堕ちゆく国の落ちゆく地域のど真ん中。新卒の僕はあえてこの場所で働く
僕・高橋大希は、2020年3月をもって小学1年生から始まったとても長かった17年間の”学生”を卒業し、4月より”社会人”になる。
思えば数年前僕は、18年間育った広島カープのファンが人口の9割を超える地から、大学進学を期に瀬戸内海を渡り、和歌山と「みかん県」のイメージ争いを熾烈に争っているこの地に渡った。
多くの人がそうかは分からないけれど、大学入学の時卒業後は、地元に戻って就職するか関西か関東、まぁいわゆる都市部と呼ばれる地域で就職をするのかなぁと漠然と考えていた。
しかし、現実とは奇々怪々なもので、僕は卒業後地元でも都会でもないここ愛媛の地で働く。公務員になるでもなく、大企業で働くでもなく、創業間もないスタートアップ企業で働く。なぜ地元でもない場所、さらに安定なんて微塵も感じられないスタートアップ企業に就職するのか、心配性の母親にも口下手な父親にも伝えられていないので、この場を借りてなぜこんなことになったのか伝えようと思う。
ところで、新社会人は毎年おおよそ100万人弱ほど誕生するらしい。僕のことをあんまり知らない人からすると、100万分の1というとんでもないほどの小さい単位だけれど、少しでも興味があるなぁという奇特な方はどうぞお付き合いいただきたい。
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まず一つ謝らないといけないことがある。僕は先ほど
大学入学の時卒業後は、地元に戻って就職するか関西か関東、まぁいわゆる都市部と呼ばれる地域で就職をするのかなぁと漠然と考えていた。
と、書いたけれど、今思い返すとそんなことは考えていなくて、大学入学時は友達ができるかという不安と大学生活というまだ見ぬ世界への期待感が入り混じった気持ちで、将来のことなんかほとんど考えていなかった。
大学に入ると、思い描いていたようなキラキラした日々は全くもって訪れず、外部の環境が変わっても自分自身が変わらないと何にも変わらないんだなぁというなんとも凡庸な気づきを得ながら、最初は非日常だった日々がただの日常になり、ビュンビュンと時間が過ぎていった。
そんなビュンビュンと過ぎる日常の中、僕はNHKのプロフェッショナル仕事の流儀という番組を観て、”国際災害ボランティア”という仕事があることを知る。なんとなく特別でカッコ良くて正義の匂いのするその仕事に強く惹かれた僕は、その回に出演していた吉椿雅道さんという方に会いに愛媛から神戸へ行き、質問をぶつけた。
「どうすれば僕はあなたの職業につくことができますか?」
突然にそんなことを言う常識知らずの大学生に、吉椿さんは、お前には無理だと一蹴するでもなく、具体的な手順を教えるでもなく、ただ
「一先ず色々と経験してみなよ。」
と僕に言った。
確かに、大学1年生で野球を辞めるまで概ねの時間を丸刈りイガグリ野郎として如何に白い玉をうまく操り、遠くに飛ばすかということのみを考えて過ごした僕は、他の人に比べても圧倒的に色々な経験が不足していた。
一先ず、国際災害ボランティアというよくわからない職業に惹かれながらも、発展途上国という場所に行ったことのなかった僕は、”色々な経験”をしてみようとカンボジアへ行った。
2週間弱カンボジアの村で過ごした僕は、日本に帰って頭を悩ますことになる。”国際協力”的な仕事がかっこいいと思っていたけれど、いざ僕が考えていた恵まれない場所に行くと、そこには、コンビニもユニクロもなかったけれど、人と人との繋がりやたくさんの子供の笑顔があった。彼らには物質的な豊かさの向上も、いわゆる僕の考える発展も必要とは感じられなかった。
という、大学生が初めて新興国と呼ばれる場所に行って書く感想文のテンプレのような感想をご多分にもれず僕は持ってしまったのだ。
豊さとは何か。
幸せとは何か。
難しいなぁ〜と思いながら、”色々と経験してみなよ”と言われた僕は、国内の農村的な場所に行ってみたり、県内の(金銭的な理由で)塾に行けない子供たちの教育支援の活動や大学内での聴覚に障害のある方のノートを代わりにとる活動など、色々な経験をした。
実際に経験してみると、日本の農村は”人と人の繋がりとあったかさがあって日本古来の〜”というだけではない、その狭いコミュニティゆえの弊害や都市化との距離感の難しさがあり。
大学まで行くことができる前提に生きてきた僕の想像の中にはない家庭環境があり、バリアフリーが叫ばれる世の中の実際の冷たさを知った。
吉椿さんの
「一先ず色々と経験してみなよ。」
は、世の中・社会・世間と呼ばれる僕の外部に関してのことを自分がいかに知らないか、常識やイメージがどれほど当てにならないものなのかを知っておけというメッセージだったのだと思う。
2つの転機
その後、吉椿さんに声をかけられ2015年4月に発生したネパール地震の被災地へ一緒に行く機会を得た。2017年2月、僕が大学3年生になる前の春休みのことだった。
そこでの経験は今でもじんわりと胸の奥に残っている。
僕らの行った場所は、ネパールの首都カトマンズから車で1日と歩いて2日(車で行ける道が途中でなくなるため歩く)かかるくらい山奥にあるところで、電気がつい最近通りました、というような地域だった。
そこで、村の色々な人の話を聞いて回っている時、僕と同年代くらいの男の子が、
「俺は首都に行ってコンピューター系の企業に入って、ガッツリ稼いで親を楽にしたい、そしていつかこの村に帰って来て親がやってるこの商店を継ぐんだ。」
と僕らに熱く語った。その場所では、なんて素晴らしい若者なんだ。ご両親も安心ですな、ワッハッハとなった。が、である。
大人のいる場所。つまりその子の親や同行していた団体のスタッフなしで、僕と一対一になると、都会への憧れといかにしてお金を稼いでいい暮らしをするか、ということを熱く語っていて、その口ぶりから伝わる”都会的なものへのどうしようもないほどの憧れ”からは、あぁ彼はきっとこの村には帰ってこないんだろうなぁと感じさせられた。
それは決して悪いことではないし、日本でも全く同じことが起きているからそういうもんなんだろうと思いながらも、どこか寂しい気持ちを感じていた。それは、その直前、その地域に住むおばあちゃんから、
「この地域からはどんどん若い人がいなくなる。それは悪いことじゃないし、若い子にはどんどん都会へ出て活躍してもらいたい。」
と語りながらも、ぼそっと小さい声で
「昔は子供たちがどんどん生まれて、いつも賑やかでねぇ。でも、今はみんなどんどんいなくなる。この村はなくなってしまうのかねぇ…」
と語るその寂しそうな背中をみてしまっていたからなのかもしれない。
その後僕は、3年生になり本格的に将来を考えるにあたって、本格的に”国際災害ボランティア”になるのかを考える段階に来ていた。そしてその頃には、”国際災害ボランティア”になるということは、”NPO団体の職員になる”ということなのだ(もちろん他にもあるけれど僕にとっては)ということを理解していた僕は、吉椿さんの所属する団体 NGO CODEで半年間インターン生として働かせていただくことにした。
NPOの職員という仕事はどういうものなんだろう、と頭と体で必死に理解しようとした半年間だった。(その時の日々に関してはこのブログに)
もちろん半年でその分野・業界の全てを知れるわけではないけれど、僕の知らなかった現実の厳しさは充分に感じられた。
インターンの半年間を終了し、愛媛に戻ってフラフラしていた際にまた一つ大きな出来事が起こった。2018年7月豪雨。西日本を中心として降り続いた雨が、河川の氾濫や土砂災害を招いたこの災害は皆さんの記憶にも新しいだろう。
災害直後より、愛媛県の宇和島という場所へ行って家屋に入った泥を掻き出したり、お水を配ったりした。
時が少し流れ、季節が本格的に夏になると、遅れていたみかんの摘果作業もボランティアが手伝うようになっていった。
愛媛県の宇和島という場所は、柑橘産業がとても盛んで夏頃には、秋〜冬の本格的な収穫シーズンに向けて摘果、要は間引き作業を進めなければならない時期だった。
しかし、土砂災害により農場へ行く道が潰れていたり、住んでいる家の復旧が終わっていなかったりで、中々作業が進んでいなかったため、ボランティアが駆り出されたのだ。
僕もご多分にもれず摘果作業をお手伝いして、「みかんってこうやってできてるんだ〜」などと思いながら、その非日常な日々を過ごしていた。
時は進み秋。みかんは収穫のシーズンに入り、僕はアルバイトとして宇和島の農家のおっちゃんの所に泊まり込みで働くようになっていた。(経緯を書くと長くなるので割愛)
僕の実家は広島県の広島市で、いわゆる地方都市と呼ばれる場所にあり、農家的な暮らしをしたことがなかったので、新鮮で面白い時間だった。
朝のまだ暗い時間に起き、朝ご飯を食べてみかんを取る。お昼ご飯を食べてみかんを取って、お菓子休憩を挟んでみかんを取り、暗くなってくると家に帰って、晩ご飯を食べながら酒を飲む。
大体最初は缶ビールを2本くらい開けて、そこからは日本酒をおっちゃんと注ぎあって世間話をして、あっつい風呂に入って寝る。そしてまた同じような明日が来る。
そんな刹那的で幸せな日々を過ごしていたある日、近所のおばちゃんが旨い肉を持ってきて鍋をしていた時のことだ。
おばちゃんが僕に
「あんたがきてくれてあの人本当に嬉しそうでよかったわ〜ありがとうね。」
と言い、こう続けた。
「ほら、あの人娘さんみんな大阪と東京に行って、最近奥さんも…ねぇ。」
おっちゃんの奥さんは数年前病気で亡くなっていた。そのことは、僕に出す昼ごはんがうどんばかりのことや、夜ご飯が冷凍食品ばかりのことを謝るたびに口にしていた。「あいつがいればなぁ…」と。おばちゃんはあんまり料理ができないおっちゃんのことを心配して、こうやって時より旨い肉を持ってきて料理をしてあげているそうだ。
「それで寂しそうな顔をすることが多かったけど、あんたが来てる時は楽しそうでねぇ。あんな笑顔みたのいつぶりだろうねぇ。」
僕はこの時は涙腺をコルクでギュッと閉じ、「そんなことないですよ〜」と笑って見せたが、その夜は何故だか中々寝付けなかった。
それからまた時間が過ぎて、農家的暮らしも非日常ではなく日常に感じるようになってきた頃、収穫の手伝いにきていた近所のおじいちゃんが玄関で転んで入院したというニュースが日刊おばちゃん通信(号外)から飛び込んだ。
そのおじいちゃんはもう長い間収穫の時期には手伝いにきてくれている人で、その人ありきで収穫の段取りをしていたおっちゃんは大変弱っていた。
みかんの収穫にはなんといっても人手が鍵を握る。木からみかんを摘み取り、木の近くにあるカゴに入れる。そしてそのみかんがたんまり入ったカゴを一箇所に集めて、山の上までトロッコで運び、車に積み込む。特にみかんの木からみかんを摘み取る収穫作業は、人がいればいるほど進む。
「近所の山下さんに頼むか〜トュルル…あっ山下さんそう、みかん。手伝ってくれんかな〜。あ〜そうよな、田中さんの所にもう手伝いに、そうよな〜この時期はみんなどこかしらにね〜あぁ全然気にせんとって〜ガチャ。ふぅ」
この時期になると近所の人も親戚の人もみんなどこかしらの手伝いに行っていて中々人が集まらない。さらに若い人は、愛媛でも県庁所在地の松山に就職するか都会に出るため、若い労働力も地域にはあまりいない。
手伝ってくれている人も年々歳をとり、できる作業は減り、今回のように突如失われることも起こりうる。
あれはいつくらいのことだったろうか。くだらないバラエティを観ながら、ビールから日本酒に移行して少し経って、つまみがなくなろうとしているくらいの時、おっちゃんがポツリと。
「娘全員が嫁ぐまでみかんで育て上げて、もう養えばいいのはワシ一人。なんのために頑張ればいいんかのぉ。」
そういって寝床に行くおっちゃんの背中はいつもよりどこか寂しく見えた。
そして、そう言いながらも翌朝からモリモリ働くその背中は、とても力強くて、眩しかった。
宇和島でのそんな日々も過ぎ去り一人愛媛の自宅で、将来どうしようかと就活もしないで悶々と悩んでいる時にこの二つの話を思い出してふと思ったのだ、
「なんだどこも一緒じゃないか」と。
僕はこの場所で働く
人口が増えて経済がギュンギュンと成長している国もどこかで人口は減り始め、少子高齢化が進み、人々は都市へ行く。そして、ネパールの山奥や宇和島のみかん山で寂しい背中を抱えながらも、力強く日々を生きる人がいる。
日本の人口の中で65歳以上がしめる割合27.3%、世界で一番の高齢化率だ。少子高齢化や地方の過疎化が世界的な問題であり、今後さらに顕在化されていくであろうとはいえ、この問題が今最も顕著でトップランナーであるのはここ日本だ。
僕は、4月から愛媛のスタートアップに入社し、この問題に真正面から向き合って仕事をすることにした。
この問題を解決するサービスをつくれば世界の問題を解決できる!ビッグビジネスだ!というほどの野心も、プレイヤーの多い都市部よりも地方で活躍した方が希少人材になれる!というしたたかさも僕にはない。
ただ、ネパールや宇和島で見た寂しそうな背中が頭の隅から離れない。僕には、この頭の隅っこにある寂しそうな背中を無視して生きられる強さがないだけだ。
かの坂口安吾は1946年に堕落論の中で、
戦争に負けるから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
と語った。戦後すぐにこのような文章を書いた人間がいたのかと、初めて堕落論を読んだ時には震えた。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
世界の中で経済大国として君臨していたことが過去のものとなり、もはや中国、アメリカだけでなく、アジア諸国にも追い抜かれようかというこの国で、さらにその中でも衰退の一途をたどる地方で働くことは正しいことなのか、と悩んでいる時に、なぜだか堕落論が僕の頭をぐるぐると回っていた。
この国は確実に堕ちていっている。しかし、安吾のいうように僕らが僕らを発見し、救うためには、堕ちる道を堕ちきらなければならないのかもしれない。そのためには、”正しく堕ちる道”をきちんと見極め、堕ちなければならない。堕ちることは悪いことではないのだ。
そう思うと、僕にもできることがある気がしてくる。止めることができないことはたくさんある。ただ、失ってはならないものを見付け、守り、進化させ、新しいものを始めることができるかもしれない。
この国は堕ち、この地域も堕ちるだろう。その前提で、僕は寂しい背中を見続けられるほど強くはない。だから、僕はこの場所で働くことに決めた。
今後、僕の愛媛のスタートアップ企業での日々はこちらのnoteで書いていこうと思っているので、気になる方はフォローしておいていただけるとありがたいです。
非常に長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。