「死に甲斐」とは何か一臨終の瞬間

●あなたの「死に甲斐」は何ですか?一草柳大蔵氏とのテレビ対談
 渡部昇一氏と毎月行っていたテレビ東京の対談番組でも人生論について議論したことがあるが、最も印象に残っているのは、草柳大蔵氏と毎月行っていた仙台テレビの対談番組で「死に甲斐」について語り合ったことである。
 対談の前日に仙台のおいしい料理を御馳走になるのが慣例となっていたが、翌日の対談のテーマを知らされたことがない。対談の当日の朝、地元の友人たちとジョギングをされてテレビ収録の直前にスタジオ入りされ、今日はこのテーマで話しましょうと知らされるのである。あらかじめテーマを知らせると準備してつまらない建前論に陥る危険性があると思われたのであろう。
 実に多様なテーマを収録直前に告げられて30代の私には戸惑うことが多かったが、昭和天皇が崩御された折に行われた平成元年の対談で、「今日は死に甲斐について語りましょう」と言われて頭が真っ白になってしまった。大学生たちと「人生の生き甲斐」については大いに話し合ってきたが、「死に甲斐」については全く考えたことがなかったからである。何を語ればいいか全くアイデアが浮かばなかった。
 戸惑っている私に、草柳さんは『あなたの「死にがい」は何ですか?一人生五計説による人生談義一』(福武文庫)という私の著書を知らないのですか、と質問され、次のように語られた。
 「僕は、以前『あなたの「死にがい」は何ですか』という本を書いたことがあるんです。生き甲斐論が全盛の時だったから、皆さんに驚かれたんです。でもね、どういう姿で死んでいくかのゴールが見えなければ、毎日をどう生きるかなんて分からないでしょう。そう考えたからなんですがね。その本の中で、俳人の飯田蛇笏が晩年、どんな心境であったかに触れたんです。蛇笏は次々と肉親に死なれましてね。一人はフィリピンで戦線で戦死。また一人は外蒙古のラーゲリで事故死。父親は肺炎、母親は胃癌。たった一人兵隊に行かずに残った子供は、肺結核で亡くなる。ついに、蛇笏だけがひとり残された。しかし、そのとき「誰彼もあらず一天自尊の秋」と詠むんです。幸福論で見ていくと、そういう心境で死んでいく人間が放つ光というのは物凄い。本が出たあと、読者から700通を超えるお手紙をいただいたんですが、その部分に共鳴しましたという方が多かった。」

●「人生五計説」とは何か?
 草柳さんは東大法学部を卒業後、新聞記者を経て文筆活動に入り、NHK放送文化賞、文藝春秋読者賞などを受賞され、娘の文恵さんはミス東京として注目された方である。『あなたの「死にがい」は何ですか』という本のサブタイトルである「人生五計説」とは一体何か?
 これは宋の朱新仲が説いた説であるが、「五計」とは、生計、家計、老計、死計である。
 まず第1の「生計」とは、日本語の「生計」とは意味が違い、自分に与えられた生命をいかに大事に全うするか、そのための計画、を意味している。
 第2の「身計」は、「身を立てる」ことで、必ずしも日本語の「立身出世」の意味ではなく、社会生活、社会活動をいかに整斉と送ってゆくか、そのための心構えを意味している。
 第3の「家計」は、経済のことであり、第4の「老計」は、「年老いて何を成すべきか」ではなく、「いかに年をとっていくか」への計画である。
 第5の「死計」は、要するに「死に甲斐」論のことで、どんな思いで死を迎えるか、死ぬ時に自分の人生をどのように総括するか、を問うことである。
 「いかに死んでゆくか」は「いかに生きるか」に繋がっており、「五計」は円環の思想といえる。孔子が『論語』の中で説いた「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という言葉は反語的表現であるが、これは、生を突き詰めて考えない人に死がわかるか、ということを意味している。
 今日の日本人に最も欠けているのは、この「死生観」ではないか。そこで、「死生観」の出発点である第一の「生計」から考えてみたい。哲学者のプラトンは古代ギリシャの社会について次のように述べている。

 「家庭にあっては親は子供を怖れ、教室にあっては教師は生徒の機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、社会にあっては年長者は若者から頭が固いとか権威主義的と言われるのを怖れて、軽口と冗談ばかり言っているようになった」

全盲中学生が訴えたこと一「与える喜びを通して与えられる有難さの意味」
 今日の日本とそっくりである点が興味深いが、一体なぜこれ程似ているのか。草柳さんは、それは国家や社会に規範がなくなったからだ、と指摘している。現代の若者は自分の人生を決定してしまうような“何か”に巡り合うことが少なくなっており、「人生をいかに生きるべきか」という根本的な命題を投げかける人物が輩出しなくなったことが大きな原因ではないか、という訳である。
 朱新仲の言う「生計」は、当然、健康が計画の主軸になる。私達夫婦はホノルルマラソン、カウアイマラソン、マウイマラソンなどハワイ4島のマラソン大会の全ての下見をして、出場を目指して準備してきたが、京都大学の品川嘉也教授は、走っていると、道路の方が走ってくるように思えたり、道端の木や花が盛んに語りかけてくるのがわかる、というような見事なジョギングをしておられる。
 「生計」とは、単に健康法を中心にした生活を言うのではなく、自分の身体を使いまわすことを意味している。「生計論」の中心になるテーマは、「生の充実とは何か」ということである。
 この点に関連して、草柳さんは「青少年育成国民会議」が主催した「少年の主張全国大会」の作文集に掲載された神田知佳という中学2年生の一文を紹介している。
 神田さんは小学校4年生の時に失明し、大阪府立盲学校に通ったが、全盲になった時は深い絶望に陥り、心が冷たく凍ったと作文に書いている。ところが、彼女は「光と自由を失って、もっと素晴らしいことがあることを知った。それは人の心の優しさだ」と気づいたという。
 3か月間、毎朝電車に乗ると決まって学校の近くの信号まで手引きをしてくれる女の人がいて、その人の手の温もりを通じて、彼女は「心の優しさ」を理解するようになった。「でも、ふと疑問に思うことがある」として、次のように述べている。

「それは、与えられることが多く、与えることが少ないものが、本当に人の心の優しさを理解することができるだろうかということです。いつの日にか、与える喜びを通して与えられる有難さの本当の意味を、私は知らなければならない。」

 草柳さんは、「いま中学生が訴えたいこと」という文章の中に彼女の作文を発見した時、「生の充実」を「与える喜び」に求めようとしているこの少女に私たちが忘れかけていた、大変重要なテーマを突き付けられる思いがして愕然としたという。
●千利休の「詫茶」・『葉隠』の「常住死身」の精神と「死計
 次に、第2の「身計」とは、世の中を有意義に生き抜いてゆくための出処進退を常に自覚的に捉えよ、ということである。第3の「家計」とは「家をととのえる計画」である。
 第4の「老計」の代表例として、草柳さんは松永安左衛門と飯田蛇笏の二人を取り上げている。松永安左衛門は晩年、色紙を求められると「美しく死ぬよりも美しく老いる方が難しい」と書いたが、含蓄深い言葉である。また、第5の「死計」の代表的人物として、草柳さんは千利休を取り上げ、大要次のように述べている。
 豊臣秀吉が千利休の死を命じてから刑を執行するまでの日数から判断すると、秀吉は刑の執行を何度もためらったと思われる。秀吉は利休が謝ってくるのを待っていたのではないか。
 しかし、利休はあえて「死」を受容することによって、自分の「生命」を後世に伝え、権勢・富・武力等々に対抗する世界一二畳の侘(わび)茶という精神の完成品を守ったのではないか。茶の湯は手段ではなく生き方そのものであり、「死」によって菅原道真以上の永遠の生命を勝ち得たのではないか。
 呂心吾という学者は『呻吟語』という本の中で、「貧しきは羞ずるにたらず、羞ずべきはこれ貧しくして、しかも志なきなり。老ゆるは嘆くにたらず、嘆くべきは、これ老いてしかもむなしく生きるなり」と述べている。
 「志」の失われた時代に本当の「生き甲斐」が語られるわけがない。「志」がないということは、常に現状を肯定し、これと妥協し陽の当たるところに身を置くという態度を許容する。つまり、「生計」を喪失するわけであるが、「生計」のない人間に「死計」のありようはない。
 草柳さんによれば、『葉隠』の真髄は、「毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生、越(おち)度なく、家職を仕果すべきなり」という一節にあるという。
 『葉隠』の説く「常住死身」という死計は、実は生の充実、ということで、充実した生その切断面にはそのまま終わっていいという境地があるのではないか、というわけである。
臨終の瞬間にニコッと笑った父一「また 会おうね」
 私の妻の父は61歳で癌で亡くなったが、亡くなる10日前に私たちが住んでいる東京のマンションにやってきて、「最後の別れを言いに来た」と言って、葬式の司会から挨拶まですべて指示し、「最後は故郷の秩父の畳の上で死にたい」と言い、タクシーで秩父の実家に着いて45分後に医者が「ご臨終です」と告げた。
 死を覚悟している父と10日間、どういう人生をどんな気持ちで生きてきたか、今どんな気持ちか等、とことん生と死について語りつくしたが、医者が「ご臨終です」と告げた時には、もう父の意識はなかったが、最後の瞬間に父がニコッと笑ったので、思わず妻が「笑った」と叫んだ。
 10日間で肉体は劇的に死に向かって変化していったが、父の心は全く乱れなかった。その鮮やかな光景は一生忘れないが、その姿に触れて、人間の価値は、生きているうちに何を成したかよりも、どんな気持ちで死ねるかではないかと思った。
 たとえ寝たきりになっても、世の中に何の貢献ができなくなっても、豊かな心で生き死ねる「幸せ」な心が若者に生きる勇気を与えるのではないか。「死に甲斐」論から考えると、そういう心境で死んでいく人間が放つ光はものすごい、と実感した。オスカー・ワイルドは「悲しみの奥に聖地がある」と述べたが、父の死は栄光に近い実感を伴うものであった。
 その時のことを妻は次のような詩にし、「ありがとうの歌」を作詞・作曲した(髙橋こずえ詩集『ありがとうの音色を響かせて』(MOKU選書、参照)。

     また 会おうね

今でも 思い出すと 涙が出そうになります
二十三年も前のことなのに

父の臨終の枕辺 父がにこっと笑った瞬間
先生が「十二時十六分です」
えっ! 何! 何! 「十二時十六分?」

父がニコッと笑ったので
昏睡に入った父が目覚めたと 私は思ったのです
でも それが臨終の瞬間だったのです

そして 息を引き取った父に
主人が言いました 「また 会おうね」

「また会おうね」
本当に また 会うのですよね

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