プレゼンテーション2

拝啓 現実という名の怪物さまへ

僕は今、大学の卒業論文を書いている。
(厳密にいうと今書いているのはnoteなのですが、そこは勘弁を)

そして、中々進まないwordのページ数を見ながら、日々こう思うのだ。

「こんなはずじゃなかった」と。


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あれは、まだ蝉が鳴き出す少し前、家でクーラーを使い始めるかもうちょい我慢するか、友達に

「もうクーラー使ってる?」

「いや〜まだ扇風機でいけるっしょ〜」

というそんなもん家の立地にもよるから、あんまり参考にならんわ。という会話をちょうどしているくらいの時期だった。

今では、口にするのも恥ずかしいが、自分の卒業論文が何かしらを前に進めると本気で思っていた。


論文とは、人類の知を進める作業である。

今の人類の知とは、誰か一人がある日作ったものではない。

昔むかしから、誰かが新たな発見をし、そこに新たな知を誰かが付け足し、残された課題を少し前に進める。

そうやって人類の知は、確かな歩みを続けてきたのである。

それゆえに、自分の書く卒業論文も誰かしらの受け継いできた知を、誰かしらに受け継ぐために少しだけかもしれないが、何かしらを進めるものになるのだろう。

当時はこんなことを本気で思っていた。


季節は進み、

「あれ?もうクリスマスっぽいCM流れてるじゃん。もうそんな時期?てか、今年一年もう終わり?俺、令和元年っぽいことまだしてないよ〜」

という、「令和元年っぽいとは?」という会話がちらほらと聞こえ始める時期になった今、


いかに文字数を稼いで、それっぽい形のものにするか。


ということだけが至上命題になってしまった、進み方の芳しくない卒業論文が僕の前にある。


そう、「こんなはずじゃなかった」のだ。


色んなところからそれっぽいデータを頑張って探してきて、そんなに興味があるわけじゃないけれど、先行研究が見つかりやすくて書きやすそうなテーマに鞍替えして、何とか形にすることだけに心血を注ぐ。

ホントはそんなことじゃなくて、もっとこの大学生活の経験を活かした、“斬新で画期的な自分にしか書けないもの”を書きたかった。いや書くはずだったのに。


と思うと同時に、「まぁこんなことの繰り返しなのかもなぁ」とも思う。


僕は今年大学を卒業する。
(目の前の進み方が芳しくない卒論を、無事描き終えることができればだけれど…)

僕は周りの皆んなより大学に一年多めに通っているので、大学での友達の多くは今年、社会人一年生になった。

先日久しぶりに大学の友達とお酒を飲んだ。

大学生の時は、前向きでキラキラしたことばかり語っていたアイツは、日々の大変さと明日を如何にやり過ごし週末まで耐えるかに必死だった。


けれど、僕は彼の姿がとてもカッコよくて眩しく感じた。


僕は今年大学を卒業して、来年から社会人一年生になる。


もうさすがに、小学生のように将来の可能性は無限大!ではなくなってしまった。

“なれるもの”より“なれないもの”の方が多くなってしまった。


けれど、僕は力強く明日を生きなければならない。

ワーワー理想だけ語ればよかったモラトリムはもう終わるのだ。


「何者かになりたい」と存在しない誰かの人生を夢見るのではなく、“ただ押し寄せてくる現実”と対峙しなくてはならない。

それは、小さいころ夢見ていた姿とは少し違うかもしれないけれど、確かに輝いているに違いない。久しぶりに会ったアイツのように。


一先ず僕は、目の前にある“ただなんとか形にするための卒論”を、いま僕の力いっぱいでなんとか形にしようと思う。



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