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私立大学まで出させてもらったのに会社員を辞めて肉屋に戻ってきたバカ息子

 「俺、会社辞めるよ」そう両親に伝えた時、父も母もとても不安そうな顔をしていたのを今でも鮮明に覚えています。
 私は中学を受験し大学付属の中高一貫校に入学したため、そのまま大学まで何不自由ない暮らしをさせてもらい、就職活動もなんとか無事に終えることができました。長年の子育てが終わったと一安心していたはずの父と母。しかし、やっとの思いで送り出した息子が会社を入社4年足らずで辞めて帰ってきてしまったのです。

「自分の代で店は閉める」


 ご先祖様から家族代々でお店を受け継いできた髙木精肉店。今も代表を務める父は”4代目”としてお店を守り続けてくれましたが、創業から90年を過ぎたタイミングで大きな節目を迎えます。髙木精肉店が位置する東京都中野区大和町が東京都の道路拡張対象地域になってしまったのです。区画整理の影響で今の土地で今と同じ規模のまま営業を続けていくことができないことが突然決まってしまいました。(※将来的に移転もしくは改装が控えておりますが現時点では詳細はまだ決まっておりません。)
 かつては多くのお店で賑っていた地元の商店街もこの計画に加えて「後継者不足」などを理由に相次いで閉店し、今となっては商店として残っているのは私の肉屋のみとなってしまいました。また、年々大型スーパーや激安チェーン店が同じ商圏に増え、肉屋も熾烈な価格競争に巻き込まれギリギリの利益を確保するのに精一杯の状況に追い込まれてしまいました。
 「肉屋は儲からない」というのが父の口癖。早朝から深夜まで働いても他の職業以上に稼げるわけではない。さらには昔から「きつい・汚い・危険」の3Kどころか「臭い・稼げない」まで加わった5Kのイメージまで根付いているような仕事を自分の子供にさせたいとは思わないのが自然と言えば自然かもしれません。だから父は昔から一言も「店を継いでくれ」とは言いませんもした。業界としても先細り。苦労と不安が絶えない仕事ということもあり、父は自分の代でお店を閉じるつもりでした。
 「俺の代で店は閉めようと思う」父からそう打ち明けられたのは私が大学3年生で就職活動を本格的に迎えようというタイミングでした。「店のことは考える必要はない。大学を卒業したら自分の好きなことを仕事にすればいい」もともと口数の少ない父親ではありましたが、肉屋という仕事が好きだったことは毎日仕事をしている姿を見ていれば伝わってきました。父のその言葉には「寂しさ」「くやしさ」いろいろな感情が混じっていたはずです。

当たり前だった日常が突然無くなる


 大して勉強することもなく、アメリカンフットボール部の活動に4年間を費やした大学生活。ゴールの見えない地獄のような就職活動もなんとか乗り越え、無事に学校も卒業できた私はそのまま民間の会社へ就職。私には2つ下の弟もいるのですがその弟も大学まで進学後、会社勤めをすることとなりました。やっとの思いで2人の息子を社会へ送り出し、父と母の子育ては終わりました。兄弟二人を私立の大学まで進めてくれた両親には一生感謝しなければいけません。
 私達兄弟は小さな頃は学校から帰ってくれば営業中のお店に立ち寄って、常連のお客様から「お帰りなさい」と言葉をかけてもらいながら店頭で並んでいるお惣菜をつまんでいました。夕飯の時間になればおいしいお肉が当たり前のように食卓に並ぶ日々。通学路の商店街で行き交う人々の温かさに触れられることが当たり前、お肉をいつでも食べられるという日常が当たり前の生活を送ってきたので、社会に出てから改めてそのありがたさを兄弟そろって身をもって知ることとなりました。 
 しかし、そんな人と人の交流の場所でもあったお店が無くなるかもしれない。お互い異なる環境で社会人生活をおくっていた私と弟ですが、頭の片隅ではいつも「実家」のことを考えていました。必要以上の会話は交わさない兄弟ではありましたが「お店が無くなってしまうのは寂しい」という思いは全く同じでした。

ポンコツを極めた会社員時代


 私が勤めていたのは業界最大手の通信会社(なぜ、スポーツ馬鹿の私が採用してもらえたのか今だにわかりません)。転勤先は縁もゆかりもない四国地方の徳島県でした。右も左もわからない環境で、目の前の仕事を覚えてこなすだけで精一杯の毎日。地頭も容量も悪い私は周りの優秀な同期についていくのが精いっぱい…というよりついていけていたのかどうかもわからないような状態。もちろん会社で他人に誇れるような何か目立った成績を残せた経験もありません。唯一誇れるものがあるとするなら「泥臭さ」これだけでした。頭を使えないなら足を使う。人と人、対面でのコミュニケーションだけは無駄に自信があり、同じ部署の誰よりも取引先に足を運び、関係性をつくることだけは少しだけ得意だったのかもしれません。
 次に異動した部署でも仕事は思うようにうまくいかない日々が続きました。自分一人ではどうにもならないことが明らかな業務を目の前にしても人を頼るのが苦手な私は人一倍仕事が遅く、同じ部署の人たちが3つ4つ仕事を終わらせる頃に私がやっと1つの仕事を終えるような有り様。毎日のように上司に叱られ、周りの先輩に甘えてばかりの自分に嫌気がさしました。それでも会社を辞める最後の最後まで見捨てずに面倒を見て下さった当時の上司と先輩には今でもずっと感謝しています。
 勤め先の会社はホワイトofホワイト企業で、福利厚生がとても充実していました。特に、毎年与えられる有休休暇を完全消化することが実質義務化されているような会社だったので、毎月1~2日は有休を消化しないと逆に上司から怒られるようなすごい会社でした。ただ、今思うとこの休みの多さが自分の居場所を見つけることができた一つのきっかけだったように思います。
 地元の東京から遠く離れた徳島県で生活していた私は、休日が連続しないとなかなか帰省が難しかったのですが、有休を取りやすかったこともあり1年の中でも比較的何回も東京に帰ることはできました。東京にいる間は友人達と遊ぶ時間がほとんどでしたが、合間の時間を見つけては実家の店頭にも立って少しばかり両親の手伝いもしていました。久しぶりに私の顔を見かけた常連のお客様は「元気?」と気にかけて下さるのですが、一番記憶に残っているのは「いつお店に戻ってきてくれるの?」という何気ない一言でした。お客様も本気だったのか冗談だったのかはわかりませんが、大きな組織で仕事をしていると「これは自分じゃない他の誰でもできる業務だろうな…」と思う瞬間が多々あり、そんな私にとっては「自分を必要としてもらえるのはここなのかな」と感じたのでした。

人生を変えた一枚の写真


 ある日、母が家の倉庫を掃除している時に偶然一枚の写真を見つけました。休みのタイミングが重なり、実家で家族4人そろってその写真を見た時の衝撃は今でも忘れません。そこに映っていたのは髙木精肉店の創業当時の姿。時代は大正15年(1926年)。白黒写真に写っている店舗と思われる建物の外壁には開業を祝う多くの旗が飾られ、創業者の”髙木惣次郎(たかぎ そうじろう)”を先頭に今では想像できないほどたくさんの職人達が肩を並べている光景は圧巻の一言。いろいろな人達の志、様々な思いが集まって髙木精肉店は開業したのです。私も弟も言葉を失いました。しかしそれと同時に、肉屋の子供として生まれた”宿命”のようなものを感じました。私達兄弟の中で「このお店は潰したらだめだ。」という思いが強くなった瞬間でした。

↑大正15年「髙木精肉店」創業当初の写真。一番左の人物が創業者の髙木惣次郎。

次の100年が始まる

 心が決まってからは物事がトントンと進んでいきます。「ほんとにいいのか?」と心配そうにする父と母の言葉にも気持ちが揺らぐことはなく、私も弟も勤め先の会社へ退職届を出し実家へと戻り、そして「本格的に肉屋を目指すのなら…」と父の薦めで、私は日本に2校だけ存在するお肉の専門学校へと進むこととなりました。専門学校は最長1年間の全寮制のため必然的に私は1年以上実家を離れることになります。少し不安はありながらも同じ志の弟が家に残ってくれることが心強かったので、おかげで1年間みっちりお肉の勉強漬け生活に飛び込む覚悟ができました。
 小さな個人店の生き残りをかけ、ご先祖様達の思いを引き継ぎ、兄弟それぞれの役割を模索しながら家族4人で手を取り合い、少しずつ少しづつ新しい歴史が動き始めました。


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