かのように
こんばんは!
何でも自由にやりたい!という欲求
この欲求が強い時
どうやってそれを満たすのが良いのでしょうか?
自分がやりたいことをする?
孔子は
「かのように」行動する「礼」
という考え方を推奨しています
わたしたちは真実というものを重んじるが、実際は、親しい者同士は、しょっちゅう罪のないウソをついて新しい現実を築いている。「あなたって最高」、「心配しなくていいんだよ」、「こんなにおいしい料理、生まれてはじめてだ」などがそうだ。なかでもよく使われるのは、「愛してる」だ。口癖のようにこの台詞を交わしているカップルも、おそらく年がら年じゅう心からの愛を感じているわけではない。まずまちがいなく、時には相手に対していろいろ複雑な感情もいだくはずだ。しかし、「愛してる」と口にする礼によって、現実から離脱してどの瞬間も互いに心から愛し合っているかのようにいられる空間へ行き、二人の関係をはぐくむことには大義名分がある。カップルが〈かのように〉の愛を口にする瞬間、二人は本当に相手を愛しているのだ。(本書、六一頁)
こうした具体例を通じて、ピュエットが強調しているのは、人間が自己を変化させ、よりよく人間的になるためには、かのように振る舞う礼の実践が不可欠だということだ。それは現実をはみ出す次元でありながらも、現実を変えていく力をもつ。礼は、決して強力な規範ではなく、日常にとどまるささやかな規範だ。しかし、それは、今日考えられうるよりましな規範なのである。
人生の脈絡や複雑さを凌駕(りょうが)する倫理的、道徳的な枠組みはない。あるのはわずらわしい現実世界だけで、わたしたちはそのなかで努力して自己を磨く以外ない。ありきたりの〈かのように〉の礼こそ、新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段だ。人生は日常にはじまり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる。(同、七八頁)
そうであるかのように生きる
ということが大切と言っているのだと
僕は解釈しています
なので
何でも自由にやりたい!
と思った時にそれを実現させるためには
何でも自由にやっているかのような人になる必要があり
何でも自由にやっているかのような世界を作る必要があるのです
そのために
自分がどんな言動を選択したら
何でも自由にやっているかのような世界に住むことができるかを
考えていくわけです
なので
ありのままの自分で自由にやりたい!というのは
その人が求めている
何でも自由にやりたい!という世界を作るのとは
少し違うなと僕は思っています
もちろん
「かのような礼」という考え方には
これだという一つの答えはありません
結局は
自分がこういう世界を作り出したいと思った時に
どんな「かのような」世界を作ればいいか?
そのために自分はどんな「かのような」役割を演じればいいのか?
という問いかけをして
その答えを実践していくということです
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