#7「river side walking(room rec ver.)楽曲解説
重なる時は重なるものだ。
2023年は僕にとって別れの年だった。
叔父と叔母が続けて亡くなった。
年に一度の餅つきの時くらいしか会う機会がなくなっていたけど、いろんなことを教わったように思う。
ナスが食べられるようになったのは、この夫婦のおかげ。
10代の頃からお世話になっていたバーのマスターが亡くなった。
ちょっと偏屈で、照れ屋から来る無愛想も慣れれば可愛らしいと思えるような人。
「邂逅」というイベントを開催したんだけど、ライブの様子が音声でスタエフに残ってるから今でもちょっとだけ声が聞ける。
飼い猫が亡くなった。
晩年はトイレもうまく使えず、見ていても辛かったから逆に楽になったんじゃないかと思えるけど、それでも家族だった。
若い頃はかなり尖った奴だったけど、晩年は甘えてたなぁ。
友人が亡くなった。
僕の人生に大きく関わった人。まさかと思った。
"死"ってなんだか理解できない。
いや、わかるんだけど、なんだかフワフワしてしまって未だ捉えることができない。
腑に落ちないというか。
知ってる人(猫)だと尚更で、なんだろう?理解することを拒否してるみたいな感じ?
僕の高専時代の恩師の言葉で、
「頭の中にあるだけでは存在しないのと同じ。表現してこそ"考え"と言える」
そんな意味だったと思う。知行合一?
歌にするのってやっぱり記憶や感情と向き合うし、それを言葉やメロディに置き換えて理解し直してるのかもしれない。自分の中にあるだけでは、捉えられない。
今回「river side walking」を作って歌ったことで、友人の死と自分を分離させられたというか、自分の中にあった形ないモヤモヤをちゃんと箱の中に入れて外から見られるように形付けたというか。
今思ったけど、「檸檬」の時と逆だ。
モヤモヤに名前をつけないで、モヤモヤをモヤモヤのまま持っていようってのが「檸檬」だとしたら、"死"という捉えきれず直視しがたいものを"歌"という入れ物に入れることで、一旦落ち着かせる。
真正面から向き合うには、ちょっと大き過ぎるものはディフォルメすることで受け止めやすくなるのかも。
アルバム制作の真っ只中、昨年の秋に亡くなった友人の場合は前述の通り僕の人生に大きく関わった人で、受け止めるとか受け止めないというより、未だに疑ってるみたいな状態。
ただ、今回こそ自分と分離させないと心にまとわりついて身動きが取れないなぁと感じたので、「river side walking」を借りて別ver.を録音した。
room rec ver.と名前をつけたのはそのまんまの意味で、部屋で録音したから。
僕の音源でベースは打ち込むことが多いんだけど、今回は自分で弾いた。
なんか、出来ることは自分でやりたかった。
チェロは打ち込み。これは弾けない。
アコースティックサウンドにチェロが入るのが好き。
気持ちが盛り上がる。
演奏は16分でハネてて、いわゆるシャッフルのリズムなんだけど、歌はところどころハネてない。
ハネて歌ってみたりもしたんだけど、なんかリズミカルになっちゃってイメージとその時の気分にそぐわなかったから、思いに任せてハネずに歌った。
セオリーじゃないけど、なんか、この時はこうするしかなくて。
聞いてて気持ち悪かったらごめんなさい。
いつか、この友人にも歌が作れるだろうか。
作んないかもしれないし。
わかんない。
本当に死んだのか、実はまだちょっと疑ってるしね。
とりあえず、そういうことにしておこう。
と、そのくらいがちょうどいい。
のかもしれない。
なんとなく。