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Aogumo と諦念と広告と


①アンダーZ世代は諦念を知る?!


皆さんは「Aogumo」と言うシンガーソングライターが歌う「曲名はまだないです」という曲をご存知でしょうか?

僕は、ある人からお勧めされるまで全く知らなかったのですが、一聴して驚愕しました!混じり気のないハイトーンボイスから繰り出される、多言で赤裸々でリアルな感情を表現した歌詞がとにかく素晴らしく、界隈で人気が出始めていのは充分すぎるほど納得出来ました。その歌声から察するに、若い女性シンガーなどは思っていましたが、まさか15歳の女子中学生シンガーソングライターだったとは!10代前半で活躍するシンガーソングライターはtuki.さんが有名ですが、このAogumoさんも、tuki.さんに匹敵する位の才能を感じました。

そんな彼女の歌詞の世界観は一言で言うと
「諦念と衝動」です。

才能なんてないよ
そんなのとっくに気づいていた

どうせ、この曲も売れません
褒められることもなく
叩かれることもなく
明日には忘れられます

かつてのポップソングのフォーマットからするとこのような表現は、御法度だと思います。自分の創作するものについて、かつてのポップソングのフォーマットに倣えば、

「自分の作るこの歌が誰かに届いて欲しい」

という表現になるはずです。それをいきなり、

「才能がない自分の作るものなんか
    多くの人に届くわけがない」

と言うわけです。

しかし、そうは言いながらも、 

でももしこの曲が売れて
僕は一食分だけでいいから
音楽でご飯を食べたい 
そのご飯はたぶん
宇宙一おいしいだろうね

とも言っています。自分は普通の人間だから「自分の作るものなんか届くわけがない」と言いながらも、「自分の作るこの歌が誰かに届いて欲しい」のです。かつてなら、「自分の作るこの歌が誰かに届いて欲しい」という希望の部分だけを表現して終わりだったのですが、希望や願望を表現するにしても、まず「才能がない自分の作るものなんか多くの人に届くわけがない」という諦念の存在を示すことが、現代においてはとてもリアルに響くように感じるのです。

右も左も表も裏も、全てがあからさまになった現代において、何の前提もなくただ希望を唱えることは、それを聞かされる側にとってフィクションですらないのです(それをしたいならば「異世界」レベルのファンタジー装置を用意せねばなりません)。等身大の表現をするならば、諦念を示してこそ初めて表現するものと見る側がフラットな地平に立ち、歌という物語をスタート出来るのです。

Aogumoさんの歌詞は、その諦念と自分の欲望が互いに綱引きを始め、1人の少女の中で爆発するような状況になっていく様を多言なスポークンワード的唱法で、見事に表現して行きます。後半のバースのたたみかける歌詞は圧巻です。少し長いですが、下記の引用をご覧になって、その熱量を感じていただきたいです。

普通なんだよな
多分この生活が続くだろう

特別な何かになりたいけど
特別な何かがなかった

少し褒められた時の喜びが
まだ消えないで痕に残った

もう一回もう一度をずっと求めてる

あー私、本当欲張りだな
一食分が満たされたら
二食三食ってどんどん欲しくなっちゃって
でも、まだ、全然足りなくて、
このままずっとずっと
腹を満たしていたいの

なんて、思っちゃうのは
私が人間だからかな

誰かに聴かれた音楽だって
忘れちゃ音でしかないんだよ
どうせ聴き飽きたら捨てるんだ
所詮その程度の音楽だ

誰かにってなんだよ
誰に歌ってんだよ

何を伝えたいんだ!

わかんない!

全部やめよう!

もう好きなことさえ嫌いになりそうだ

単純な歌詞にリズムに音程
薄っぺらい声で創った音はありきたりだ

こんな音楽忘れられて当然だ

消耗品でした

私も音楽も全部ぜんぶ

忘れられるさ

忘れないで


誰にも聴かれぬ音楽なんて
ただの音でしかないのよ

他人の評価ばっか気にしてんだ
レッテル貼り付けて生きてる

どれだけ頑張ったって結果がないなら
誰も見向きはしないだろ

それでもこの曲に曲名を
誰か聴いてくれ私の音楽を

この曲に曲名はない

僕に才能はない

前述したtuki.さんと同じくこのAogumoさんも顔出しはせず、詳細なプロフィールを公開していません。その理由は本人にしか分かりませんが、有名になるのはいいけど、自分の顔を不特定多数に知られるデメリットは大き過ぎるとお考えなのかもしれませんし、「わたし、普通だから」という自己認識のもと(お2人とも歌詞の中に「人間だから」という趣旨の表現が出てきます)、顔を晒しても仕方ないと考えてらっしゃるのかもしれません。

もしもそのような考えだとしたら、これはかつての「映え」のカルチャーの考えとは対極にあるように感じます。

TikTokやInstagramといったものに代表される映像カルチャーは、スマホのカメラ機能が向上するのと比例して大きく広まりました。パッと見で多くの情報を伝えることができるビジュアル表現は、美しさ、面白さ、楽しさをダイレクトにインパクトを持って視る側に伝えることができます。

それ故にコンテンツを作る側は、「もっとダイレクトに伝えたい」「もっとインパクトを与えたい」という欲求に駆られ、コンテンツに過剰なエフェクトをかけ、時には現実から逸脱したものを作り出すようになってきました。

しかし彼女たちは、自分というビジュアルコンテンツを、現実を逸脱するほど「盛って」まで何かを表現するくらいならば、いっそのこと顔出しせずにアノニマスにするという判断をしているように感じるのです。この歌が多くの支持を受けている現状を考えると、この感覚はひょっとしたら、Z世代よりもさらに下の世代に通底する感覚なのかもしれません。


②諦念を知る世代(時代)における広告表現とは?



こういった諦念を自覚する世代(時代)においては、広告表現もそれに沿ってゆく必要があるのではないでしょうか?

ハッピーさを演出しベネフィットを強調するのは良いのですが、そのハッピーさというものが突然で脈絡のない「とにかくハッピー」という表現だと、諦念を感じる人々(世代)には見向きもされないのではないでしょうか。

ダメな例は枚挙に暇がありませんが、それを個別に言及するのは今後の僕にとってよろしくないと思いますので(笑)、今回は僕が素晴らしいと思った広告を1つご紹介いたします。

大塚製薬のバランス栄養食「カロリーメイト」が毎年実施している部活生応援企画広告です。

このシリーズは秀逸な広告ばかりですが、特に2024年の広告は素晴らしく
「TeamMate お前がいなければ」
と題されたweb動画は、とある学校のバスケ部で展開する物語で、才能あるチームメイトを同級生に持つ主人公目線で展開します。

テクニック、スタミナ、メンタル、どれをとっても自分よりも秀でているチームメイト。彼を見るにつけ、自分がいかに普通であるかを主人公は突きつけられますが、彼がいたからこそ自分は部活をやりきれた、というある種の諦念に主人公は達します。

その動画にインサートされるボディコピーがあまりに素晴らしいので、書き出してみます。

お前がいなければ


お前がいなければ、
もっと簡単にさぼれた。

お前がいなければ、
才能なんて知らずにすんだ。

お前がいなければ、
もっとたくさん試合に出れた。

お前がいなければ、
自分を嫌いにならなかった。

お前がいなければ、
才能って言葉でごまかせた。

お前がいなければ、
ここまで頑張れなかった。

お前がいなければ、
こんなに熱くなれなかった。

お前がいなければ、
自分を好きにならなかった。

お前がいなければ、
部活をやってよかったと思わなかった。

Team Mate ,Calorie Mate

こうやって書いてるだけで今にも泣きそうなんですが(笑)、部活に打ち込んだ人ならば、ひどく覚えのある感情なのではないでしょうか。

本当に好きなものだけど、自分よりも明らかに優れた能力を持つ者がそばにいる。好きであることが才能を持つことを必ずしも担保しない。でも、この諦念を持ちつつ、やる。

多くの人が晒される現実なのですが、その現実をリアルに表現しつついかに美しく伝えて、広告を見てもらう心理的セットアップをするか。この広告はそれが見事に成功していると思います。

Z世代よりも下の世代は今はまだ消費行動のメインではありませんが、彼らの世代的心理背景を知っておくのは、今でも早すぎるという事は無いのではないでしょうか。いずれ時代は変わるのですから。


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