ウズベキスタン、行ってきたん(1)~推しが居ないとオタクはこうなる編~
最近、推しがいないので、もっぱら旅ばかりしている。
推しがいないと、ジャンルが旅になってしまい、うすいほんの買い出しにもライブにも行かずひたすら航空券ばかり買っている。辛い。我ながらこれはつらい。オタクとしてどうなのか。中学2年のとき時期的に正しく中二病を発病し、ファーストインパクトを迎えた由緒正しいオタクのアイデンティティにかかわる問題である。しかし推しは推したそばから死んでいくし、10年かけて推している推しも次々に死ぬので、いつのまにやら毎年3回は海外に行かないと気が済まない体質になってしまった。
推しが居ないとこうなる。
そんなわけで、今年も旅に出た。
以前、ロンドンでクリーニングがされていないままの汚部屋に泊まらさせられそうになったり(そして大家はアドリア海バカンス中で音信不通)、真夜中に宿無しになり、予約して金も払い終えたアパートがこの世に存在しなかったりする(エア・ウインチェスターアパートメント)事件があってから、とにかく英語を勉強しようと思った。英語ができなければ死ぬ、いやさ、東洋の島国からのこのこやってきてニコニコているだけでは搾取され不自由を味わうのみである、ということは、好きな映画が日本で公開されなかったり、推しのインタビューが何度聞いてもさっぱりわからんちんなことから身にしみていたのだ。が、第三の目が開いたのはこのロンドン宿無し事件が決定打だった。
これは宿なし事件直前に立ち寄ったアイルランドの刑務所遺跡である。
かっこいいが、つらいつらい侵略と弾圧の歴史の象徴である。ぜひダブリンを訪れた際は立ち寄って欲しい。宿なしの苦しみか、宿を得るまでの二日間の写真がないので、刑務所で表現してみた。
閑話休題。
つまるところ、ばかはばかなりに、英語を少しなりとも身に付けねばならぬ。しかし残念ながら生来のばかなのでライティングもリーディングも苦手だ。まあ、この歳になれば多少の開き直りもできているので、ヒアリングができて、間違いだらけの発音でも堂々と臆せずスピーキングする度胸が身につけばいい。
そんなわけで、だらだら毎週一回、ニュージーランド人の先生と世間話をする英会話レッスンは5年ほど続いている。
しかし、先生はセルフ山を開拓することに情熱をかけているため、わたしと推しの話はしてくれず、このように暇さえあれば山を開拓している。
開拓民の血ってすごい。(注:英語の先生です)(写っているのは息子)
ところが、年に3回は海外へ行き、毎週英会話を受講している私でも、アーユーキディング?(ふざけてんのかコラ)、や、ナンオブマイビジネス(そんなん知るかよ)を使ったのは今回の旅が初めてのことである。
前置きが長くなってしまったが。
中央アジア、すごかったよ。
結論から言うと、とっても素敵だった。
綺麗。目に優しい。青が美しい。物価安い。ご飯がおいしい。肉が柔らかい(今回の旅で一番の驚き、羊と牛の肉の区別がつかない!!)
だが、40代の脆弱なオタクから、きっとこれを読むだろう脆弱なオタクのみんなへ、知ったかぶり知識でアドヴァイスさせてほしい。
5月以降は行くな。
熱中症で死ぬ。
つらつらと書いていく中で説明したいと思うけど、たとえ木陰にいて、風が涼しいなあと思っていても、どんどん体中から水分が抜けていって、すぐ頭痛がする。日本よそれが砂漠気候だ。ドラクエ風に言うとつねに”どく”状態。歩けば歩くほどHPは減るし、あっというまにパラメータは黄色になるぞ! こうならないためには1.5リットルの水のボトルを二時間で飲み干すしかない。
脆弱なオタクのみなさまは、ぜひ、3月4月のあたりを狙って行ってみてほしい。
マツキヨ街やAMAZONシティで揃えてほしい装備品についても、おいおい追記していきたいと思う。
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中央アジアといえば、日本でもっともメジャーなものはなんだろう。『乙嫁語り』かもしれない。私も大好きである。刺繍刺繍刺繍シルクロードラクダ銀細工じゃらじゃらじゃらスザニスザニ。嫌いなオタクはいなかろうとさえ思う。
しかし、幼きころに両親の趣味で007を履修させられた私にとって、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアといえば、『ザ・グレートゲーム』の舞台!!スパイと言えば中央アジア。グレートゲームといえば熱いのは2回戦。おそロシアが突然真っ赤に染まってコサーック・ボルシェビーキしてくるイデオロギーの対立、混乱と混沌の時代。
ざっくり言うと、ソ連と大英帝国のスパイ戦争である。
タシュケントでザッツ共産圏!みたいなでっかい建物を見るたび、私は「ふおお、フレデリック・ベイリー!!大英帝国の敗北!!マレソン部隊撤退!!おそロシア!!」と一人興奮していた。実際、中央アジアではロシアが、というかソ連が勝った。ブハラもヒヴァといった藩主国もぜーんぶ社会主義共和国になり、赤軍に占拠され、その地を江戸幕府よりも長い間支配していた(400年くらい)王族たちはいのちからがら亡命したのだ。
しかし、当時中央アジアでグレートなスパイだったベイリー中佐は、ボルシェヴィキにいっぱい食わせて、まんまと包囲網をくぐり抜け、中央アジアから逃走。その後インドでも活躍した後85歳で天寿を全うした。「カーリー」で書いたシャーロットの父ウィリアムのモデルでもある。
どうでもいい話だが、ベイリーさんは命を狙われて逃亡しているときも、致命傷に近い怪我を負って療養中でも、蝶の研究だけは忘れない立派な蝶オタだったらしい。スパイをするためにオタクのふりをしていたわけではなく、生粋の採集家だったようだ。アラビアのロレンスといい、オタク→ダーマの神殿→スパイなのはもはや適正職業ルートなのかもしれない。
とにかく、行くところ行くところ共産圏みを感じたのだったが、面白かったのは、どこのバザールでも、かつてのソ連のバッジや勲章が叩き売られていたことだった。
とても気持ちはよくわかる。
そんなグレート・ゲーム萌えを内心に秘めつつ、我々は着いた翌日早朝に即、ブハラに飛んだのであった。
旅コーディネーターハラダのスケジュールはいつも強行軍なのである。
(続く)