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「育てる大学、育つ大学」をつくる ② (深掘りLIVE #34 文字起こし記事)

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深掘りLIVE #34 「育てる大学、育つ大学」をつくる ②

深堀ライブの34個目ですね。「育てる大学、育つ大学をつくる」のその2をやりたいと思います。前回その1は、4月の30日にやりました。

育てる大学、育つ大学とは?

この「育てる大学、育つ大学」っていうのは、私が考えたフレーズなんですね。こういうキャッチコピーであるべきだと。大学はね。

それをどういう経緯でそういうふうに思ったのかという話も、経験に基づいて少しお話ししていきたいのと、それから、そもそもここに表現されていることっていうのはなんなのか。これが結構、大事なことだと思ってるんですが、そのあたりのことも少しお話していきたいと思います。

前回は、大学のそもそもの目的で、例えばFランクなんて言い方。私大っ嫌いなんですが、Fランなんて言い方ありますけれども、実は大学進学率が上がる中で、大学にはミスマッチが起きたんですね。

育つべき学生と日本の大学とのミスマッチは深刻

つまり、そもそもエリート養成の高等教育として始まった日本の大学が、大衆化段階、ユニバーサル化段階を迎えて、そこで大学が提供しているもの、大学教員が目的とするもの、あるいはこういうふうに育てようと思っていること、そういったことと、実際に入ってくる学生との間のミスマッチ、ギャップですね。これが生じたわけです。そして、これは未だに埋まっていないということです。

その時に、この問題を解決する出発点は、「育てる大学、育つ大学」だというふうに私は思ったということです。そこで、少しこれを噛み砕いてお話していこうと思います。

今日お話ししたいのは、「育てる」「育つ」の意味が一つ。それからもう一つは、こういう「育てる大学、育つ大学」であるべきだというふうに私が思った、具体的な経験に即した話。この2つが柱になるかなと思っています。

育てるとはどういうことか? 育つとはどういうことか?

根本的な考え方として、そもそも「育てる」というのはどういうことか。これ子育てでも、何でもいいです。育てる。

教育全般に関わることです。育てる、そして育つ。

「育つ」というのは、学習者本人、子供、主体ですね。そちらが育つということですよね。植物でもそうですよね。自ら育つ。あるいは肥料や栄養をもらって育つわけです。

育てる」というのは、これは他者が関わるわけです。他者が関わって育てる。問題は、育てようとしてるんだけど、逆にスポイルしてしまう。育て損なってしまう。あるいは、育つことを阻害してしまうということが起きるわけです。あるいは、育てようと思って、いろんなことに取り組んでいろんなものを与えようとするんだけど、逆にそれが植物を枯らしてしまう育つ力を奪ってしまうなんてこともあるわけです。

育てるのではなく育つ

これがいわゆる「教育」っていうものの本質に関わるものなんですが、それは教えるというよりもやっぱり「学ぶ」だし、育てるっていうよりもやっぱり「育つ」なんだというふうに私は思ってるわけです。

要するに、上手に育てないと育つものも育たない。上手に教えないと、学ぶことをせずに、教えられたままにそれをそのまま飲み込む。あるいはそれを器用に、その場限りで使いこなすみたいな話になりかねないわけです。

だから、教育っていうのは非常に奥深くて、人が育つ、動物が育つ、植物が育つ、みんなそうなんですが、永遠のテーマなんですよね。

日本の大学教育っていうのは、そういう意味では失敗してきていると思ってるわけです。上手に育てられていない。上手に育っていない。だから、いろんな面での人材不足も生じるということだと思っているわけです。

日本の教育はなぜ失敗してきたのか?

日本の高等教育、大学教育。実はこれ高等教育、大学教育だけじゃないんですけども、日本の教育はなぜどうして失敗してきたのかっていう話は、これはこれでまた私なりのいろんな見解はあるわけです。それについてもいずれどこかでいろいろとお話ししてみたいと思いますし、それについてはいろいろ議論を戦わせてもいいんだろうなと思うんですが、やっぱりまずは根本なんですよね。

この「育てる大学、育つ大学」に込めた意味も含めてですけど、それはいま言った教育の根本ですね。

人が育つことの原点に立ち戻る

生き物が育つ、生物も含めてね、人が育つということはどういうことなのかっていうことをやっぱり一度、原点に立ち戻って考え直さないと、大学教育、高等教育はダメなんじゃないかと思うんですよね。既にルーティンになっている目の前にあることを一生懸命やってもダメだと。

例えば、最近はなくなりましたけど、だいぶ「寄り添って」「寄り添う」なんて言葉も、結構流行ったわけですけども。寄り添う教育をするみたいな。

ただ、寄り添ってるだけで育つかって言うと、そうでもないんですよね。実はね。もちろん寄り添うことは大事なんですが、寄り添ってるだけで育つんだったら、そんな楽なことはないわけですよね。

植物すら育てられないのに人を育てることはできない

昔、これはキッチンでしたか、吉本ばななさんのつぐみでしたか、キッチンだったと思うんですけど、小説がありましたね。吉本ばななが、少し年長のおばさんかなんかにあたる人に言われるんですよね。「何か育ててみるといいのよ」と。

植物でも何でもいいから育ててみるといいのよって。そうすることで自分の弱さもわかるし限界もわかるんだっていう言い方をしていましたが、これ要するに、植物をちゃんと育てられますかってことなんですよね。動物をちゃんと育てられますかってことなんですよね。犬でも猫でもいいし、本当に植物でもいいんです。植物、あるいは稲でもいいです。

これ、野菜すら植物すら動物すら育てられない人に、なぜ人間が育てられるのかっていうことなんですよね。育てる、あるいは、ある生物がすくすくと健やかに育つっていうことには手間暇もかかるし、下手に肥やし与えすぎても枯れちゃうわけですよね。

原点を見失うと育つものも育たない

そこの原点を見失うと、結局、育つものも育たない。実際、今、本当に育ってんのかっていう話ですよね。全般的にやっぱり、教育に失敗してきてる部分がある。もちろん具体的な一つ一つを見ていけば、いい教育をやっていると。ああ、この子は育ったねというのもあるけども、そうじゃない場面のほうがやっぱり目につくわけですよね。それは違うだろうっていうことがある。

これはもう本当にいろんな考え方があるんですけど、やっぱり一番、起点、中心に置かなきゃいけないのは、やっぱり学生が育つっていうことです。大学においてはね。あるいは高校までの教育においては、生徒、児童が育つということです。

育てようとすることでかえって育つ力が奪われる

そういう「育つ」教育を本当にしてるのかっていうことなんですよね。むしろ、育てよう育てようとすることで、育つ力を奪ってしまってはいないかという、こういう話なんですね。

あんまり抽象論ばっかり話しててもいけないのですが、私自身は結局、だいぶ昔に思ったのは、育てようとしてるときに、ここまで持ってこようと要するに到達点を上に置くんですよね。ここまで引き上げようと。ここまで持ってこようっていう「教える」側の基準で、あるところに持っていこうとするわけです。

社内教育とかでもそうですよね。いろんな面でここに持ってこようと。研究者を育てるときもそうですよね。ここに持ってこようとするわけですよね。そういう育て方は、やっぱりこれは教育ではないと。

到達点に持ってくるのではなく、到達点から出発する

むしろ、到達点はもちろんあっていいんだけども、それは例えば、植物が育って到達点を超えるっていうのは、その植物を上手に育てたから、その植物の自力の力で育って、他の影響も受けながら栄養も受けながら、それで育って、そこの到達点をたまたまクリアするだけの話であって、ある到達点にここまで伸びろと言って伸びるもんじゃないわけですよね。

だから、ある教える対象がいて、その人が今ここにいると。1か2のところに。これを10に持ってくるっていう、この教え方はやっぱり失敗すると。そうじゃなくて、1とか2の人は、3になり4になり5になりっていう。しかもそれは、教えられて育つんじゃなくて、自ら1になり2になり3になりっていう力を身につけないと育たないっていうことですよね。

だから、いかに自ら育つ力を身につけるかそのために必要な関わり方ができるか、ここが一番重要だと思うんです。

ありきたりの言葉で言えば、その人その人の一人一人の今の到達点を出発点に、個性を尊重して、主体性を尊重して育てるってことなんだけど、これは口で言うのは簡単なんだけど、じゃあ実際にどうするとそうなるのかっていうことですよね。


講義で人は育つのか

例えば、大学には講義というものがあって、いまだに講義がメインで、学生の時間のたぶん半分以上は講義で奪われているんじゃないですかね。これ学部とか大学院行くとまた違うでしょうけど、研究とかゼミとかの割合増えるでしょうけど。

例えば、私は法学部、文系の大学にいましたけども、ゼミは週1回でしたよね。あとは講義ですよ。これそんなに変わってないんじゃないですかね。なんで、講義主体の教育をいまだに大学でやってるのかそれで本当に育つ力が伸びるのかっていう問題ですね。端的に言えばね。

そもそも育つ力がなければ講義は栄養にならない

私は、講義という形式では、育つ力は育たない。あるいは育つ力を持ってる人は、そこで自ら講義を栄養にして育っていくだろうけれども、育つ力をそもそもね、それほど明確に持ってない場合、主体的に育つ力を持ってない場合っていうのは、講義、いくら講義の場に時間を拘束して課題を与えてレポートを書かせても育たないと。

やっぱり今一番私が思うのは、講義形式の授業って本当に大学にどこまで必要なのかということなんですよね。それは育つことに本当に役に立ってるのか

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