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「がまくんとかえるくん」は仲良し友情物語!? 〜木村・上田・明尾「アーノルド・ローベル『おてがみ』の『名づけ得ない関係性』を読む」

木村季美子・上田楓・明尾香澄(2023)「アーノルド・ローベル「おてがみ」の「名づけ得ない関係性」を読む ―教材可能性を開くクィアの思弁的なプロセス―」『国語科教育』第94集、pp.23-31

私の知り合いでもある若手研究者・明尾香澄さんらのこの研究、昨年の全国大学国語教育学会大会時の発表でも聞いたが、このたび無事学会誌に掲載された(明尾さん、おめでとう!)。
よい論文だと思う。

小2国語教科書に「おてがみ」が掲載され、教育現場でも有名&人気があるアーノルド・ローベル。
その「がまくんとかえるくん」シリーズを、クィア・ペダゴジー(異性愛中心主義などの規範を問い直すような視角をもった教育学)の視点から読み解く。

ローベルがゲイでそのことを家族にもカミングアウトしていたことはよく知られている。

↓ 一昨年のアーノルド・ローベル展でも扱われていた(私は行けていない)

「がまくんとかえるくん」シリーズはカミングアウトの数年前に刊行が始まっており、ちょうどその1970年代というのは、ゲイ解放運動とそのバッシングの両方が高まっていた時期でもある。
また、ローベル自身、作品に自身の個人的なことが反映されていることを認めている。

それらを背景に、本論文では、教育現場ではもっぱら「友情」物語として扱われがちな「がまくんとかえるくん」シリーズに対し、新たな読みを提示する。

例えばそれは、

ローベルはどのような人間関係であっても陥りがちな支配/被支配の関係性を意識して、どちらかが主導権を握ることのない関係性を描こうとしていたのではないか

p.25

という視点からの分析であったり、あるいは、「すいえい」エピソードに対する、

こうしたがまくんの姿から、権力構造から生まれる男性規範の特権的な笑いや性差別的な態度への抵抗を見出すことができるのである

p.27

という解釈であったり。

実は、私自身、「がまくんとかえるくん」がもっぱら「仲の良い友達」のお話として扱われることに、以前からなんとなく違和感を感じてきた(このシリーズは、日本語版はもちろん、元の英語版でも全部読んでいる)。いや、たしかに仲は良いのだが、少なくとも、学校教育で「お友達と仲良くしましょう」と言われるときの「仲の良い」というのとはちょっと違っていて、もっと密着度が高い感じ。

もちろんこれは、そうした関係性が良いとか悪いとか言いたいのではなく、私にとって引っかかっていたのは、学校規範的「仲良し」とはちょっと違うはずなのに、「がまくんとかえるくん」が仲良し物語として特に疑問なく扱われているふうであること。

そのため、今回の木村・上田・明尾論文の分析は、私にとって、そうしたモヤモヤを見事に解き明かし、作品への新たな見方、教材としての新たな可能性へと目を見開かせてくれるものだった。

先ほど挙げた、論文中の

こうしたがまくんの姿から、権力構造から生まれる男性規範の特権的な笑いや性差別的な態度への抵抗を見出すことができるのである

p.27

にしても、別に著者らは、この作品をそのように読むべきだ!と主張したいわけではないだろう。
むしろ、従来の「仲良し」枠組みでは見えなくさせられていた部分に光を当てようとするものだ。

クィアの視点から見ることによる、新たな読みの可能性。
教師がそうした可能性を知っておくことで、そして、「仲良し」枠組みからは流されかねない子どもの発言やつぶやきがきちんと受け止められることによって、きっと、救われる子、教室のなかで肩身の狭い思いをせずにすむ子が出てくるんじゃないかと思う。

私もまた、「がまくんとかえるくん」を、「仲の良い友達」の話ではなく、親密なカップルの話として読みましょう、などと言いたいのではない。
だいたい、子どもたち(あるいは、広く人間一般)にとって、そこの境界は、しばしば曖昧というか、グラデーションなんじゃないか。「友達」「恋人」で二分されない、多様で、流動的で、当人たちにとってもよく分かっているとは限らない関係性。
まさに、本論文でいうところの、「名づけ得ない関係性」。そのように読めるものが描かれていることの面白さ。

本論文の結び。

本論において示したように、「がまくんとかえるくん」の物語は、様々な社会的枠組みを攪乱しながら紡がれていく。教室の読みにおいて、「名づけ得ない」二人の関係を丁寧に言語化し交流し合うことができれば、従来の「友情」の概念そのものが揺さぶられ、解体・再構成される契機となろう。これは、作者の伝記的事実や、読者のセクシュアリティのみを関心事項とするのではなく、関係性を示す言葉自体を問い直すクィアの思弁的な実践となる。

p.29

学習科学の台頭で、学習プロセスのほうにもっぱら関心が向けられ、教材とどう向き合うかがおろそかにされがちな風潮がある(教育方法学もそこに加担しているかもしれない)。けれども、探究の学習を深めている人たちが口を揃えていうけれど、教材のことをよく知り、教師自身がそこに何事かを見出していなければ、学習プロセスだって深めようがない。
国語科教育学においてさえ、教科内容やら教材やらのことをすっ飛ばすような研究発表が見られる状況。そうしたなかでのこうした研究は、貴重かつ大事だなあと思う。

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