誰に刺さるモノをつくりたいのか?
noteは、はじめましてです。
愛媛大学学生をしております、高橋大希というものです。
『いつか勇者をたおしたい』というブログを書いています。
ブログよりも気軽に、とりとめもない日頃思っていることや、感じたことを
「だれが興味あるねん!」
と思いながら書いていこうと思います。
文章を書いていると、とにかく沢山の人に読んでもらうことを目的としてしまう時がある。
それもおそらく間違いではないと思うけれど、それではだめなんだと同時に思う。
誰にでも刺さるようにつくったモノは、きっと誰にも刺さらないモノだ。
だとしたらぼくは、誰に刺さるものをモノをつくりたいのだろうか?
砂場で遊んでいる子どもだろうか?それともそれをほほえましくみているおじいちゃんだろうか?あれっ、あれはおじいちゃんじゃなくて、おばあちゃん?
すいません、公園で今文章を書いているのですが、おじいちゃんとおばあちゃんどっちかわからないことありますよね。
話を戻しましょう。
宇野常寛さんをご存じだろうか?
PLANETSという雑誌をつくったり、様々な人、例えば政治家、起業家、学者、ジャーナリスト、様々な分野の人との横断的な対談をされたりしている方だ。
その方の出す雑誌や、本や言葉が本当に素晴らしいのだけれど、宇野さんが以前言っていた言葉で「だれに刺さるモノをつくりたいのか?」のヒントとなるものがあったので、思い出した。
「ぼくは、ぼくが読みたいモノをつくっている」
その通りだ。ぼくの一番の読者はぼくだ。
つまり、ぼくはぼくが面白いと、何度も読み返すようなものをつくらないとだめだ。
その次は誰なのだろうか?
インタビュー記事の場合は、きっとその話をきかせてもらった相手だろう。
話をきかせてもらった相手が、その記事を友達や身内の人に紹介してくれるようなモノをつくることができればそれ以上の喜びはない。
それ以上の喜びはないと書いたけれど、ほんとはそれは嘘で、沢山の人に読んでもらえればとてつもなくうれしい。
でも、それじゃあだめなんだ。自分のそして目の前の相手の、心に刺さるモノをつくろうと思わなければ。
と、今日書いたこの文章は自分に刺さったのかと言われると、刺そうと思ったけれど、刺さり切っていないような気がする。
手に持っているのが刃物ではないのか、マジックとかで使うカシュッって言って縮まって刺さらないものなのか、勢いがないのか。
何にせよ、ぼくはぼくが欲しいものをつくろうと思う。