キュウリの歴史について
キュウリを漢字で書くと、胡瓜。
「胡」は西の方の外国を意味する言葉。
紀元前122年、漢の武帝の時代に張賽という人が、西域ペルシアのバクトリアからシルクロードを経て中国に持ち帰ったといわれ、その故事から、胡瓜とよばれるようになったらしい。
インド、ヒマラヤ山麓、シッキム地方がキュウリの生まれ故郷
C.ハードウィッキという野生植物がキュウリの先祖(原種)といわれていて、日本のネパールヒマラヤ探索隊もヒマラヤ山麓の標高1300~1700mの地域で野生キュウリを発見している。
現地では、川沿いの水分の多い湿度の高い砂質の土地で雑草化して生えていて、9月に花が咲いて、12月頃に実が熟す。実はカラスウリくらいの大きさで、トゲが黒く、はげしい苦みをもっているらしい。
ネパール付近には、苦みの少ない楕円形の実をつける品種が栽培されていて食用にされている。こうした仲間が長い歴史をかけて、色々な土地に伝わっていったと考えられている。
日本には、中国を経て10世紀少し前くらいに伝わったらしい。
別々のルートでいくつかの品種が入ってきている。
代表的なのが
・黒イボキュウリ(東南アジア~中国華南地方を経た華南系)
・白イボキュウリ(中央アジア~朝鮮を経た華北系)
日本最古の薬用辞典といわれる「本草和名」(918年)にキュウリの名前が出ていて、小型で汁が多く、和名「加賀宇利」と記されている。最初は、野菜としてよりも、薬用植物として知られていたらしい。
江戸時代の学者・貝原益軒は、「菜譜」という本の中で、キュウリのことを「瓜類の下品なり、味よからず小毒あり・・・」と書いていた。小毒とは苦みのことのようだが、江戸時代初期はあまり大事にされてなかった。
江戸時代の農産物は初物が人気で、高い取引がされていた。
「早出し」の競争が激しくなり、幕府から「早出し禁止令」を出して、シロウリは5月、マクワウリは6月など、出荷してもよい季節を決めたらしいが、キュウリは対象とならなかった。
そのことが逆に人気を高めるきっかけになったようだ。
昭和10年代に熊沢三郎は、大陸との比較で日本のキュウリを分類した。
それによると、当時の日本のキュウリは、華南系と華北系に大きく分れ、それにロシア経由で北から入ったピクルス型キュウリとの雑種が入り交じって存在していたらしい。
現在もずんぐり大きい特異な形で残る広島県福山市の「青大」は華南系。同じずんぐり型でも金沢の「加賀太」は、華南系と華北系の雑種である「加賀節成」に、東北から導入したピクルス系と華南系の雑種をかけ合わせて固定したものと言われている。
華南系は節成り性が強いものが多く、支柱栽培には不可欠の品種だった。しかし、この節成り性は日が長く高温になると衰えて雌花が付かなくなってしまうため、華南系の「相模半白」や埼玉の「落合節成」、「加賀節成」などは、夏までしか成らない「春キュウリ」と呼ばれていた。
これに対して、華北系キュウリは、低温での成長力や節成り性が弱く、親づるよりも子づるや孫づるに雌花を付け、暑くなってから成り始めるため、「夏キュウリ」と呼ばれ、五月以後に直まきして、親づるは摘芯し、子づるや孫づるを広げて地面に這わせて栽培する地這いキュウリとして定着した。
昭和30年に節成りで高温長日になってもなり続けることができるよう、九州農業試験場の熊沢三郎が品種改良して「夏節成」という品種を完成させた。
こうして、その後の支柱栽培用節成りキュウリを、黒イボから白イボに変えていき、昭和40年代半ばには全国のキュウリは白イボばかりになっていった。
同じ頃、ビニールハウスでのキュウリ栽培が普及した。もともと夏キュウリの白イボ節成りは、低温伸長性が弱かったため、低温伸長性の良いカボチャの台木に接木されて栽培されるようになった。接木栽培は、狭いハウスで周年連作栽培することも可能にした。
ハウスで周年栽培するようになると、虫が受粉しなくても実を付ける単為結果性が求められ、この性質はイギリスの温室用キュウリから導入され、日本の多くのキュウリが種なしキュウリに変わっていった。(または雌花しか持たない「夏節成」から単為結果性を獲得していたのかもしれない)
こうして複雑な交配を重ねた結果、日本のF1キュウリからは苦味と雄花と種が消えていった。
昭和60年代になると、台木カボチャの育成により、ブルームレスキュウリ(表面に白い粉がないつやのあるキュウリ)が登場し、現在広く出回っているキュウリができあがった。
参考としたもの
キュウリの絵本 (そだててあそぼう) | いなやま みつお, たかべ せいいち |本 | 通販 | Amazon