行方不明の時間
友人が茨木のり子の『行方不明の時間』という詩の朗読をSNSで投稿していて、それを聞いてみると、まるで今の自分のように思えた。
「身を隠したい」と何度も思ったことがあった。内向的な本来の自分を、幼少期からの家の躾もあって、許されないものだと生きてきた。強迫観念に囚われてきた。内向的なことは恥ずかしいこと、内向的なことは価値のないこと、内向的なことはダサいこと。そんなふうに。
フランスに来て最初の頃、パリから1時間程の郊外にある師匠の家に住んでいた。キッチンも付いている快適で広い部屋を借りていた。
ある週末、私は一人で自分の部屋にいた。
大家である私の師匠は
「ミチコ、週末なのに遊びに行かないの?ダサいわよ」と言った。
貶された気がした。でも、この感覚、覚えてる。昔よくあった、このバカにされてる感じ。自分の人生と時間なのに、人に持っていかれるような気分。
今は思う。
家での気ままな一人の時間の何がいけないんだろう。
社会から離れて、ボーッとする時間。ただ寝続けたっていい、好きな本を読んだっていい、編み物したっていい、洗濯して、珈琲飲んで、好きなお菓子作って、美味しいもの食べて、物思いに耽って。それの何がダサいんだ?
っつか、その「ダサい」って私を思った人、別にあんたの人生とは関係ないし、あなたに迷惑かけてないよね?
社交的であれ。活動的であれ。エネルギッシュであれ。
確かにその方が世の中を渡っていける。正しい。たぶん。でも、ちょっと待って。それが万人に当てはまることじゃないって。いつも当てはまることじゃないって。
最近、自己肯定感とか、承認欲求とか、ダイバーシティとか、SDGsとか聞く言葉。
多様性を認めなかった長い時代があって、やっとみんながSNSで気づき始めたんじゃないか。貧困問題は、今に始まったわけでもなく昔からあった。それが露呈して今どうしようと言い始めてる。環境問題もそう。不平等をなくす?なくならないです。でも、不平等であることを認め合うことで、少しは話が通じるんじゃないかと。
承認欲求は、社会では死活問題になるから「一生懸命、頑張って生きてます!」を見せて《大変よくできました》の印をもらう。そうしないと自己肯定すらできないから。
人のために役に立ちたいと思って生きてきたのに、ここで大崩壊した。「人のためより、まず自分のために生きろ」と、病んだ身体から聞こえた。人の役に立ちたいは幻想だった。自分が良き人間であるための言い訳だった。まず自分を大切にしたいと心の深いところから感じる。
普通か、特別か。
そんなことに承認欲求が絡んだら、本当に厄介。
でも、世の中は、特別なものに飛びつく。競争で勝ったものに目がいく。特にSNSで人をみて比較する感覚、それについての感想を投稿する人々。マーケティングに使うのに徹すれば本当に素晴らしいツールだ。私は自分にとって特別で、社会にとって普通でいられたら、それが一番幸せだ。
世の中が考えたモラルに生きるのではなくて、
自分が生きていて幸せと思う感覚を。
『行方不明の時間』 茨木のり子
人間には
行方不明の時間が必要です。
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです
三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ
遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です
所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐに戻れ>や<今 どこに?>に
答えるために
遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり圏外であったりすれば
絶望はさらに深まるだろう
シャツ一枚 打ち振るよりも
私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです
目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ