48年目の結婚記念日に、妻と二人で米英加で取り組んだエピソードを回想する

 3月2日は48年目の結婚記念日で生涯忘れならない日となった。73年間の我が人生を振り返ると、何よりも懐かしく思い出されるのは、車でアメリカ大陸を1日平均800キロ走って何度も横断し、以下の大学や研究機関を妻と二人で駆け巡ったことである。イギリスとカナダにも足を運んだ。

①    メリーランド州立大学マッケルディン図書館(プランゲ文庫・ジャステ
 ィン・ウィリアムズ文書)
②    英サセックス大学(ゴーラー文書)
③    ヴァッサー大学(ベネディクト文書)
④    スタンフォード大学フーバー研究所(トレイナー・フェラーズ文書)
⑤    コロンビア大学バトラー図書館(太平洋問題調査会文書)
⑥    オレゴン大学ナイト図書館(ウッダード文書)
⑦    スワースモア大学図書館(ヘレン・ミアーズ文書)
⑧    ハーバード大学ホートン図書館(グルー文書)
⑨    マッカーサー記念館(フェラーズ文書)
⑩    米国議会図書館(マーガレッド・ミード文書)
⑪    同別館(ナショナル・アーカイブスⅡ)一GHQ・OSS・OWI文書
⑫    トルーマン大統領図書館(バンス・トルーマン文書)
⑬    英国立公文書館(機密文書)
⑭    英戦争博物館
⑮    カナダ国立公文書館(機密文書)
⑯    UCLA図書館(ブラッドフォード・スミス文書)

 大陸横断中は、朝早くホテルを出発し、休憩しないで一気に目的地に向かうのが常であったため、私が居眠りをしないように、助手席で妻が語り続けてくれた。幼児期の思い出話を昨日の出来事のように生々しく語り続ける妻の熱弁のお陰で、眠らずに済んだ。さすがに喋り続けて疲れて居眠りをする妻に「居眠りしないで」と注意すると、「私だって何時間も喋り続けられないわよ」と言って大笑いしたことが懐かしく思い出される。
 雪が降りしきるワシントンD.C.郊外のメリーランド州立大学をフルサイズのアメリカ車に布団を積んで大陸を横断し、サンフランシスコの南に位置するスタンフォード大学に到着した時には、半袖姿でローラースケートで大学に向かう学生の姿を見て、冬と夏が同居しているアメリカの広さと違いに驚嘆した。
 スタンフォード大学に留学している日本人の妻の大多数は日本人同士の付き合いが多いと思われたが、私の妻は積極的に授業を聴講し、スタンフォード大学の教授婦人たちと交流し、着物のデモンストレーションを行い、帯の「結びの精神」について説明すると、「こずえ、そのことについてもう一度詳しく説明して」と深い関心を集めた。
 大学の広告版にスタンフォード大学の学生との交流希望の掲示を貼り、私が神道指令草案が発見できなくて、神道の専門家の葦津珍彦氏のアドバイスを得るために一時帰国した折にも、妻は交流していた学生のモンタナ州にある豪邸に滞在して過ごした。空港で出迎えてくれた友人が妻が同行していないので「離婚したのか?」と心配してくれたが、妻はアメリカ生活を満喫していた。
 自転車で短パン姿で走り回り、小学生に着物を紹介するイベント(モデルは私)では、小学校の先生が「何か質問はない?」と尋ねると、「どうして日本人は鼻が低いの?」と質問し、私は妻の鼻を見ながら爆笑したが、先生は当惑して可笑しかった。高校で日本料理の授業を頼まれ、海苔で包んだおにぎりを作った時に、海苔を食べたことのない高校生から「海苔はどんな味がするの?」と質問され、「太平洋の味がする」と即答したユーモアにも驚いた。
 スタンフォード大学の学長夫人から「日本の布団」を頼まれ、日本の実家(埼玉県秩父市で秩父銘仙の織物業を営んでいた)から材料を取り寄せて、アメリカ旅行をしていた私の母も手伝って、布団をつくりプレゼントしたところ、家族全員分を作ってほしいと頼まれ、全員分を作ってプレゼントした。学長の公邸なので、見学者も多く、ベッドの上に布団を敷き、妻が書いた説明文が添えられており、文化交流に役立っている。
 私は隣の家に住む高校の高齢の英語教師の英語塾に通ったため、典型的なジャパニーズ・イングリッシュの発音であるのに対して、妻は美しいイギリスのクイーン・イングリッシュの発音で、3か月遅れて訪米したにもかかわらず、いきなり「I can speak English well」と寝言で言ったので驚いた。渡米直後に電車でボストンに向かう車中、数時間英語で会話し続けている姿を見て、文法と読解力では負けないが、会話力は月とスッポンであった。

妻の回想
 親学推進議員連盟に事実無根の妨害工作が加わって、親学推進運動が挫折し、その責任を取って会長を辞任し、失意のどん底にあった年に京都大学の中西輝政教授から、『菊と刀』の著者であるルース・ベネディクトの文書を調べなければ占領政策の根本的問題点は解明できないとアドバイスされ、「災いを転じて福と為す」べく、占領文書研究の戻った当時のことを、妻は次のように綴っている。
 
 日本占領史研究の旅の新しいスタートは、平成24年の押し迫った頃、寒いニューヨークの小さな町から始まった。小さな郊外の空港に着いたのは夜、そこから目的の町までは車で暗い道をいく。
 緊張感と心細さはあったが、空港でホテルのことや車の手配をしてくれた女性が親切であったのが救われた。車の運転手さんも温かい感じの人だったので、暗い道も彼の車の中で安心できた。
 宿泊するところに着いたときは、少し侘しかった。でも部屋は温かく、湯タブに浸かることができ、日本からの長旅だったので、幸せだった。
 小さな町の大学から再スタートした研究の旅、寒く緊張の連続だった。
その大学の研究を終え、列車でニューヨークも町に着いた時も緊張した。地下鉄で大学へ行くときも緊張した。大学で登録するのも緊張した。こうして綴りながら、緊張という語が連発するのは、それがこの研究の旅の特徴なのかもしれない。
 考えてみると、はじめての大学に研究登録にいくときの緊張。登録する時の緊張。スペシャルコレクションルームでの資料を探す緊張。資料を扱う緊張。しっかりとデーターをカメラに収められたかどうかの緊張。コピーをする時の緊張。
 季節は寒いか暑いかの頃。夕方図書館を出ると寒く、只々疲れ。そして研究の旅を何度か繰り返し、ロスで日本の方々と出会うまで、ずっと二人だけの旅だった。その時折出会う人たちは親切な人が多かったけれど、頼れるのは二人だけ。助け合うのも二人。24時間ずっと二人で支え合ってきた。
 一番大変だったなと思いだすのは、日本からアメリカを通過し、ロンドンに朝早く到着、そこからバスで3時間近く移動。降りてから重い荷物を運びながら、海の横の寒い道を40分歩いてホテルまで。
 到着するや否やゴーラー文書が保存されているサセックス大学に行き、さあ、どうぞ、この中から研究したいテーマのボックスを選んでください、と言われて膨大な資料を提示された。あの町は本当は素敵な町なのに、旅行者なら入りたい店が沢山あるのに、まったくその気にならず、大学とホテルを往復し、無事為すべきことをなすことしか関心がなかった。
 ふたりで、苦笑いする思い出となった。でも、出会う人は皆温かく親切だった。ワシントンD.C.のホテルでも、あっという間にホテルの人や車寄せの人に受け入れてもらった。心付を渡すとき、心を込めて合掌して渡したら、私たちを見るとみんな合掌してくれた。
 朝のフロント、車を運んでくれる人、戻ってきたときホテルの前にいる人、みんな、みんな合掌して送り出し、迎えてくれた。「次はいつ来るの?」と何度か聞かれた。
 近くのレストランに帽子を忘れた時、道を渡って若いボーイさんが追いかけてきてくれた姿も印象的で、心から感謝した。次の旅のとき、そのレストラン入っていくと私たちのことを覚えていた。帽子の御礼をいうと、「今日は忘れないでね」とにっこりした。
 メリーランド州立大学に行くと、初めて異国で30年以上前に滞在したときの、私の中の独特の香り、空気、雰囲気、気持ちに戻る。30年以上前、夏から冬にかけての半年の滞在。友と呼べる人たちと出会ったことが心の豊さになった。
 冬のメリーランドを出発し、道しかないようなところを車で走りながら、突然現れる町にびっくりしながら、大陸を横断し、カリフォルニアの町に移動したときのことはよく思い出す。
 スタンフォード大学のまち、パロアルトは大好きな町で、大好きな人たちと出会い、本当に温かい人間関係の時をすごした。スタンフォード大学に着き、当時住んでいたアパートに行くが、あのころとまったく同じ形と庭、塗り直しをした壁の色もあの当時と同じで、只々懐かしい。
 そして、お世話になった方のもとに行く。今はもう、記憶や意識が遠い世界にいってしまっているが、それでも訪れて、手をとり、あのころしてもらった色々のことをひとつひとつ話し、ありがとう、ありがとうと語りかける。私も涙がでるが、あの方の目にも涙が浮かぶ。
 スタンフォード大学で研究するときは、不思議と他のところより緊張しない。大好きだったこの町に、両方の両親が訪れたこの町にもう一度住みたいかといえば、否である。あの時が最高だった。私の中でも、私の中の町としても。
 ロスは30年以上前には数度訪れたが、怖いという印象が残っていて、このように頻繁に訪れるようになるとは思ってもみなかった。沢山の方々に会った。思いを共有した。中でも浅井さんに会えたことは、神様のプレゼントと思える。多くの人に愛され、前向きで、光の方を向いて、謙虚で、自分には厳しいが他人には物腰も心も優しい。自分のことは自分でする。生きた分だけ高まり、深まり、素敵になった方という感じがする。私もこんな風になりたい。なれるのだという希望が湧いてくる。年を重ねて、人に希望を与えられるような人になりたい。
 研究の旅はまだまだ続くと思う。
2人からのスタートの背後に神様や先人や御先祖様や両親の愛と支えと導きがあったことを片時も忘れてはならない。改めて、ありがとうと感謝し、次のステップへ進んでいきたい。今の夢は、目に見えない力から「いい人間だね。良く生きたね。」と微笑まれるような生き方をしたい。
 

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