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農家の長男なのに別の田舎に移住して新規就農した奴 北アルプス高橋農園 農園主の半生

平成のある日、青森県黒石市で米・りんご農家の長男として生まれた。
今は長野県北安曇郡松川村で2020年に新規就農し、2.5haで無農薬有機穀物を栽培。ゆくゆくは師匠の経営も引き継ぐ予定になっている。

安曇野ちひろ公園 田んぼの教室の講師やってます

この事実を語ると、田舎の人ほど驚きの表情を浮かべる。
まぁ無理もない。農家に生まれたのに、別の田舎で農家をやるなんて奴、僕自身聞いたことも見たことも無いのだから。
青森で育ってから今までのその間、いったい何があったの?と自分でも思うのだから(笑)

ちょいと人生振り返ってみたい気分になったので、ここに半生を書き残してみようと思いました。読んだ人が得をするかどうかは知りませんが、まぁ読んでみてよ。けっこう長いけど(7000字以上)(笑)

平成のある日、青森県黒石市で農家の長男として生まれた

うちは、米、りんご、メロンを栽培する農家だった。
何代先から農家なのかは知らないが、たぶん何代も先からこの地の民だ。

じいちゃんは自身が15歳の頃、結核の前身の病?にかかり、その病に牛のげっぷが効くらしいということで(理解不能な迷信である)、牛を飼ったそうだ。搾った牛乳を自転車の後ろに乗せ、駅前の農協に出荷しに運ぶことが日課だった。
その農協で受付嬢をしていたのが、役人の娘である ばあちゃんだったそうだ。

その二人から父は生まれた。
姉が二人。三人兄弟で唯一の男子だった父は、強制的に後継ぎになる。
じいちゃんは厳しい人だった。農民であることに誇りを持ち、戦後容赦なく剥奪されていく農民の権利や生活を守るため、積極的に農民運動したそうだ。地域の常識の一歩先をいくことを実践して結果を出していたため、地域内での信頼は厚かった。しかしその確固たる思いと凛とした姿勢とは家族にも変わらないため、じいちゃんと父の小競り合いはしょっちゅうだった。

バブル後半、景気が良く「高卒後とりあえず企業に就職」が常識だった中、父は家に入って農業をする以外の選択肢を与えられなかった。

釣りやスキーなどの外遊びが好きだった父は、スキー場で銀行員の娘である母と出会い結婚。
ほどなくして僕が生まれた。長男として。

地元について書いた記事 ↓

幼少期からの生い立ち

僕が生まれる前の年、東北は歴史的な冷害に遭い、米は大減収。
その翌年、僕が生まれた年は後にりんご台風と呼ばれる台風により、赤く実ったりんごが強風でかなり落ちてしまった。2年連続で青森の農家はガックリと肩を落とした。
それを受けて父は次の一手としてメロン栽培に着手した。
地域では誰もやったことがなかったことだが、親戚が青果場を営んでいて販路は確保できていた。夜明け前、バイクのエンジンをかけ、1時間半ほど走ってメロン産地の農家を訪ね、早朝の仕事を手伝いながら栽培のノウハウを学んだ。
そしてある日100メートルのビニールハウスが6本、りんご地帯の真ん中に突如現れた。この手の初期投資の資金は冬の出稼ぎから賄ったそうだ。
父さんもじいちゃんも非常に斬新で大胆な人だと思う。

そのビニールハウスも、りんご畑も、物心ついた時から僕の遊び場だった。
クズメロンをビニールハウスの外に投げ出しておくと、翌朝カブトムシが来ていたり、もみ殻堆肥の中には小さなミミズがウジャウジャいたり。
よく土と生き物をいじくって遊んだ。

小学生になると、よく田畑に駆り出され農作業をさせられた。
4年生にもなると、運搬機などの簡単な農機具の操作も任せられ、半人前くらいの労働力にはなっていたと思う。
しかし、ダメだしが多い父の手伝いをする時間は嫌だった。今思えば「仕事のできる奴になってほしい」という意思の表れだったのだと思うこともできるが、当時は理不尽に怒られて本当に嫌だった。ただ、鍛えられた部分もあった。今も荒天時の仕事がへっちゃらだったりする。

運搬機ってこんな機械です

僕が通った小学校は学年30人1クラスだったため、6年間クラスメイトは変わらない。30人兄弟のような関係だったようにも思う。
少年期の僕は、勉強も運動も平均よりも少しだけできたけど、これといって飛び抜けた才能はなかった。高校3年まで唯一クラスで一番を取り続けたのは、体力測定の握力だけだった。それ以外は凡人。

座ったまま勉強するのが嫌いで、学校の授業は基本つまらない。授業中何度も教室の時計を見て、放課後が来るのを待った。
放課後は僕にとって最高にエキサイティングな時間だった。こっちが本命。
学校から家まで徒歩30分ほどの帰り道を友達とふざけながら帰るのが最高だった。そして帰宅後は友達の家に遊びに行くのが平日のルーティン。

とりわけ最高の遊び場だったのが、お寺だ。クラスメイトに山寺の息子がいて、仲が良かった。うちから自転車で登坂を30分。毎回汗だくで「お邪魔しまーす!」
とにかく部屋数が多くて、あらゆる場所で遊んだ。神聖な場である本堂でもハチャメチャに遊ばせてもらった。太鼓とチーンってやつ叩き放題。大晦日に撞く大鐘も撞き放題。ご近所さんはいないから、どんな大きな音を出しても誰にも何にも言われない。
住職であるそいつのお父さんも僕らのハチャメチャな遊びを何も言わず見守ってくれた。

実際に撞いた大鐘

広大な敷地では、鬼ごっこや缶蹴り。かくれんぼは隠れる場所無限大でエンドレス。かくれんぼ1セットを1時間以上かけてやるなんてザラだった。秋には落ち葉を集めでそこにダイブ。子供だけでの焼き芋会は年を重ねるごとに焼き加減を調節できるようになった。
お寺の行事があると饅頭などがおやつに出てきて、あんこ好きの僕は至福。
檀家さんからあげられる品々もすごい。酒は当時飲めなかったが、よく乾物をもらって食べた。冬は雪遊びしたあと、ストーブであぶったスルメをしゃぶりながらテレビゲーム。
なんて贅沢な少年時代を過ごさせてもらったんだろう。と今思う。

中学へ上がると、もう一校と合わさり、学年60人になった。ここからがなかなか酸っぱくて苦い思春期だったと思う。
荒れ狂った不良もどきが授業妨害。先生が殴られる。先生の財布が盗まれる。教室で喫煙。校内で爆竹。火災報知器を鳴らしまくるイタズラ。などなど。。。僕はというと見てるだけ。関わりたくないので目立たないよう努めた。放課後、学校の駐車場にパトカーが停まっているのを尻目に、野球部の練習に励んだ。
あまりに授業にならないため、3年になると成績順で3クラスに分かれて授業した。僕は成績上位クラスで学ぶことができたが、学業が社会に出た時に役立つイメージができず勉強は進まない。受験がプレッシャーで毎日腹をくだしていた。「受験生」というワードを聞くだけで腹がギュルギュルくだるような苦しい日々で、逃避するように友達とPSPのモンスターハンターに励んだ。(武器は双剣派)

父は「やりたいことがあるなら、そっちへ進んでもいい。中卒でも問題ない。」と言ってくれたが、高校進学以外の選択肢なんて知らないし、やりたいことなんて特になかった。同級生のみんなが進学を目指す中、自分もそれ以外の選択肢などなかった。結局「ものづくりを仕事にしたい」という思いで工業高校へ進学した。

工業高校へ

桜の名所である弘前公園が通学路

高校は隣町の弘前にあったため、電車と自転車で毎日通学した。新しく始めた硬式テニスの部活動が楽しすぎて夢中になった。学業は、結局7割は普通科の科目と同じだし座学だし、退屈だったが、実技自習だけは心躍った。(特に旋盤など機械加工が好きだった)

これまた逃避していたが、卒業というものは必ず訪れる。
僕は青森県内の工場から内定をもらえた。東日本大震災のあった年だった。

就職したのは実家から車で30分ほどの五所川原にある半導体工場。
五所川原は冬はよく吹雪く街と有名だったため、入社前に確かめに行ったら見たこともない猛烈な吹雪にビビった。車通勤を避け、社員寮に入って一人暮らしを始めることにした。

半導体とは簡単に言うと電子チップの中身のことであり、その工場の技術職(エンジニア)として働いた。実習ということで交代勤務のライン作業員(オペレータ)も数か月経験したが、基本は技術職で平常勤務。
上司や先輩には恵まれたから良かったけど、この頃の僕はかなり生意気な小僧だっただろう。社会をなめ腐っていた。
というのも、成りたくて社会人になった訳じゃないし週5日会社に通って働きたい訳ではなかったからだ。学生の時と同じように、当たり前のように義務が与えられて、それをこなす日々だった。心から楽しいなんて仕事の中にはなかったし、どこか不貞腐れているような態度だったかもしれない。

仲の良い友達はみんな県外で出て行ってしまい、同期入社は自分他二人だけ。孤独を感じていた。入社1年目の秋には憧れだったバイクの免許を取り、仕事終わりによくバイクで真っ暗な里山を走った。

なりたくない大人になっていっている自分を認めたくなかった。

プライベートはまぁまぁ充実していて、仕事はまぁまぁ以下の高卒社会人生活

それでもこの会社に居続ける以外の選択肢なんて持っていなかったので、自分なりに必死で仕事には食らい付いていった。…だけどやっぱり望んでいない生活を送る自分自身に不満を募らせていき、会社に居る意味を少しずつ失っていく。

退職を決断するきっかけの一つは、「派遣切り」だった。当時その会社は、ルネサスグループだったのが富士電機グループに買収され、製造するものが変わっていく時期だったため、工場は一時的に収益が落ち込む時期だったのだ。僕は社員だったのでボーナスカットくらいで済んだが、右も左もわからない僕の面倒をよく見てくれていた派遣の事務のおばちゃんたちが切られていくのがとにかく悲しかった。19歳の僕は同期の同僚と共に、居酒屋で送別会を開いた。もちろん社員であり宴をひらいた側の僕たちが支払おうと決めていたのだけど、派遣のおばちゃんたちは僕たちへの餞別だということで支払いを先に済ませていた。なんてこった。彼女たちの自給は、高卒の僕たちの自給よりも低くボーナスもない、しかもみんな家庭がある。
「高橋君、頑張ってね」 自分の無力さと人の優しさに触れて、その夜は涙が止まらなかった。この経験は、こうした理不尽な出来事はなぜ起こるのかと考え始めるきっかけとなった。と同時に経済に仁義はないという事だけは理解した。

入社して丸3年経った春、その会社を去った。
その年の暮れ、世界一周の旅に出るという事だけを決断して。

「達者でな」

当時の上司からの別れの一言は忘れられない。
本当に人に恵まれている人生である。

(このタイミングで両親は離婚するのだけど、自分のことで精一杯)

地球一周の船旅ピースボートで人生の選択肢を増やす

退社して1カ月後、kawasakiのバリオスⅡに小さなバックパックをくくり付けて上京した。(この時からバックパッカー)

太平洋沿いをずっと下道で
何度も迷子になった
見たことない東北を見て回った道中 岩手県 奇跡の一本松
今よりもアホっぽいな

先に東京で暮らしていたあの山寺の息子、マサのアパートに転がり込んで、旅に出るまで居候させてもらいつつ、アルバイトとピースボートのボランティアスタッフ活動(ボランティア割引制度があって船賃が割引になる)に励んだ。想定外の辛いことやキツいことは多々あったけど、腹くくって父に宣言した以上二言はない。同じく乗船を目指す仲間に恵まれて色んな壁を乗り越えられた。(ここで妻と出会いナンパされ交際が始まった。妻は僕よりひとつ先の船旅で世界を巡った。)

2016年12月 ピースボート第90回クルーズが出航した
初海外。「これで人生を変える!」と意気込み横浜大さん橋から旅に出た。

カンボジア スナハイ村の小学校で子供たちと
カンボジア アンコールワット
ナミビア ムーンランドスケープ
南アフリカ ケープタウン テーブルマウンテン登山
マダガスカル 現地福祉施設での交流 逆スリーピースしてるあたり調子乗ってる様子が分かる

2017年3月 105日の旅を終え、横浜に帰ってきた。
人生は変わったか?
そりゃもう変わりました。何がどう変わったか当時説明はできなかったけど、”自分が決断したことをやり遂げる”という最高の成功体験を手にすることができた。

無敵になれるアイテムを手にした僕は

無敵になれるアイテム=”自分が決断したことをやり遂げる”という最強のアイテム を手にした僕は、その時々に気が向く所への冒険を繰り返した。

北海道利尻島でリゾートバイト、
十勝でファームステイ、
地元弘前でファームステイ、
実家の農作業手伝い、
長野県北信でリゾートバイト、
韓国旅行、
東南アジアバックパック旅。

この先どう生きるかのヒントをがむしゃらに探し回った結果僕は、気が付いたら”小さな思想”を手に入れていた。

東南アジア旅の一幕 インドネシア ジョグジャカルタで友達カップルと
仏教遺跡で合掌しているが、特に仏教思想に目覚めた訳ではない

次の旅先は安曇野というノリで移住。当時23歳、貯金4万円、所持品はバックパック一つといくつかの夢。

僕自身としては、もう3年くらいはノラリクラリ風来坊して色んなものに触れたかったのだけど、当時のガールフレンド(現在の妻)が「今すぐ田舎で農的な暮らしを始めたい!」と、一緒に行った東南アジアバックパック旅の最中に強く思ったらしく、「うーん。じゃあそうするか。」

何もあてが無いまま、長野県安曇野に。

しかし想像外なことに、2週間、3週間と、時は流れ、移住先探しは難航した。(さすがに無計画すぎた)
すぐに受け入れてくれる所はなかなか見つからなかった。

見通しがつかないまま、たった数万円の貯金残高は減っていく一方で墜落寸前。
「ねぇこれ無謀じゃね?いったんどこかで住み込みバイトでもして出直さない?」と彼女には何度も言ったが、彼女はなぜか必ずハマるところがあると確信していた。
で、冬の雪かきはしたくなかったため、北限と定めていた松川村の役場に立ち寄ったら、「地域おこし協力隊の募集があります。実は募集かけたのだけど応募がなくて定員割れしてしまった。」「役場からすぐそばの、あの空き家貸してくれるんじゃないか?持ち主に聞いてみるよ。」

という流れで、仕事と家が僕たちにピッタリとハマったのだった。
そして松川村役場の職員の対応の速さと、僕たち(若者)を必要としてくれている感じがとてもよかった。他の行政では感じられなかった雰囲気だった。それはまだ朝晩は冷え込む、3月のことだった。

そこから地域おこし協力隊をベースとした村生活が始まるわけですが、詳細は過去記事に譲ります。↓

~そして現在に至る。

移住当時の夢だった自給自足は、現在半分は達成している。(食料自給100パーセント超え)
次は住まいとエネルギー分野に着手していきたいが、そのための拠点を手に入れ次第進めていきたい。

社会へ出て11年経ったが、そのうち6年を既に松川村で過ごしている。
今の自分に対して「すごい」とか「羨ましい」とか言う人が出てきたけど、とんでもない。
あの頃、無情にも派遣切りされたおばちゃんたちのように、理不尽に狩られる人を助けられる力はいまだに持つことはできていない。無力さはあの頃のまま。

ただ、松川村に移ってから、高校を選んだ時から自分の人生の軸であり続けていた「モノづくりがしたい」という願いに光明が差した。
モノづくりの断片した経験してこなかった僕が、(父の農作業の手伝い、半導体エンジニアとしての仕事など)一通りの工程を手掛けて、それが評価された時、自分のやりたいモノづくりはこれだ!という感覚を掴んだのだ。
今後も、こうしたモノづくりを人生の軸に据えていこうと思っている。

これからの夢

①生業となった農業 では、
 「バックパック一つで移住した若僧が、廃れていく業界でのし上がっていくストーリー」を描き切って一区切りとしたい。輸入が始まってから価格破壊され、見捨てられつつある品目、大豆、麦、雑穀を経営の柱におきつつ日本農業界に逆転の一手を提案するところまではやり切りたい。変化が激しい現代で、何年続けて”成し遂げた”と言えるか分からないが、ともかく納得いくところまでやってみたい。
難易度は極めて高い。農業は"厳しい"を越え"壊滅"を始めている。
その中で成功することに意味があるのだ。

②自給自足レベルを上げ、資本主義のその先へ
 7年前、マルクスの資本論に触れ、この社会の行く末は自分なりに想像できた。今考察し直しても、その大筋は変わらない。そしてマルクスが懸念していた状況が、ここ数年で急加速しているように感じるから、自分自身の暮らしも変革を急がねばならないと思っている。

拠点を手に入れ、自給自足レベルを上げなければならない。
それは今世、人間として生きることをしっかりと味わうため必要な基盤だ。
仕事においても、暮らしにおいても、自分を解放し、喜びを感じまくる状態にいくのが7年前から変わらない夢だ。

最後に

こんな駄文を最後まで読んでくれた方、本当にお疲れ様でした。
はてさて、あなたのためになる内容はあったでしょうか?
たぶんだけど、なかったかよね(笑)

こうして自分自身を振り返ってみて思ったことは、
蛙の子は蛙ということだ。

ゲロゲーロ


しかし自分が何者だとしても、人生はRPG

常に物語が面白くなる選択を続けていこう。

今が人生で一番楽しい状態でいられたら、苦い過去さえも気づいたら陽転してるし、未来にも希望を感じられるはずだ。







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