、この数年間ずっと継続して持っていたもので、一度関西大学でシンポジウムを開いたことがある。写真家であり、同じ年齢の「盟友」と勝手に思い込んでる濱田英明さんを講師にお呼びして開いたものだが、この問題を常に意識しながら動いている表現者として、これ以上ない知見を話してくださった。

大学の学内シンポジウムだったのでその時の様子を外部に公開することはできないのだけれど、一端は濱田さんが残してくれたその日のツイートで見ることができる。

このツイートのツリーの中で、濱田さんのこの言葉は、まさに今の時代において「表現すること」が孕んでいる地獄を、的確に突いている。

この時に具体例として挙げられたのは、西成区のPRを意図して書かれたあるブログ記事や、東京オリンピックの公式動画での虚偽字幕問題、さらにはそのオリンピックの音楽を統括していたミュージシャンの過去のいじめ問題など、その講演の時期に各地で噴き上がっていた「表現と炎上」の問題を取り上げたものだった。その問題の全てを一つにまとめる視座は存在しないのだけれど、俯瞰的に見直してみると、21世紀の表現が抱える、あるいは目指すべき方向性が見えてくる。それは一言で言えばこういうことだ。

僕らは、自分の表現で何を伝えられないのか

この一点に掛かってくると思うのだ。

(4)「僕らは、自分の表現で何を伝えられないのか」

SNS時代を経由した後に僕らクリエイティブに関わる人間が意識しなくてはいけないのは、「自分が何を表現できるのか」以上に、「自分の表現は何を伝えられないのか」という部分ではないかと思い始めた。というか、「伝えられないことはなんだろう?」と考えた時、はじめて、優れたクリエイティブが持つ「本質を伝えながら、本質を隠蔽する」という相反する表現力(濱田さんが「加害性」と呼ぶもの)に対して、一歩足を止めて考える隙間ができるからだ。バズの嵐が吹き荒れる2010年代には見えなくなった「隙間」を、僕らはこのネットワーク空間のどこかに必ず見出すことができるはずだ。

一方この意識を持ち続けることは、クリエイティブの持つもう一つの問題系列、キャンセルカルチャーに対する、クリエイター側からの回答にもなりうるとも考えている。

クリエイティブとキャンセルカルチャーに関して議論を始めると、またすごく長くなりそうなのでいつか別稿として書きたいと思っているのだけれど、今では多くのクリエイティブは、「ややこしいことには首を突っ込まないこと」がコスパの高い生き残り戦略として定着し始めている感がある。一言の失言が、全てを燃やし尽くすキャンセルカルチャー&魔女狩り時代においては、罪のなさそうな美しい風景写真でも出して黙っている方が、よほど効率のいい「インフルエンスの獲得の仕方」になるだろう。

誰も自分は燃えたくないし、できれば燃やしたくもない。黙っているのが得策だし、批評性のない空虚な記号をバズらせることが最善の生き残り戦略になる。僕もかつては、その方向性で生きるしかないかもしれないと、ある程度まで絶望して腹を括った。

キャンセルカルチャーの世界がこれ以上進展すれば、いずれ何一つ傷つけない「罪なき美しいもの」だけが、表層をうっすらと覆うような状況へと、クリエイティブが追い込まれる可能性がある。イノセンティフィケーション(無害化)とでも呼べばいいだろうか。

でも、それは違うのだ。すべてのクリエイティブは、そのクリエイティブ自体が覆い隠してしまう「問題」を常に抱えている。「罪なき美しいもの」に見えるクリエイティブでさえ、その忘却の持つオメラス的な原罪から逃げることはできないから。オメラス、ご存知だろうか?一度Wikiをみてほしい。いや、この動画がいいかな。

オメラスとは、理想郷のこと。「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ルグウィンが描いた寓話で、数ページで終わる作品なので、ぜひ読んで欲しい。寓話だが、この世界そのものの姿がそこにある。同じテーマは、ドストエフスキーの傑作「カラマーゾフの兄弟」で、イヴァン・カラマーゾフが「大審問官」の中でも語っている。文学作品がずっと向き合ってきたテーマの一つ。

と、この辺りはまた長くなりそうなので、ちょっと置いておきたい。いずれ別項で。落とし所がないのはいつもの僕の文章なので、この辺りでやめておくけれど、20年代の終わりに向けて、ようやく僕は、自分の歩き方が少しだけ見えた気がしている。

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別所隆弘
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