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『すずしい木陰』と言う特異点/ドキュメンタリーでもなく実験でもなく、劇映画(の・ようなもの)/ミニマルテクノっぽい視点と長回しの考察

・話題(一部で)のエーガ、『すずしい木陰』見ましたよー。いや〜ヤバイのなんのって。本当にスゴかった。

映画は、夏の夕方くらいの時間帯を画面フィックスでリアルタイムで映したもの。被写体は木陰のハンモックで寝てる女の子をただ一人。画面上で起こるのはその女の子が寝てるのだけ。ホントに、そんだけ!!しかも90分以上も!ただ、そんだけ!!!!
いつも情報収集をしてる映画サイトでその情報だけを見て、猛烈に気になっていた。で、気になって気になって観に行ってしまった。
と、同時にかなりの覚悟して観に行ったのも確かだ。場合によっては身動きの出来ない薄暗い空間で意味の分からない映像を延々と見せられる地獄の時間を想定もしてきたのだ。
がっ!!!!!意外に上映時間96分があっとゆう間に過ぎていった。
流石にちょっとウトウトしてしまう所は多々あったが、それすらも心地よいと思えるほど、スクリーンの動向を追えたし、退屈という時間は一切なかった!!
あまりに濃密な時間の過ごし方をしてしまって、映画観終わって劇場を出た後の充実感が、他の映画と比較にならない程だった。

前評判通り、本当に劇中ではドラマがなにも起きない作品だった。まずは、その何もない!という事に唖然とするのだけど、段々とその感覚に慣れてくると、どんなに小さな事でも、この映画においては事件になってくる。
「あ、足を組みかえた!」「寝返りうった!」「・・・起きあがったぞおおおおおおお〜〜〜〜〜!!!!!!!」これは、この映画を観た人誰もが思い浮かぶであろう一般的な感想だ(実際に統計を取った訳ではないが、確実にそうだと言える)。それくらい、些細なそれらの「出来事」が脳髄に刺激となって流れ込んでくる。
そうなのだ。人というものは、そういった物語というか事件性のない、空白の時間に放り込まれた瞬間、創造性が俄かに覚醒するのである!
画面に映るもの全てに意味が生じてきて、その情報量が!!物凄いッッ!!
木の葉の揺らぎ、日の傾き、お香の煙が空に溶けてく様、風の感触。。。
普段は映画の中どころか、日常生活でも気に留めていなかったその諸々の事象に、敏感に反応し、それらに「何か」を見出していくのである。
この映画のパンフレット表紙に書かれたキャッチコピーに、「何も起きないはずなのに、何かが起きている。」というのがあるが、まさにこの映画の核心を突く名コピーだ。そう、96分という驚異とも言える空白時間を通す事によって、我々の目には、何かが、見えて来るのだっ…!


・しかも、この映画が奇跡的なのは、しっかり劇映画としての機能もあるのである!コンセプトや映画の成り立ちは上記の様に、限りなくドキュメンタリー的なのに、観客の情動を考えて組み立てた部分や、お話としての起承転結(の・ようなもの)が見えてくる!からだ。

画においては、この作品は究極の自然主義的な立場を崩さないが、音においてはそれとは真逆のスタンスを取っている。いわゆる効果音みたいな、ありものの音は全く使ってはいないが、様々な自然音が劇中に緻密に配置され、繊細なディレクションが施されているのである。
劇中前半では蝉時雨や工事の音などが割とやかまし目に鳴っているのだが、あるタイミングから、そういったBGMは形を潜め、絶妙のタイミングで音のフェーダーは絞られ、劇中で静寂が訪れるのだ。しかも劇中の割りに早い段階で!だ。それだけで、この映画が、ただのやりっ離しの実験映画ではなく、これは紛れもない劇映画である!!と、高らかに宣言してる瞬間と私は捉えて、俄然と我が体温は上がったのである。
(上映後のアフタートークで、監督自身が解説してくれましたが、音に対しては相当のディレクションを施していた、との事)
しかもクライマックスまでこの映画には用意されてるんだ!すげえだろ!!(ネタバレになるので書けないけど)


・こういった些細な「事件」の積み重ねを慎重にディレクションして行った結果、この映画はとんでもない映画体験を観客に叩きつけてくる。まず、間違いなく、こんな濃密な映画体験をする機会というのは今まで無かったのである。究極の体感する映画って感じで、一種の意識変容体験とまで言ってしまえるかも知れない。
しかも、ネットの感想を見てて面白かったのが、どの意見も本当にバラバラで、十人十色、百人百様の意見があって、統一した感想みたいのがあまり見受けられなかった事だ。
劇中何も無さすぎて困惑している人もいれば、逆に「オーバーディレクションだ!」と怒っている人も見かけて、その感想が並列に並んでいるのを見て笑ってしまった。

例えば、アブストラクトな舞台演劇や現代美術の現場では、似た様なコンセプトの作品はありふれたものなのかも知れない(私は寡聞にして、そういったものをあまり見た事はないのですが・・・)。ちゃんと見た事はないのだけど、デレク・ジャーマンの映画で似たようなコンセプトの話は聞いた事ある。。。まあ、見るつもりはないのだけど。

ただ、これを劇映画のフィールドでやって、さらに劇映画として成立させたのが革命的!だと私は思っている。
私の乏しいゲージツ体験の中で似た例をあげるとするならば、この映画は、ロングスパンで演奏されるミニマルテクノのミックスになぞらえることができるかも知れない。
ミニマルテクノは、変化のあまりない繰り返しフレーズと一定のリズムを1時間〜2時間のロングスパンで聞かせる。そうすると、聴衆はその中での音色の微妙な変化やリズムのあわいを感得し、そういった僅かな変化に身体レベルでついてくる。やがて、パーティーがクライマックスに達すると、曲が僅かなレンジで変化するだけで観客から歓声が上がるのである。

『すずしい木陰』は、まさにそんな体験を映画で味わえる代物であると言える。観客は画面内で起こる僅かな風の揺らぎだけで、ピクッと反応する。その過集中とでも言えるのめり込みぶりは、上記で挙げたミニマルテクノと同じ没入感であるなーと私は思ったのだ。

過去にも映画で似た様な体験をした事は何回かある。
私はとにかく長回しのエーガそのものが大好きなので、例えば、相米慎二やらタル・ベーラやらアレクセイ・ゲルマンの極度に長回しする(5分以上は当たり前。時には10分20分と長回しする!)映画を数多く見てきた。
だが、それらの長回し作家と本作は根本的に何かが違う。
上手くは言えないが、上記で挙げた長回しは、いわば作家のエゴとでも言うべき偏執狂的なコントロールフリークで成り立っているものだと思う。そこで起こる出来事は全てが作家によって段取りが為されたものでしかない。いわば、世界を自分の支配下に置いて自分の思い通りに組み伏せる所作だ。
しかし、『すずしい木陰』でのディレクションはそれとは異にしている。
そこではただ、世界をあるがままに受け止め、それを組み換えて編集しているだけだ。これは、コントロール出来ない世界を自己の中で編集して意識改革を行っている事に過ぎない。
また、現代アートを引き合いに出して申し訳ないが、マルセル・デュシャンがかつて、小便器の前に『泉』とタイトルを出して、鑑賞者の意識を撹乱した芸術所作に、近いものを感じる。
まあ、何が言いたいかと言うと、こんな映画体験は未だかつて味わった事がねえ!!!という特異点に感服した次第である。
(蛇足だが、ツァイ・ミンリャン『交遊 ピクニック』ラストの長回しにも近いかも、、、あれもヤバかった)

まあ、そんなこんなで、汲めども尽きぬ考察が際限なく出来る『すずしい木陰』。ハマるかどうかは、観客自身の資質に100%寄りかかってはいるが、一種の価値ある体験として、映画館に“浴び”に行っては如何であろーか?
まあ、しばらく関東圏では上映ないみたいだけどね!(2020年9月上旬現在)ガハハハハハハハっ!



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