日本の音大に未来はあるか ④ (深掘りLIVE #39 文字起こし記事)
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深掘りLIVE #39 日本の音大に未来はあるか? ④
日本の音大の歴史的起源と内部の壁
深堀ライブの39個目ですね。
「日本の音大に未来はあるか」のその4ということで、これは実はnote記事で最初執筆を始めたんですが、もう深堀ライブに切り替えて、ここで語っていこうという形で、これまで1,2,3と話をしてきました。
その1では、日本の音大がクラシック音楽に偏ってきたという話を中心にお話をさせていただきました。音楽にはもっと多様性、普遍性があるんじゃないかということと、にもかかわらず、なぜそうなってしまったか。
これ実は当たり前じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、例えば東京芸術大学を見ると、あそこにはもともと東京美術学校と東京音楽学校があったんですが、東京音楽学校は西洋音楽一辺倒、東京美術大学、美術学校の方は日本画一辺倒、というか日本画中心だったんですね。
この対照は非常に面白いと思うんですが、これには実は歴史的な理由と起源があるんですね。
しかも、これは別のとこでも話しましたが、東京芸大一つしか芸術系の国立大学を作らなかった問題もあるんですが、それともう一つは、音楽学部と美術学部がもう完全な2つの大学のような状態だったということがあります。今はどうなのか知りませんが、依然として学部、学科の壁は高いと、いろんな壁がそびえ立っているという問題が実はあるわけですね。
それも全部、明治期に遡って歴史的な起源があるんですが、そのことはさておき、その2では少し久しぶりに深堀ライブをやったわけですが、日本の音楽大学は単なる音大だけの問題じゃないということで、今述べた国公立の芸大のスタンダード、そして私立音大のモデル、これが別々に打ち立てられてきたという話を少し詳しくしています。
そんな中で今日本の音大は非常に困難を抱えているわけですね。先に広がっていく可能性が見えない、むしろすぼんでいくという可能性しか見えていない。そこで必死になって新コースを作ったりするんですが、やはり発想が狭すぎるという気がしていますね。
つまり音楽の普遍性、多様性にどこまで本当に根差しているのか。西洋音楽を一つの中心に据えることはいいんだけれども、やっぱり中心主義ですね、西洋中心主義から脱却できていない、いまだにですね、できていないというふうに私は思っているということです。
そしてその3では日本の音大の歴史にさらに触れながら、特にユニバーシティの中に入れてもらえなかったという話は、結構、大きな問題点で、アメリカとかも典型ですけれども、ユニバーシティの中に音楽学部があるということですね。逆に言えば日本にはユニバーシティがないと。
つまり音楽学部、美術学部、デザイン学部、ダンス&パフォーマンス学部などを持ったユニバーシティが日本には非常に少ない、ほとんどない。東京芸大、東京大学含めてですね。
ここまで芸術系を持っていないユニバーシティというのは、もう日本の特殊的な現象で、これもやっぱり明治以来の官僚養成とかね、そういった国策に沿った形で国立大学が整備されて、さらに高等教育を要求する動きがどんどんその後、出てくる中で、それは国公立が担った部分もありますが、むしろ私立大学に全て任せてしまうというね。日本の文部行政全体の問題も実はあるんじゃないかなと思ってますが、そんな中でユニバーシティ内部にも壁がある。
つまりユニバーシティの中を見ても学部ごとの壁は高いわけですね。法学部と医学部の間には壁があるとかね。学部間の壁が非常に高い、ユニバーシティですら。他学部他学科の科目を自由に学ぶっていうことが本当に日本のユニバーシティはしにくいというね。これも弊害だと思ってるわけですが、そんな話。
そして音大内部には音大内部の壁があるんだという。そんな話をしながら、私の音大経験で一般教育科目、音楽科目をカリキュラム改革をした話などにも触れさせていただきました。
ユニバーシティ内部の壁
今日は4回目ということなんですが、何をお話ししようかということで、前回予告してた通り内部の壁の話ですね。音大内部の壁の話を少ししていきたい。
ただこの音大内部の壁っていうのは音大だけの問題じゃなくて、先ほども言ったように日本のユニバーシティに共通する、日本の大学文化全体に共通する専門ばかの壁というふうに言ってもいいですが、その専門しか学べない壁っていうのが、これがあるんですね。
ユニバーシティの場合には法学部に入ったら法学部だけ、あるゼミに入ったらもうそのゼミだけ。複数のゼミを掛け持ちするなんてことはあんまりできない。
今はだいぶ変わってきましたけど、それでもやっぱり一つのゼミっていう考え方があるんですが、これは、例えば音大でいうとダブルレッスンみたいなことがなかなか認められなかったんですね。一人のレッスンの先生、いわゆる門下ですね。門下に入ると他の先生にあんまり見てほしくない。
時々、客員とかで一時的に見てもらうのはいいけれども、恒常的に2人の先生に学ぶというね。それこそ医者で言えば、お医者さんがセカンドオピニオンを嫌がるのと一緒で、主治医が2人いますとか言えないというのと全く同じ問題がここにはあると思うんですが、これ自体の問題ですね。
学部の壁・学科の壁・研究室の壁
日本のユニバーシティはやっぱり学部・学科・研究室、昔は講座制っていうのがあって、教授を筆頭にするね。やはり大学の中にさらに学部の壁があり、学科の壁があり、そして研究室の壁があるっていうね。そういう壁をとにかく立てるのが大好きなのが日本の大学だっていうふうに思ってるんですが、この壁をそびえ立たせている限り、白い巨塔じゃないですけれども、壁をそびえ立たせている限り、日本の大学の発展はないというふうに思ってるんで、この壁を壊すことはとても重要だと。
ユニバーシティの壁、内部の壁、ユニバーシティと音大・芸大との間にある壁、そして音楽大学の中にある壁ですね。こういったものはもうとことん壊していった方がいいだろうというふうに思ってるわけです。
音大内部の壁
これをちょっと具体的な話でしていきますと、例えば、音大の話しましょうかね。音大の未来を考えるですから。例えば、昔は学科がたくさんあったんですね。ピアノ学科、あるいは器楽学科、そして管弦打楽科、管弦打楽のコースだったり学科だったりがあったわけです。それから声楽学科。
昔はあれですね、私が勤めてたところは器楽学科はピアノと管弦打楽でまとめられてたんですが、大所帯だったんですが、第一器楽と第二器楽って言って、第一器楽がピアノ、第二器楽が管弦打楽って。これなんで第一、第二なんだっていうね。もうだったら4つ作ればいいじゃないですか、第一、第二、第三、第四。あるいは、もうそういった第一、第二って、二つに分ける必要はないだろうと。
これは内部運営上そういう風に学科を、大きかったので教員の数も多かったので、2つに分けてたっていう便宜上の問題もあるんですが、実はそれだけの問題ではないわけですね。見えない壁が、あるいは見える壁がたくさんそこにはあるわけです。それから声楽学科、音楽教育学科、作曲学科などがあったわけです。
カリキュラムの壁
この学科ごとにカリキュラムが作られていた。だから音楽教育学科で開設されている科目はピアノ科の学生、ピアノ学科の学生は取れないということが平気であったのが20世紀末までの話です、私がいたところはね。ただ今でもそれをやっている大学はもしかしたらあるかもしれません。
他学科、他専攻、他コースの学生は履修不可とかいうね、科目があるとしたらその音大はもうすでに終わっていると私は思います。なぜ履修不可にする必要があるのかですね。学びたい人がいて、受け入れる余地さえあれば、それは学ぶ機会を保証する。これが大学の本来のあり方であり、それが高等教育としての本来のあり方ですね。
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