1945年8月6日と今を編む
1945年8月6日8時15分。
世界が震え、地球が震え、命が吹き飛び、焼かれた時。
原爆の利用を止めようとしたアメリカの科学者たちの願いは叶わなかった。
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被ばくや原爆や原発に意識を向けるようになって以来、8月6日にこのことを書かない年はなかったと思う。
そうすることで毎年、自分の感覚や意識や実態(生活や仕事やコミュニティ)の変化を感じたりもしている。
わからないことがあるから書くし、考えたいことがあるから書くし、「そのことと共に居たい」から書く。
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「共に居たい」という感覚も、変わってきてはいる。
自分の中にそれはある、と感じる。
内化しているし、同化もしている。
一緒にいるし、共にあるし、自分の中にあるし、分かつことはできない。
被害者、支援者、被ばく者、分かつことはできない。
そういう思いが年々深まっている。
境界線を曖昧にしておきたい、そこに対しておおらかでありたい、という思いとも繋がっている。
線を引くことより、線を引いたことによって起こったことの一つ一つを味わいたい。
その線のどちら側にいるものに対しても深い思いやりの心を持っていたい。
自分の立ち位置も、ある意味で曖昧にしておきたいと思う。
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原発事故が起きた直後、避難した人たちが非難された。
そして、避難しなかった人たちが非難された。
マスクをした人たちが非難された。
マスクをしなかった人たちが非難された。
そういった線のこと。
そういった傷のこと。
そういうひとつひとつが脳裏に浮かびます。
そして、それらひとつひとつを脳裏に浮かぶがままにしておく時間をもっともっと取っていきたいと思います。
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1945年8月6日。
広島が軍港であった(2000年前から瀬戸内最大の軍港のひとつであった)ことが理由のひとつとなって、そこに原爆が投下された。
同じように、軍事拠点のひとつであった長崎にも、8月9日に原爆が投下された。
長崎の爆心地からほど近い場所にあった聖フランシスコ病院の病院長であった秋月辰一郎医師は、がれきの撤去、人員救助、治療に当たったスタッフに、塩で握った玄米むすびとわかめの味噌汁を飲ませ続けた。
彼は生前に著書の中で「スタッフの中から被ばく症が出なかったのは、わかめの味噌汁と塩むすびを摂っていたからだと思っている。」と書いています。
「現時点では科学的立証はできないが、いつか解明される時がくると思う。」とも書いています。
このことはとても大事な認識だと思います。
まず実践がある。
そして、実践から来る理解がある。
そして、理解を元にした実践が受け継がれていく。
受け継がれているという事実自体が、ひとつの根拠になっていく。
「我が家では先祖代々、腹を下したら梅干しをお湯に溶いて飲んでいる。それで治る。」というような感じで。
民間療法というのは、こういった、実践と、理解と、継承によって育つものなのだと思います。
そして、科学は、後から追いついてくる。
裏付けを取るかのように、あとから。
実践vs科学、ではなく。
実践と科学。
感覚と科学。
そこには本当は、美しい補完関係があるはず。
そのバランスが崩れているのは、実践を止めて、実感を持った理解を育むことをやめて、知識や学問に偏りすぎているからではないか、と思ったりする。
科学を、民間のものではなく、専門家や学者のものにし過ぎてしまったからではないか、と思ったりする。
どちらがいいでも悪いでもなく(そんなことを議論するまでもなく)バランスや調和を育むために、梅干しや味噌汁の実践を大事にしたい。
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秋月医師は、もともと病弱であった自身の体質改善のために、食事を深く深く見直すようになったという。
彼は、マクロビオティックの桜沢如一氏に影響を与えた、明治時代の食養生実践家である石塚左玄氏から、食事と体質の関係を学んでいた。
緊急時に、いざという時に、味噌汁とおむすびを準備できる素地があった。
それができる足腰ができていた。
実践からくる理解があった。
パッとこういった行動がとれる土台を、日々の実践が作っていた。
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僕は2011年3月、大いに反省をして、生き方を大きく見直そうと思いました。
暮らしの中で味噌を作ること。梅干しを作ること。
それができる場をつくること。
一緒に作れる仲間をつくること。
それができる社会、生態系、を大事にすること。
あの時、自分には緊急時に対応するための実践が全くもって足りていないという実感があふれてこぼれた。
仲間に送れる味噌がなかった。
買うしかなかった。
その悔しさ、情けなさは、今となっては大きな財産になっています。
嘆きや悲しみや無力感は、悪いものではなく、ハラでしっかり醸せば、栄養になるんだな、と今は思っています。
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聖サンフランシスコ病院は、地域にとっての味噌蔵であり、米蔵でもあったそうです。
わかめも塩も潤沢にあったそうです。
病を治すための場所に、生きるために必要な食料が蓄えられている。
そういう感覚。
そういう実践。
そういう場。
大きく言えば、社会の中に、地域の中に、その地域住民による、その地域住民のための蔵は、たぶん激減している。
あれから80年経った今、あの時の教訓から学び、あの時の実践を受け継いでいく流れよりも、時代の流れの中で、地域の自給力は増えているのではなく、減ってしまっている。
たぶん敗戦も大きく影響している。
アメリカやイギリスの企業がどんどん入ってきて、日本人を無力にするために、自給の芽を摘んでいった。
(参考:日本弱体化計画)
挙句、今は、93%の味噌が、海外から運ばれてくる大豆で作られている。
そして今、何かあったら、地域のものでまかなうのではなく、何かを遠方から送らなければいけない。
自分たちで作ったものではなく、大企業が作ったものを買って、送らなければいけない。
そういう世界をみんなで育ててきた。
ということを、今改めて、反省したい。
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僕は今、ワークショップというスタイルでの活動を止めています。
一過性の場、に限界を感じています。
これまでが間違っていた、ということではなく、ここまで来たのだから、ここからは同じことをするのではなく、次の段階に移行したい、ということです。
これからは、ここまで書いてきたようなことや、そこに付随する違和感や、それらとセットになっている、祈りや、願いや、希望にもっともっとクリアにスポットライトを当てていくように、活動(生活)していきたい。
蔵。
味噌の蔵。
米の蔵。
実践の蔵。
知恵の蔵。
その場にいると、食べ物も、野菜も、人も、生き生きしてくるような装置としての蔵。
そういう場。
一過性ではない場。
一人ではなく、みなで作る場。
そういう場を育むために、たっぷり時間をかけていきたい。
すぐには始めない。
移行期は繊細。
まずは芋虫が蝶になる前の蛹の時期のように、こもる。
そして、まずは家を、育んでいく。
寝室を、台所を、庭を、大切にしていく。
そこを、生命を祝い、お互いを慈しむ場として、大事にしていく。
工房は、その名のとおり「工の房」。
房は、たわわな豊かさの象徴。
自分の想像力と創造力、自然界の創造力、それらを大切に掛け合わせて、大切な人に渡す大切なものをひとつひとつ育んでいく房。
そこをもう一度、丁寧に、やり直していく。
秋月さんと冥土で再会できるのだろうか。
その時の茶飲み話(酒飲み話?味噌汁飲み話?)に花を咲かせられるように、今からの実践をひとつひとつ楽しんでいきたい。
喰らったものは原爆だけじゃなかったし、
俺たち、喰らったままで終わらせないし、
倒れても、何かを掴んで起き上がりますよ。
時間はかかるかもしれないけど、ずっと忘れずに、向き合って、立ち上がっていきますよ。
というふうに、独り言を言いながら、8月6日の朝を過ごしています。
黙祷は長く長く、どこまでも長く、捧げたい。
写真:山口県熊毛郡上関町、祝島から見た朝日。
日が昇る、その位置に、原発予定地がある。
この原発計画を止めるために島民が立ち上がったのは、今から30年以上前のこと。
その時、「原発はいかん」と言った一人は、広島で被ばくした島民だった。
彼の声が、島を動かした。
そしてその声は、今も受け継がれている。
歴史が受け継ぐものは、悲しみだけではない。
そうであるはずはない。
いつの世にあっても。