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その店のコーヒーが、好きだった

最初、その番組名が思い出せなかったけれど、「山本シュウ 辺見えみり 番組」と検索をすると、それが「ミュージックパーク」というタイトルだったという事が分かった。

僕が中学1年生の終わり頃に、大江千里さんがその番組にゲスト出演をした。
ファンクラブ「Senri Station Kids」の会報「Scramble Egg」でその情報を知ったのではないかと思うけれど、「大好きな千ちゃんがテレビに出る!!」と大興奮のタカハシ少年。
とは言え深夜の番組だったから、当時の僕は起きていられず、VHSに録画をしたものを観た。
確かシングル「Two of Us」をリリースした頃のはずで、番組終わりにMVの一部が流れていた気がする。

その番組でロケしていたのが自由が丘。
千里さんが上京して最初に住んだ町だという紹介の下、自由が丘を散策。
当時あった玩具店などに寄りつつ、山本シュウ、辺見えみり、大江千里、の3人が入った喫茶店。
そこで千里さんが当時のエピソード(自由が丘に住んでいた当時は物怖じしてその喫茶店に入れなかった、とか)を語るシーンがあったのだけれど、それを観た僕は「ここに行きたい!千ちゃんの座った椅子に座りたい!!」と想いが爆発。

タカハシ少年は父のマップル(地図本)を引っ張り出し、訪れた事のない未知の町「自由が丘」という地名を探す。どのような道を通れば良いのかを調べる。
よし、大体方向感は分かった。
行ってみよう!
自転車で。
そう、当時の僕らの「足」は電車ではなく専ら自転車だったのだ。

当時の同級生を道連れに、僕を含め4人で連れ立って一路自由が丘へ。
多分、1時間半くらい、それこそ「夢中で錆びたペダルを漕いだ」のではなかろうか。
今思い返せば「千ちゃんの行った喫茶店に行って、千ちゃんの座った椅子に座りたい!」という、クラスメイトの訳の分からない思いつきと発言に付き合ってくれた同級生たちには感謝しかない。

ようやく辿り着いた自由が丘、目的地である件の喫茶店の木製ドアを開ける。
今まで感じた事のない緊張感。肌で感じる初めての空気感。中学生では場違いのような店内。

マスターはクセのある人で、来店する人によってはきっと「合う」「合わない」があるのだろうけど、中学生が4人もノコノコ来店したのが珍しかったのか、僕らにはとても良く接してくれた。
「ここ、こないだの番組で大江千里さんが座ってた席ですよね!?」
まさにその席に腰掛けた興奮気味の少年が尋ねると、マスターは「あんな下らない番組なんか見てるんじゃないよ」と笑った。

その後も似たメンツで連れ立って何度か来店したけれど、何かのノベルティなのか、ワイン入れのベロア生地の袋をくれたり、当時自由が丘にあった「武蔵野館」という映画館のチケットをくれたり、行く度にマスターは僕らに何かを持たせてくれた。

中学を卒業後も、高校、大学、その後も、その喫茶店には折に触れて足を運んでいた。
いつ行ってもメニューは出されない。実はメニューなんてものは無かったのかもしれない。
僕はいつもコーヒーを頼んで、マスターはいつも「ビール飲みなよ」と勧めた。
「ビールは好きじゃない」とか「昼間からお酒を飲みたくない」とか言って断ったり、車で来ていて飲めなかったりで、一度もマスターのお店ではお酒を飲んだことが無かった。

今年の夏、ふと思い出して、久しぶりに行ってみようと思い、長期休業等になったりしていないか、インターネットで調べてみる。
今年は初めてあの店でビールを注文してみようかな、なんて思いながら。

すると、今年の6月で閉店したとの情報が。
更に調べると、その喫茶店のあった場所には、既にバナナジュース専門店が出来ているとの情報も。

妙な脱力感。
確かに、いつまでもあるとは思っていなかったけれど、それでもやっぱり妙な虚無感。
最後に行ったのはいつだったかな。

初めてあの店で口にしたアイスコーヒーに感じたような、酸味の無い苦味が口の中に広がる。
僕は最後まで、あの店のコーヒーの味しか知らなかった。

町は変わる。景色も変わる。
何かが増えれば、何かが消える。
僕があの町に足を運ぶ理由も、ひとつなくなってしまった、2020年の夏。

先に立たないのが後悔だな、とひとりごちながら、自宅でドリップしたコーヒーをすする。

ちょっと気持ちが向いた時に、サポートしてもらえたら、ちょっと嬉しい。 でも本当は、すごく嬉しい。