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真実はひとつじゃない

あの有名な小さな探偵は決め台詞でこんなことを言います。

「真実はいつもひとつ!」

僕も小学生の頃よくその漫画を読んでいました。
始めて読んだあの日から20年以上経ったでしょうか。
けれど、こともあろうに、最近読んだミステリー漫画では「真実は一つなんかじゃないですよ」と真っ向否定の台詞がありました。
「ミステリと言う勿れ」という漫画です。

AとBがいたとしましょう。
ある時階段でぶつかってBが落ちてけがをした。
Bは日ごろからAからいじめを受けていて、今回もわざと落とされたと主張する。
ところがAはいじめてる認識など全くなく、遊んでいるつもりでいる。
今回もただぶつかったと言っている。
どっちもウソはついていません。
この場合真実ってなんですか?
どちらもウソをついていなくても、話を盛ってなくても、必ず食い違う。
AにはAの真実がすべてで、BにはBの真実がすべてだ。
だから真実は一つじゃない。
2つや3つでもない。
真実は人の数だけあるんですよ。

僕は納得できました。

ぼんやり思い出したのは、僕が中学生のとき、採点を終えたテストが返された場面。
いつも優秀な子が95点を取りとても悔しがっていた、という場面がありました。
100点を取れなかったことが悔しかったのだと。
それを横で見ていた別の子が、嫌味な奴だ、と文句を言っていたのですが、95点の子は嫌味ったらしく見せつけたかったのではなく、本当に悔しかったのだと思います。
人それぞれ基準が違っていて、95点が高いか低いかは人それぞれだったんですね。
「俺はどうせ60点ですよ」とぼやいていた彼の側で赤点をとって絶望している生徒がいたかもしれないですしね。

最近は、「仕事が忙しくてたまらん!」とぼやいていた友人に対し、飲食で働いている別の友人が「俺の勤務時間知りたい?忙しいというのはこのくら働いてから言って」的なことを言っていましたが、前者の友人も等しく忙しい。
時間数がどうのこうのではなく、忙しいと感じているか、が事実。

半分水の入ったコップを多いか少ないか、判断するのは人それぞれ、という話もありますね。

誰もが自分の基準で生きていて、自分も誰かとは違う基準で物事を見ている、そのことを自覚することはコミュニケーションを取るうえでとても大事な要素になると思います。
人は自分とは違う価値観を持っていて、それはそれで良い、と認めること。
グローバル社会、ダイバーシティ、個性の尊重、そんな時代だからこそ、「真実は一つじゃない」という考え方を中心軸に持ってようと思います。

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