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「TOKYO女子けんこう部」を擁護する。

 「そんなの分かりきってる」「漢字で書かないなんて馬鹿にしている」という方は、自分が恵まれた環境に生きていることを一度客観視した方がいいかもしれない。
 自分の限られた世界、親と子の間で起こるような「子供扱いするな」という感情の発露を、世間に通用させようというのはどういうことか考えるべきだと思う。

 なぜこのような強い言葉で批判をするのか。それは他者の命と健康を守るための公の動きを、個人の解釈で萎縮させようとしているからだ。
 公の動きは私達のものであり、他者の身体や命は他者のものだ。
 『解釈』が左右できるものではない。
 そんなことができるのは人権が生まれる前に存在した特権階級くらいなのだが、せいぜい以下におかしいといえる点についてを簡潔を心がけて解説していきたいと思う。

 識字に関しハードルを持つ私の知り合いが、こういった排除の動きの被害者にならないことを祈る。

明らかに間違った解釈

ネット上のニュースにもなっているのでこのような捉え方が広まっていると考えてよいと思うが、東京都福祉保健局が発表したキャンペーンの

 TOKYO女子けんこう部 − 大切なわたしのからだ。チェックしよう。ケアしよう。

 こちらの『けんこう』の部分が、女性を馬鹿にしているという解釈による批判に晒されているのだ。

 以前の私の記事中でも似たようなことを書いたが、まず言葉にそれ以上の意味はそもそも備わっていない。
 言葉そのものの意味以上の捉え方が生じる場合とは、その捉え方が成り立つような出来事といった背景において、あるいは特殊な解釈をする人の意見上でというように限られた場合においてだ。

 つまりは、言葉そのものの意味ではない特殊な解釈が今広まっているということである。
(今現在は擁護のコメントが増えてきているが、キャンペーンのTwitterアカウントが発信したツイートの引用RTの初めの方をご覧頂ければその様子が多少なりともお分かり頂けるかと思う)

ひらがな表記について

 まずキャンペーンというのは、新規性や人の目を引くあるいはひと目で主旨を認識しやすいようにするためキャッチフレーズがよく用いられる。
 今回の件でいえば、行政機関の部局という印象にかぶらないように、また皆で取り組もうという意味合いから「健康」をひらがなとし、漫画による表現にもある声を掛け合うというニュアンスで「部」という言葉を用いたのであろう(もちろん断定するわけではない。キャンペーン発信元の方々の考慮の深さは私の比ではないだろう)。
 その監修担当として複数の医師や医学博士の名が連ねられている。
 「専門性を一般の人々のものとしよう」という私達の行政としての役割が分かりやすく現れている取り組みともいえる。

 「けんこう」について関心を呼び起こそうというのは明らかとは思うのだが、百歩譲って「女性が漢字も読めない存在」と決めつけるため「ひらがな」にしているというのなら、まず先に「女性」が「じょせい」とされていなくては意味が通らないのでは?
 「健康」という言葉自体に性別の要素はないのだから。

これは断じてフェミニズムではない

 一応だが、この件に対するコメントを追っていく中で「フェミニズム」という言葉が散見されるのでその点についても整理をしておきたい。

 フェミニズムとは、人権思想の広まりにともなう人権のひとつである参政権の平等を唱える運動の中で用いられたいわばキャッチフレーズである。
(市民が政治に関わるという点で関連性が高い、社会思想の一部で用いられた言葉でもある)

 ここは簡単な話なのだが、人権は命や身体が極めて重要な基礎のひとつになる。命を失えばそもそも人権を行使することもできないからだ。
 なので不当に危害を加えられないとか、不当な刑罰を受けることはないというものもしっかり人権の中に含まれている。

 私達一人ひとりと私達の人権を基礎にして成り立つ行政が、健康増進のキャンペーンを展開し、そこで分かりやすいキャッチフレーズを用いるのは当然のことである。
 そして私達の中には文字認識が苦手な方が存在することも、同じく当然のことだ。
 「分かりやすいキャッチフレーズ」とは平易な言葉を使うことでもある。言葉自体にその言葉の意味以上の特殊な意味がそもそもは存在していないからこそ、私達は言葉を共有することができ、分かりやすいフレーズで文字の認識の苦手な人にも届くよう配慮することができるのである。

 それを否定、萎縮させようとしているから、この排除の動きはフェミニズムではない。

表現の萎縮が生みだす最悪の結果

 「ひらがな表記は女性差別を助長する」

 これによってまず日本語のひらがなの扱い方が、女性差別だという認識を持つ人が大勢生まれかねない。この恐ろしさを皆さんに理解して欲しい。

 この動きによって「表現」が萎縮することになったら、「分かりやすい啓発運動」の展開にブレーキが以後かかることになる。

 私達の助け合いである「健康増進の運動」の声がけに引っかからなくなった人は、この「表現排除」の動きの犠牲者となりかねないのだ。
 なぜなら「分かりやすい表現」を潰すこととは助かるはずのタイミングを見逃す人を今以上に増加させかねないからである。これはがんの予防や飲酒等の危険性の周知をしているキャンペーンだと再確認して頂きたい。

 この表現抑圧と排除の動きが達成した社会を想像してみて欲しい。
 分かりやすいキャンペーンの喪失は早期発見に結びつく診察のきっかけの喪失が増加することを意味する。つまり「社会の声がけ」という助けが受けられなくなり、早期発見や予防のできなくなる人は人知れず無数に生まれる社会になるということだ。

 この下の一文はひらがな表記を潰そうとしている人に向けてのものと捉えて頂きたい。

 もし分かりやすい呼びかけが排除された社会になったなら。
 この呼びかけられるような病気の発見が遅れ健康を損ねた人は「あなたの分かりやすい表記排除の提唱が原因で啓発キャンペーンという治るチャンスを私は失った」とは言わない
 人知れず苦しみ、死ぬか健康を損ねた辛い人生を送っていく。

 そのようなことになりかねないのは、漢字が読めるあなた方には分かりきっていることだろう。
 分かりきっていながらその非人道的な提唱を、恥じることなくおおっぴらに行ってしまえるその神経こそ、啓発が呼びかけられて然るべきだ。

おわりに

 社会の表現の多様性を損ねることは、私達がお互いに思いやりを寄せる上で選ぶ人間の五感で感じ取れるような様々な手筋を、「見苦しい」と言いながら刃物でメッタ刺しにするような正気とは思えない行為である。

 ただ、「ひらがな表記は女性蔑視だ」という解釈で攻撃をしている方々が正気を失っていないことは確かだ。自分の正当化はためらいなくやっているようだから。

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