消すに消せない。
衆議院選挙が終わった。
身も心も疲れ切った選挙戦だった。
選挙前に書き始めたのだが、時間がなくなり忘れかけていたnoteを思い出した。文章を成就させなければならない使命感から季節感で若干のズレを感じつつ最後まで仕上げてみた。
いまさらだが今年も短い夏が終了した。
私は季節の中で一番好きなのは夏である。
何故好きかと言えば、天気が良くて気持ちが前向きになりやすい気候だからであろう。理由はそれだけではないのだが、どんより曇っているよりかは晴天の方が人は好むのではないかと思う。
雨や曇りの多い日本の自殺率と、昨日も今日も明日も晴れであるアメリカ西海岸の自殺率は比較にならないほどかけ離れている。というよりも、どんなに貧困でも自殺するという概念がないのではないかとも思える。
天候が理由かは定かではないが、その可能性も否定できないと感じる。
話は変わるが、私は生まれながらにして海の近くで育っていることから、夏になると当たり前のように海に行く。ここ3年はSUPにハマり、今年はレースに参加するほどにまでなった。
子供の頃から海に行くと見慣れた風景として、刺青を入れた方々が気合の入った女性と楽しそうに酒を飲んだり、海水浴をしたりしている。私にとってはごく当たり前の風景だった。
二十歳過ぎから通っている関屋浜は今もその風景は健在だ。いや、部分的に健在と言った方が正しいであろう。
子供の頃から大きく変わったと言えば刺青の絵柄。昔は観音様とか花とか龍とか虎とか、日本古来の絵柄が多かったが、ここ数年はなんて書いてあるかわからない英語や、大手コーヒーチェーン店のシンボルマークみたいなものとか、ドラゴンクエストのアイテムみたいな刺青が多い。
子供の頃からそんな方々と何かと触れ合う機会があったからか、それなりに絵の入った人達を知っている。昔はヤンチャだったのかもしれないが、あくまでも普通の仕事をしている方々ばかりである。
そんな知り合いと話をしている時に、彼が「たまには広い風呂にはいりたいんだよなぁ」と言った。昭和チックな昔からある銭湯であれば入浴可能な所もあるかもしれないが、一般的な公衆浴場は刺青入店禁止だ。
だったら刺青なんて入れなきゃよかったじゃねえか、と思う反面、時代がファッションとして受け入れてきた背景もあり、外国人アーティストやスポーツ選手など、当たり前にテレビや雑誌など社会に露出し憧れの人物として扱えば、そりゃ真似する人だって出てくると思う。
現在の日本の社会では、未だ受け入れない分野や否定的な考えが根強く残っている。理由として日本では刺青の入った方々の素行が歴史的に良くないことが原因だろう。歴史は塗り替えられないのと同じで、刺青も入れたら消せない。
昨今、何かと「多様性」という言葉が使われる。LGBTQがよく例えらえるが、そこで問題視されるのが公衆浴場やトイレといった棲み分けだ。
LGBTQの議論のように明らかな拒否反応、もしくは、なりすましによる犯罪の可能性が考えられるのであれば話は別だが、刺青の話で例えれば、令和の今の時代に刺青入りの人が公衆浴場で暴れるとは到底思えない。
暴力団対策法が成立して以来、その筋の方々に対して取締りが厳しくなり、代わりに若干グレーな反グレが生まれ、そんな反グレでさえ稼げないから裏社会では闇バイトなる仕事が生まれる。
つまり日本の刺青の歴史的な背景と、現代の犯罪とは、もはや結びつかないくらい現在の刺青文化は社会的にもファッションとして認められたものに近くなっているのではないかと考えている。
仮に、真面目に生きてるただのアニメオタクが、好きすぎて入れた絵柄が「僕のヒーローアカデミア」とか「推しの子」だったら歴史的な定義づけをどう説明できるのか(笑)
今後、昔ながらの日本の刺青文化の概念を上書きするくらいのことをするのであれば、大谷翔平選手や芦田愛菜ちゃんくらいが入れない限り、何となく排除されがちな文化は変わらないだろう。
そんなことを思いながら、大きい風呂に入りたい知り合いは、ひとり海に立ち尽くすのであった。