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【01巻】理不尽

01昇格への期待

 入社3年目の内田君が今日も遅刻した。大卒3年目の正社員だが、腕も悪いし、覚えも悪いし自己管理もなってない。通常、大卒正社員であれば、3年目には店舗マネージャーに出世していてもおかしくないのだが、彼は未だにサブマネージャーにすらなってない。

 かなり厳しく叱りつけた上で、今週は休日も出勤するよう命じたのだが、命じた際の「休みだけは~」と哀願するような表情を作る辺りがいちいちムカつく奴で、全くもってやる気が感じられない。 

 そもそも、散々自宅で手技の練習をしてこいと言ったにも関わらず、サボりにサボった挙げ句のこの体たらく。当然彼に問題があるのだが、反省する振りだけして一向に改める気配が無い。

 こういうクソスタッフが1人居るだけで周囲は迷惑するのだが、私の所属する片岡メディカルという会社は人事部の連中の目が節穴なのか、何なのか知らないが、半分以上の人間が内田君のようなスタッフであり、その負担としわ寄せが一部の出来る人に集中する。

 にも関わらず、役職や成果による手当はごく僅かで、殆ど年功序列のような給与体系の為、サボった奴が得するような仕組みになっているのだ。 

 昼過ぎ、これから目黒本社へ向かう。サブマネの成瀬君に店舗を任せ、控え室へと下がる。内田君の件で午前はイライラしていたが、今はワクワクしている。

 私は現在、片岡メディカル株式会社が運営するリラクゼーションマッサージ店で店舗マネージャーをしている。全国に200店舗以上の店舗を構え、業界でも上位の店舗数に売り上げを誇る。医療専門学校で柔道整復師という、極めてシンプルに言えば接骨院の先生の資格を取得した後、正社員として入社し、もう10年になる。

 なお、現在店舗マネージャーを務める渋谷店は3年目。恐らく今日の内示で、エリアマネージャーへの昇格を告げられるのだろう。もしエリアマネージャーへの昇格が決まったのだとすれば、同期で最速の出世となる。


02片岡メディカル

 渋谷の雑踏を急ぎ足ですり抜け、山手線のホームへと昇り、丁度到着した電車に乗り込んだ。車内は比較的空いていた。私は扉のすぐ脇に乗り込み、窓の外の景色を見ながら、昇格を告げられた際のコメントを考えていた。

 電車が目黒駅に到着。急ぎ足で改札を抜け、駅から10分少々の場所にある本社へと歩いて行く。目黒本社と言っても目黒駅付近にある訳では無い。駅から細い道を下り、大きなホテルの脇を抜け、目黒川を超えた向こうに本社ビルがある。

 片岡メディカルの自社ビルなのだが、元々どこかの会社の自社ビルだったのを、20年前くらいに買ったものだそうで、正直、リラクゼーション事業を営む会社の本社ビルとしては、あまりにゴツゴツ過ぎるというか、どこぞの駅の裏界隈にある古いビルっぽいというか……、要は似つかわしくない。 

 もし、暖色系の看板にマッサージなどと掲げてようものならば、勘違いした殿方共がやって来て「裏オプションはありますか?」と聞いてきそうな、そういう外観のビルなのだ。

 一応、現社長になり、1階部分だけは改装してキレイになったのだが、1階部分の澄ました感じと上階部分の裏界隈ぶりとの落差が却って怪しさを助長している。幹部もそれは認識しているそうで、来年だか再来年に一応外壁を塗り替える予定だそうだ。私もそれが良いと思う。 

 本社ビルに到着。マネージャー職という事もあり、月に数回はやってくる場所なのだが、今日はちょっと緊張する。普段は上下スウェットに上着を羽織る程度なのだが、今日は背広っぽく見える黒のチノパンに、オックースフォードタイプのワイシャツ、背広っぽい上着を羽織っている。慣れない服装のせいもあるのかもしれないが、歩き方にも力みがある。入口前で一旦深呼吸をし服装を整え、澄ました雰囲気のエントランスから、ビル内へと入った。

 入ってスグの脇に、高さ1メートル弱くらいの白のプランターが間仕切り代わりに配置されていて、その向こうは待合、その奥には来客対応用の応接ルームがある。待合には3人掛けのベンチが3脚並んでおり、自動販売機が置かれている。 

 ビルは9階建てで、エントランスの隣はテナントになっていて、かつては直営治療院だったが、今はお弁当屋さんが入っている。2階~6階が事務所になっており、7階はカフェテリアと研修室。8階には会議室や面談室などがあり、9階が社長室、重役室となっている。

 エレベーターに乗り8階で下りる。張り紙だらけの廊下を抜けて、来るようにといわれていた第三面談室へと向かう。面談室の入口脇にある内線電話で到着した旨をスタッフに伝えると、「中でお待ちください」と言われた。

 中に入ると、面談室の壁には額縁が掛かっていて、会長直筆の社訓が目に入る。

「短気は損なり」
「何事にも寛容であれ」
「心に始まり、心で終わる」

 いつも思うのだが、何を言いたいのか分からない。よくある話だとは思うが、【会長の直筆】、というだけで内容に関しては反論も異論も許されない。どう考えても、意味不明だと思うし、訓戒としてどう活かせば良いのかが分からない。

 一度、会社の幹部に尋ねた事もあるが、「そこは触れなくて良い」との回答だったので、側近ですら感じているけど何も言えないのだろう。確かに、片岡メディカルはそういう会社だ。


03掃き溜めに飛ばされる

 しばらくすると扉をノックする音に続いて課長の金子さんが入ってきた。

 椅子から立ち上がり挨拶をする。挨拶も半ば、金子さんが座るよう指示を出したので、それに従う。金子さんも椅子に腰掛け、持参した書類を揃えるように机の上でトントンと叩いている。揃えた書類を置きこちらを向くのだが、中々視線が合わない。どうやら緊張しているみたいだ。呼吸の感じからも分かる。

 嫌な予感がする。金子さんが社交辞令めいた話を始めた。

「今日は暑いな~」
「仕事の方はどうだ」
「年末年始はどうする」
などなど。

 金子さんとは普段からコミュニケーションをよく取る。飛び抜けて優秀というタイプの人ではないがすごく良い人で部下から好かれている。私は生意気で上司には煙たがられるタイプの人間だが、金子さんに関して時々飲みに行くなど関係性は良い。その金子さんが、まるで久しぶりに会った人と世間話で時間を潰すように、どうでも良い話を延々と続ける。

 どうも悪い話のようだ。

「金子さん、あんまり良い話じゃないんでしょ」 
 金子さんが頷く。
「う~ん。川尻、俺は納得がいかないんだ。かなり反対もしたんだよ」 

 やっぱり悪い話のようだ。姿勢を正し、上着の襟裾を整え「金子さん、言って下さい」と促す。

 金子さんは目の前に置いた書類の端をパラパラ漫画でもめくるかのように、親指でザザっと音を立てながらはじく。はじき終えた親指を手掌内に折込み拳を作ると、その拳で書類の中央をドンと叩いた。

 ドンという音で、金子さんも腹を決めたらしい。二度ほど咳払いをすると、金子さんは、少し怯えるような目と改まった口調で内示を告げた。

「川尻、1月から大井町接骨院の副院長として働いてもらいたい。これは既に決定事項であり、事前相談では無い」 (内示で会社からの提案と、本人の希望とを摺り合わせたり、事前に確認することがある)

「えっ!?」

 予想を遙かに上回る悪い知らせだった。思わず「えっ!?」と言ったまま、次の言葉が出てこない。せいぜい、エリアマネージャーへの昇格が見送られ、別の店舗のマネージャーを続けることになる、その程度の話だと思っていた。

「えっ大井町接骨院ですか?」

 大井町接骨院は、社内では通称「掃き溜め」「辞めさせ部署」と呼ばれている。昨年も、問題を起こした従業員や、辞めてもらいたい従業員が異動させられ、間もなく退社した。一人はお客さんに対するセクハラで飛ばされたスタッフ。一人は技術的に未熟なゆえにお客さんに怪我をさせたスタッフ。

 なぜ、そんな部署に自分が異動になるのか? 全く理由が浮かばない。

 金子さんが気まずそうな顔を浮かべる。

「あ~、川尻。今回の決定は降格のようで降格では無い。給与は今までと変わらないし、副院長といっても実質院長みたいなものだから……、あ~、実質降格ではない」。 

 金子さんは気まずそうな顔のまま説明を続ける。

「まあ、上の意向で決まったことでな、あ~、俺としては反対した。が、あ~、多分本社も懲罰を意識したものではない……と思う」。

 何やら熱いモヤが腹の底からこみ上げてくる。口を開けば、確実に会社批判が飛び出してきそうだが、幾ら納得のいかない人事とは言え、金子さん相手に暴言を吐くのは違う。そのくらいは分かる。

 金子さんの取り繕ったような話を適当に受け流すと、私は「分かりました。引き続き宜しくお願いします」と返し席を立ち、「ちょっと待て」と止める金子さんを無視して急ぎ面談室を出ていった。

 怒りを駆動力に変えたような足取りでエレベーターへと向かう。後ろから金子さんが小走りで追ってくる。

「川尻、きっと何らかの誤解が原因だと思うんだ。必ず何とかするから、辞めるとか言わないでくれ、なあ~」

 私の肩に手を乗せ、金子さんは何度も何度も「俺も努力するから」と細い声で繰り返した。肩に金子さんの手の冷たさを感じると、腹の底からこみ上げるようなモヤは一旦収まった。

 金子さんも自分に告げるのは辛かったに違い無い。大体、人事課の人間が同席してない。つまり、この人事を決めた本部の人間が居ないのだ。

「金子さん、何かすいません。これから引き継ぎやるんで、次のマネージャーは誰ですか?」
「あっそうか、そうか……、忘れてた」

 金子さんは、「誰だっけ?」と呟きながら、急ぎ手持ちの資料を確認している。

「あ~、川尻、次のマネージャーは大林だ。お前も知ってるよな」
「えっ大林?」

 あまりに意外だった。というよりあり得ない人事だ。大林は私が、渋谷店のマネージャーになった年に配属された人物で、技術から接客から勤務態度に至るまで何一つなってない奴。お客さんからのクレームも多く、女性客から連絡先を聞き出そうとして問題になり、千葉の田舎の方の店舗に飛ばされた人物。

「なんで大林なんですか?」 

 金子さんは首を傾げながら「専務側から捻じ込まれたんじゃないか? 普通にあり得ないからな」と答えた。


04同期の田尾

 申し訳なさそうな表情を作る金子さんに見送られエレベーターに乗り7階のボタンを押した。

 会社のビルの7階にはカフェテリアがある。カフェテリアと言っても、自販機や珈琲マシーンが配置されている場所の周辺に、社内で余った椅子や机が適当に置かれているだけで、都内の有名大学や大手企業で見掛けるようなオシャレなカフェテリアとは全くもって別物だ。

 特に机は、鉄のフレームにベニヤ板をくっつけただけの工場の作業台にでも使われるような殺風景な物で、机の面をよく見ると、恐らく油性マジックで掲示物を書いて裏に染みてしまった跡だと思うが、「お知らせ」と読める黒の汚れが、焦げ茶色の板に薄く残っていたりする。

 でも、不思議なもので、この余り物と古い物で構成された、名と体がチグハグなカフェテリアは居心地が良い。

 そんな名と体がチグハグなカフェテリアに寄ると、同期入社の田尾が500ml缶を片手に窓から外を眺めている。「おす!」と声を掛けると、振り返り「おー川尻!」と手を振って返した。田尾はラグビー部出身でFWをやってたという割には、力士のような、いや子供が力士というニックネームを付けそうな、あんこ型の体型をしている。身長は確か185cmで、体重は110キロ~120キロ程度だと聞いたことがある。下半身も安定しており、実に頑丈そうな外見だ。ただし、本物の力士と違い体脂肪率が異様に高い。

 田尾も内示で呼び出されたそうだ。本当は内示を明かしてはいけないのだが、そんなのお構いなしに2人で話す。どうやら田尾は、リラクゼーション事業部・大崎店のマネージャーから、現在社長が力を入れているフィットネス事業部へと異動になったそう。

 田尾が戯けた表情を作る。

「川尻、俺がフィットネス事業部って、説得力無いよな~」
「確かにな。田尾をダイエット指導ってギャグだろ」
「だから、ダイエットの為に、コーラからファンタに変えたんだよ」
「ハハハ」(愛想笑いしておいた)

 田尾は健康診断でコレステロール値が高くて困ったという話。最近、股ずれが酷くて困っている、といった自虐ネタを立て続けに披露する。田尾は、いつも、こんな感じでふざけている。そのあんこ型の体型とふざけたがりの性格のお陰もあってか、社内ではムードメーカー的な存在で、彼が居るだけで場が明るくなる。

 私は今日の理不尽な人事に対する不満を吐き出したくて、田尾を食事に誘うことにした。

「なあ、田尾、飯行こうぜ、今日はお前に俺の悲劇について話したいんだよ」
「何だよ悲劇って?」

 私が「エリマネへの昇格じゃなくてさ飛ばしなんだよ」と伝えると、田尾もふざけるのを止めて、「まじか、川尻もか。実は俺もなんだよ。よし、とことん付き合うよ」と答えた。


05社内抗争とアホ専務

 田尾と2人で会社を出ると、会社から少し離れた場所にあるファミリーレストランへと向かった。

 あぶらとり紙の女性のイラストにハの字の眉毛を足したみたいな素敵な笑顔の店員さんに案内され席へと移動する。私は案内先が2人用の席になりそうだったので、店員さんに声を掛け「すいません、コイツこんななんで、広い席でお願いします」と指差す。

 田尾もテレビの演出でよく見掛けるような「でーん!」という効果音を口真似しながら両手の親指で自分を指すポーズを取る。

 店員さんの目尻と眉が一層垂れ下がり、右手の平で口元を隠すと「分かりました」と言って、奥の4人掛けのソファー席へと案内し直してくれた。田尾は「あの小さな椅子だと壊しちゃうかもしれないからね~」とふざけている。

 席に座ると、いつも通り田尾が戯け出す。「俺ダイエット中だから」といいながらセットメニューを2つ頼む。「血糖値対策で」と言いながらコカコーラを頼む。「野菜を先に食べるといいんだよ」と言いながら、フライドポテトを頼む。私が「フライドポテトかよ」と指摘すると、「じゃがいもは土に埋まってるから野菜だぞ」といってふざけている。私と一緒の時は、私が小さなボケをいちいち拾い上げるものだから、調子に乗って3つも4つも5つも続ける。

 今日も「分かったから、会話をしようぜ」と打ち切るまで延々小ボケを続けていた。

 田尾と知り合ったのは高校時代。柔道の全国大会の団体戦で対決したのが最初の出会いだった。その後も柔道部の練習試合や大会に出る度に顔を合わせるようになり、いつしか仲良くなっていた。その後、選抜の合宿でも一緒になり、お互い推薦で大学も一緒になる予定だったが、私が起こした事件のせいでそれは叶わず。(事件の詳細は後ほど) 

 だが、入社前の研修で再会。当時は新入社員の半分以上が1年で音を上げて辞めてしまうような厳しい職場だったが、その厳しい中をくぐり抜けてきた同志でありライバルでもある。

 なお、お互い同期の出世頭でもあった。 私が掃き溜めに飛ばされた事を告げると田尾は驚いていた。

「川尻、なんでお前が掃き溜めに飛ばされるんだよ。上と揉めたのか?」「う~ん。年柄年中揉めてるからね。でもこういう理不尽な待遇は受けたこと無かったんだよな」

 田尾の目が急に鋭くなる。

 いつもはニコニコ笑顔で過ごしている田尾だが、真面目な話をする時にだけ目が鋭くなる。普段とのギャップのせいもあってか、田尾との付き合いが浅い人だと、怒っているかと勘違いしてしまう。(だからこそ、田尾は普段からニコニコ笑顔を心掛けている) 

 私の場合、柔道部で対戦した際に、田尾の今以上に鋭く、黒目が絞られた、まるで相手を射貫くような目つきの彼を知っているから、何とも思わないのだが……。

「川尻、お前も知ってると思うけど、今内の会社さ、専務派と社長派で揉めているだろ」
「あ~、知ってるよ」
「専務派がさ、乗っ取りを企んでさ、人事にまで干渉し出しているらしいんだよ」
「らしいね。俺も山田さんから聞いた」

 山田さんとは社長の右腕として社長室長を務めており、会社の内々の仕事を担当している人だ。私にとっては先輩や上司の中で最も仲が良く、年柄年中一緒に飲み歩いている人でもある。

「多分だけどさ、お前の掃き溜め行きも、専務派の仕業だと思うぜ」
「だよな。だって俺の後任のマネージャーが大林だよ」
「えっ!大林って、あのセクハラ野郎か!」
「いやいや、セクハラじゃ無くてナンパ野郎」
「いやいや、あいつセクハラもやってるんだよ」
「え~、それは知らん」

 田尾によると、千葉の田舎に飛ばされた後に、またやらかしたらしい。 派遣で入ってきた19歳の女性スタッフに度重なるセクハラ発言を繰り返し、女性スタッフの親が本社まで苦情に訪れた事があったそうだ。

「え、何でそんな奴が渋谷店のマネージャーになるんだよ。ヤベーだろ」「だから、おかしいだろって言ってるんだよ。普通だったらあり得ないだろ。結局、あいつがさ専務の後輩の弟だから、こうなってんだろ」

 誰が見てもおかしいのだが、アホ専務が乗っ取りを企み始めてから、こういう理不尽な事が平気で罷り通るようになった。当然、抗議する人もいるのだが、それで折れるような輩では無い。

 だから、まともな人は大体辞めてしまう。


06ほとぼりが冷めるまで

 注文した料理が配膳される。素敵な笑顔の店員さんに田尾が絡む。「すいません魔法をかけてもらえますか」とかアホな事をお願いしている。「メイドカフェじゃねえんだから辞めろよ」と止めるが、店員さんが乗りの良い人で、「おいしくなあれ」と熱々のハンバーグの載った鉄板の上で指先をくるくると回した。

 田尾が「おー。照りが、照りが、店員さんのお綺麗な肌に負けないくらいに美しくなりましたよ!」とふざけている。ひと魔法(ウザ客対応)を終えると、店員さんが顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに下がっていった。

 田尾は下がっていく店員さんの背中に「ありがとう!サービス料、お代に乗っけておいて」と告げると、即座に真面目な表情に戻った。

 急な真顔に私が吹き出すと、真顔と笑顔を交互に作りふざけ出した。 しばらく真顔と笑顔の行き来を繰り返した後で、真顔の方に定まると、少し静かな声で話し出した。

「川尻。実は俺もさ、フィットネス事業部って言ってもさ、総務課なんだよ」
「えっ。なんで?」
「実はさ、俺さ、アホ専務の下っ端と大喧嘩になったろ――」

 田尾が揉めたアホ専務の下っ端とは田尾がかつてマネージャーを務めていた駒込店に居た暴走族上がりのサボり魔の事で、厳しめに叱ったところ、殴り合いの喧嘩に発展。だが柔道全国大会レベルの実力者に族の幹部クラスでもない群れてただけの小物が勝てるはずもなく、あっという間に関節を決めて押さえつけ返り討ち。ただし、田尾はその件で本部に呼び出され、アホ専務派の幹部の前で土下座させられるという事件があった。

 田尾が続ける。

「多分、その報復だと思うんだよね。マジあいつら脳みそ戦国時代だからな」

 充分あり得る話だ。
 田尾が続ける。

「俺の場合は救済措置みたいだな。エリアマネージャーがそう言ってたからな」
「なるほど、一旦総務課に避難してって事か」
「そうそう。そういう事。一旦総務課で預かった上で、多分フィットネスジムの現場に移るんじゃないかな~。こっちはオール社長派の部署だからね」

 私の受難も、田尾の受けた理不尽も、アホ専務による攻勢が活発になった証拠なのかもしれない。

 実際、元々全国一体的に運営していたリラクゼーション事業部が、東日本と西日本に分割され、西日本をアホ専務派が完全に仕切るようになった。(ただし、西日本と言っても神奈川と西東京は西日本に属する)

「今もさ、年柄年中社長に権限を寄越せって談じ込んでいて、東日本の人事にも干渉してるんだよ」

 田尾によると、リラクゼーション事業部の売り上げは東高西低で、事業部を2つに分け西側の管理に新たにスタッフが必要になってしまった結果、東と西で利益格差が激しくなっている。その上、アホ専務や取り巻きの一存で勝手に後輩や気に入った野郎を正社員として採用するものだから、どうしても人が余る。その余った人材を東日本に押しつけてくるのだそうだ。

 ただ、一方で脳みそ戦国時代の武闘派経営なので、派遣やパートで雇ったスタッフはスグ辞めてしまうらしく、そのヘルプを東日本側のスタッフで対応する事もしばしば……。

 食事を終えてレストランを出る。田尾はすっかり店員さんと仲良くなっていた。

 目黒駅で田尾と分かれ電車に乗った。先ほどよりも車内は混んでいて、電車の乗降口付近のスペースが占拠されていた為、座席と座席の間のスペースへ移動した。

 どうやら間違いない。私に関しても報復人事のようだ。確かに、田尾以上にアホ専務派の連中とも揉めてきたし、取っ組み合いの喧嘩など両手両足では足りないくらいの回数になる。恐らく、専務派の連中が本部に談じ込んだんだろう。だから、エリアマネージャーの金子さんも事情がよく分かっていなかったか、もしくは分かってても口外できなかったが故に、本部の決定としか言いようがなかったのだろう。

 だとしたら仕方ない。辞めろというメッセージではない事は分かった。恐らく私の場合、アホ専務派の報復もあって、一旦は掃き溜めに飛ばす事になっただけで、金子さんも言ってたように、降格ではないし、副院長に収まるのだし、「辞めるとか言わないでな~」という哀願まで加わった訳だ。

 なるほど納得。ほとぼりが冷めた頃に社長派が仕切る事業部に戻る事になるのだろう。

 まあ、それだったら仕方ない。


07川尻家の騒動

 田尾と別れ目黒駅からMG線に乗るとH駅でTK線の普通電車に乗り換え数駅で自宅のある梅ヶ丘駅に到着した。商店街と梅林で有名な駅で、私の地元でもある。

 私は、その駅から10分程の場所にある大型マンションに妻と息子と3人で暮らしている。築年数は22年と大分経つものの、元々ハイグレード分譲マンションとして売り出された物件で数年前にリフォームしている為、全く古さは感じない。

 それも、私の母親が保有する物件の為、家賃も無料で管理費だけを負担しているのみ。正直、私の今の給与では、とてもじゃないが住めるようなマンションではない。

 では、なぜ、こんな高級マンションに家族3人で住めているのかと言えば、それは我が家の家庭事情が関係する。 

 梅ヶ丘には母の実家があり、これが結構な資産家なのである。電気工事に関わる会社を創業した祖父により財を成した一族なのだが、まだ梅ヶ丘が今のように発展する前に付近に土地を購入しており、その土地の運用により莫大な財産を得たのだ。

 しかし、この手の成金一族によくありがちな話かもしれないが、子供達(つまり母とその兄妹達)が相続を巡り揉める事になる。

 揉め事の中身を紹介する前に、まずは登場人物から紹介しておこう。  

 まずは1人目。諸悪の根源である長男。大学卒業後は就職もせず稼業などそっちのけでバンド活動をしながら俳優だか何だかを目指していた人で一族の大問題児だ。

 つぎに次男の叔父さん。(母からすると弟に当たる)一族でも最も優秀な人で、祖父の稼業を手伝い、その発展に最も貢献した人物だ。さらに長男が巻き起こしたトラブルの数々の処理、長男がバンドの傍らでやり散らかしたビジネスの尻拭いに至るまで、一族の中でも最もしっかりしている人物だ。 

 長女が私の母親で、祖父の会社の経理を担当していた。 

 次女は当時にしては珍しく大学院まで進学した人で、卒業後に結婚して、今は神戸で暮らしている。

 問題の経緯はこうだ。

 今から8年前、どら息子だった長男が散々放蕩した挙げ句、多額の借金と自身の妻以外に2人の子供を作って帰ってきた。その尻拭いを主に次男が担当するのだが、どら息子ほど可愛いという俗説通り、祖父の場合も例外ではなかったみたいで、この放蕩息子を「こいつも改心したから」という理由で、何と会社の後継者に指名したのだ。

 当然、家業に最も貢献していた次男は抗議する。

 いや、次男だけでは無い。私の母も、次女も、親戚も皆反対したそうだ。しかし、長男可愛いさの余り、擦った揉んだの挙げ句に祖父は、何と最大の功労者である次男を会社から追い出す。

 既に会社の大黒柱的存在だった次男を追い出してまで、放蕩息子の長男を後継者に据えたのだから私も驚いた。母によると、周囲の猛烈な反対に、却って意固地になってしまい、もう誰の意見にも耳を傾けなくなってしまったそうだ。

 間もなく祖父が脳梗塞で倒れ帰らぬ人となるのだが、その後の相続で長男が祖父の筆によるものと言い張る遺書を盾に、弟妹を出し抜くようにして不動産をほぼ1人で相続する。納得の行かない他の弟妹達で結束して裁判を起こそうとするのだが、用意周到な長男の前に、相談に乗ってもらった弁護士さんからの「徒労に終わる可能性が高いから追加の現金で妥結した方が良い」とのアドバイスも加わり、諦める事になる。

 そんな騒動の影響で、母が「兄の近くに居たくない」というたっての頼みもあり、私の父が58歳の時に、勤めていた会社の早期退職制度を利用し、母父妹の3人で熱海に移住。現在は向こうでカフェを経営しながら悠々自適に暮らしている。

 相続時に長男にせしめられたとはいえ、生前の祖父から贈与やら何やらの形で随分と財産を受け取っていたので余裕はある。そこで、丁度結婚したばかりの私ら夫婦が、マンションを譲り受け住ませてもらう事になったのだ。(正確には名義は母のまま)

 なお、祖父の会社は案の定、業績不振に陥り、最近、どこぞの会社と合併を進めている。

08自宅マンションと感じ悪い奴

 自宅マンションに到着する。キレイに整えられた植栽の間を抜けて、マンションのエントランスへ。エレベーターから同じ階の住人が降りてきたので挨拶をするが一切無視される。40代くらいの身なりだけは良い男性なのだが、いつ挨拶をしても無視される。

 たまたま出勤のタイミングが一緒になった時も、私や他の住人の姿を認めるとエレベーターに乗らずに階段で降りてゆく。1年くらい前に引っ越してきた人なのだが、古くからのマンション住人の評判も悪い。

 管理人さんに聞いた話によると、とある有名企業勤務の方で単身赴任だそうだ。会社が分譲賃貸(定期)で契約した部屋らしく、「長居するつもりがないから住人と上手くやるつもりが無いのでは」というのが管理人さんの見立てだった。

 実際、この男性による身勝手なクレームが多いらしく、この男性が当マンションに住むようになってから、今まで見たことがないような注意書きがマンション掲示板に貼られるようになった。

  • マンション廊下の手すりを傘の先で叩かないで下さい。

  • エントランス部で立ち話をしないで下さい。

  • マンション内の廊下で子供を遊ばせないで下さい。

  • 音を立てて廊下を歩かないで下さい。

  • キャリーケースなどのキャスターが煩いとのクレームがありました。出来る限り音を立てないようにして下さい。

 22年に渡って暮らしているマンションで、今まで、特に子供が出す音に対して、クレームなど発生する事は無かった。そもそもがファミリーが一斉に入居したマンションだった事もあり、皆子供には寛容だった。

 この、感じの悪い男性が引っ越してきてから、やたら具体的で神経質な張り紙は増えるは、濡れた傘を共有部に置かないようにだの、子供の自転車を共有部に置かないようにだの、新たなルールがどんどん増えていった。

 だが、肝心のこの男性。夜中にギターを引き、誰よりも迷惑な騒音を発生させている。

 一度、管理人さんが注意したらしいのだが、「規約に楽器可と書いてありました」と言い張り、「常識で考えて下さい」と言っても一切言う事を聞かなかったそうだ。

 仕方なく、管理組合の方で楽器を弾いて良い時間帯を規約集に追記し、規約集を突きつけた所、「後から付け加えた規則は認められませんよ」などと散々抵抗しながらも、一応は従うようになったらしいのだが、最近も「温かい日に玄関を開けっぱなしにする家があり室内の音が漏れてきて煩い」などとクレームを入れてるらしい。 

 私はこやつに関しては一度成敗しようと考えている。


09弱っちいヒーロー

 自宅の号室に到着し扉を開けると、息子の雄大が玄関まで走って来た。抱っこして頬ずりをすると、すぐに走ってリビングに戻っていった。リビングに戻っていく雄大と入れ替わるようにエプロン姿の妻麻子が玄関までやってくる。

「おかえり」
「ただいま」

 二言三言交わすと、麻子もキッチンへと戻っていった。

 そのまま玄関スグ脇にある自身の部屋に入り荷物を置き、着替えを済ませると洗面所へ移動する。シャツや靴下などを洗濯かごに入れ、そのままバスルームに入る。柿渋石鹸を手に取り、足の裏から指の間までキレイに洗い、ついでに顔や手も洗うと、タオルで顔、手、足の順に水滴を拭きバスルームを出てリビングへと移動する。(仕事柄、長時間の立ち仕事に加え、一応は力仕事で汗を多量に掻くので、臭いがキツくなる)

 12畳程のリビングダイニングにカウンタータイプのキッチン、リビングには8畳と約5畳の部屋が接続している。8畳の部屋は麻子と雄大の寝室となっており、約5畳の部屋は収納兼雨天時などに洗濯物を干す部屋となっており、今年の梅雨に購入したばかりの家庭用の除湿乾燥機が置かれている。  

 左側にはカウンターキッチンに接続するようにダイニングテーブルが配置されており、右側にはテレビ、テレビの前には市松模様のジョイントマット(畳み様)が敷かれている。

 つい最近まで革張りのソファーも置かれていたのだが、革張りの沈み込みが大きいソファーだと雄大の姿勢が悪くなるという理由で私が知らないうちに粗大ゴミ行き。私としてはお気に入りのソファーだっただけに腹を立てたのだが、「相談したら絶対ダメって言うでしょ」と返され、その時は仕方なく諦めた。(ちなみに麻子は最近布製のソファーをあちこち見に行ってる)

 除湿乾燥機の時もそうだった。「必要無い」と言ったにも関わらず、麻子の母親が私に何の許可もなく勝手に購入してきたのだ。この時も麻子に注意したのだが、「お母さんが買ってきたんだから仕方ないでしょ」とかわされた。

 今日も、その除湿乾燥機が引き戸の向こうでゴーっと騒音を上げている。

 テレビには深刻そうな顔を作り、わざとらしい前傾姿勢でニュースを伝える男性アナウンサーが映っている。その役者なアナウンサーの映るテレビの前に敷かれている市松模様のジョイントマットの上で雄大が遊んでいる、

 おもちゃのロボを駆使してヒーローごっこをしているのだが、雄大が操るヒーローはとにかく弱い。見た目は強そうなはずのロボ型のヒーローさえも、一度も敵に勝った事が無い。ボコボコに殴られ踏み潰され突っ伏した後で必ず助っ人が登場し、その助っ人が圧倒的強さで敵をやっつける。

 敵をやっつけると、ヒーローに対して説教を始める。そしてヒーローが謝罪する。すると、雄大本人が登場し「しっかりしなさいよ」「もっと努力しなさいよ」などと言いながらヒーローを慰める。なぜこんな独特のヒーロー世界を構築するようになったのか不思議で仕方が無い。今日もファッション誌の表紙の女性を助っ人に見立てて、圧倒的な強さで敵をやっつけている。

 いつも通り雄大がヒーローに説教を終えると、丁度夕食の準備が整う。麻子の呼びかけで皆ダイニングテーブルに座った。


10二人の出会い

 妻麻子との出会いから結婚の経緯に関して簡単に説明しておこう。

 麻子は高校時代の同級生で当時は大変仲が良かった。が、仲が良いというだけで特に付き合っていた訳では無い。ただ一度私と麻子が付き合っているのでは?、と噂になった事があった。当時は、そのことを私の所属する柔道部の仲間達に弄られるのが嫌で、頑なに否定していたのだが、今思えば当時から麻子の事が気になっていたのは間違いない。

 麻子の友達や柔道部仲間の画策で、修学旅行で広島に訪れた際に2人きりにされ、凄く良い雰囲気になった事もあったのだが、そんな時に限って訳の分からない地元ヤンキーに絡まれてしまい雰囲気台無し。さらに側の建物で隠れて見ていた柔道部仲間達が助っ人に駆けつけた結果、殴り合い、投げ合い、取っ組み合いの大喧嘩に発展。

 喧嘩では圧倒したものの、その日の内に地元横浜に帰され謹慎処分。向こうが一方的に絡んできたという理由で、停学だけは避ける事が出来たものの決まっていた大学のスポーツ推薦はパーになってしまった。

 麻子との関係性も、麻子が都内の大学に進学後は疎遠となる。

 というのも、私は大学は諦め接骨院の開業資格でもある柔道整復師という国家資格を取得する為に医療系専門学校に進学。進学後は研修という形ではあるものの専門学校に通いながら接骨院で働き始めてしまった為、遊びに誘われても断り続ける羽目になり、気付くと、電話だけでなくメールも途絶えてしまった。

 だが、医療専門学校卒業後、社会人になってから麻子と再会する。

 現会社(片岡メディカル)に所属し私が新橋店でマネージャーとして勤務していた頃。常連のお客さんで、いつも私を指名してくれていた智美さんが、何と麻子の小中学生時代の同級生であると同時に親友だったのだ。(常連になってから半年後くらい後に発覚する)

 智美さんの引き合わせで麻子と再会し、そのまま交際に至り約2年後に結婚した。

 結婚後、2人の関係性自体は良好だったと思う。時々、麻子が勝手な事や、おかしな事をやらかすので、私が一方的にあれこれ叱ったり注意したりすることはあるものの、大きな喧嘩に発展した事は無い。


11麻子が不安そうにしている

 夕食を終えると雄大が目をこすり始めた。録画した旅行番組を一緒に見ている内に、大きな欠伸をしたので、そのまま寝室に連れて行く。キッチンでの作業を終えた麻子がやってきて雄大を寝かしつけると、あっという間にだらーっと力が抜けて眠りについた。

 寝室の扉を静かに途中まで閉める。5畳の部屋へ移動する麻子の後ろから付いていき、今日の悲劇について一応伝えておいた。

「麻子、ちょっと話しがあるんだけど」
「うん、何?」
「実はさ、今日内示があったんだよ」
「うんうん。あっ、ちょっと扉閉めて」
「分かった」 

 静かに扉を閉める。
 麻子は洗濯ハンガーから衣類を外しながら話を聞いている。

「俺さ、左遷だって」
「えっ、どういう事」
「降格された上に、掃き溜めに飛ばされる事になっちった」
「えっ」

 麻子の手が止まる。

「えっ、どういうこと? なんで?」
「恐らく報復人事だね」

 私は日頃から会社に対する不平不満を麻子にもぶちまけていたので、報復人事というキーワードだけで、麻子の口から「上の人と揉めたの?」と返ってきた。

「そう。ていうか揉めたのはアホ専務派の連中だね。まあ、年柄年中揉めてるんだけど、多分その報復だと思うんだよね」

 麻子が心配そうな顔をする。

「えっ、大丈夫なの?」
「大丈夫! 大丈夫!」

 私は、私が社内でもトップクラスの成績を上げていること、同期の田尾も報復人事を喰らったが、社長派に救出された事などを説明し、しばらくしたら社長が力を入れている部署に戻れると思うと伝えた。

「そうなの? 本当に大丈夫なの?」
「平気だよ。別にクビになっても、俺だったら転職先幾らでもあるし、心配しなくて大丈夫。ただ、しばらくは我慢の時期が続くだろうから、一応伝えておいたの」

 まだまだ色々質問したさそうな麻子を宥め部屋に戻ったのだが、部屋に戻る私の後ろから麻子が付いてきた。

「ね~、本当に大丈夫なの? あの~、声の大きいラガーマンの上司の人、名前なんだっけ?」
「山田さん?」
「そうそう、山田さんに相談した方が良いんじゃない?」

 山田さんは社内で私が唯一尊敬する人。群を抜いて優秀な人なのに社長の右腕という冠を被せられた上で、社内の下らない内々の問題を片付ける為にその能力を浪費させられている人で、年柄年中揉め事の片付けに奔走している。

「あ~、なるほどね。そうだね。山田さんに連絡しておくよ」
「うん、そうしなよ」

 と心配そうな顔で一言残すと、麻子はリビングへと戻っていった。

 玄関脇の自分の部屋に戻った。

 麻子と雄大の寝る部屋からは、扉3枚を隔てた場所にあるこの部屋。この部屋に入り扉を閉めると家庭の音が聞こえなくなり、同じ住戸内に居るにも拘わらず違う空気が流れているような気がする。出産後、約1年間ほど麻子は実家で子育てをしており、その後、このマンションで暮らす事になるのだが、一緒に暮らし始めて1週間で私の部屋が玄関脇のこの部屋になった。

 今の仕事は夜が遅くなるし朝早い時もある。雄大を起こさないようにと自ら入口脇の部屋に移動したのだが、まるで遠ざけられたかのような気分になる事がある。深夜に帰宅した日などはリビングの扉の向こうに足を踏み入れる事もなく、この部屋と洗面所とトイレの往復だけで全てを済ませ寝る。

 家には帰ってきているのだが、家庭には足を踏み入れてない。翌日が早朝出勤の日、そのまま部屋と洗面所とトイレだけを行き来して、そのまま家を出るから尚更だ。

 部屋に戻ると携帯電話が点滅していた。山田さんからメールが来ていた。スグに返信する。30秒もしない内に次のメール。決算期のため今月は忙しいらしく、来月飲みに行く事になった。


12カタブツ野郎とカタカナ野郎

 掃き溜めへの異動が決まって以後、スタッフ指導を強化した。サブマネ以下全員のシフトを半日増やし、増やした分を個別指導に費やした。何しろ次の店舗マネージャーは大林。そもそもマネージャーになる資格が無いようなクソみたいな奴が、アホ専務の子飼いというだけで店舗のトップになる。有害でしか無い人物がトップに座る以上、そのマイナスを他のスタッフで補うしかない。

 しかし、改めて考えてみると明らかに理不尽だ。あれだけ結果を出してきたにも拘わらず、なぜ掃き溜めに飛ばされるのだ。幾ら、アホ専務一味の報復とは言え、田尾みたいに社長派が別の事業部に即座に掬い上げれば良いのではないか。なぜ、一旦掃き溜めを経由しなければならない。

 自慢じゃないが、私は圧倒的に結果を出してきた。最初にマネージャーを務めた品川店の売り上げを1.5倍にしたし、次にマネージャーを務めた新橋店だって1.6倍にした。今の渋谷店だってそうだ。売り上げベースでは1.8倍にしたし、全国の売り上げランキングでも常にトップ5位内に位置してきた。それも24時間営業じゃないにも拘わらずだ。(7時~23時営業)

 お客さんアンケートでも高評価だった。東日本で最もクレームが少ない店舗だったし、お客さんのリピート率も常にトップ3。1ヶ月辺りのリピート回数でも常にトップ3。これだけ結果を出してきたにも拘わらず、何でこんな目に遭わなければならない。創業家の兄弟喧嘩に、なぜ私まで巻き込まれなければならないのだ。納得がいかない。片岡メディカルという会社はそもそも理不尽な会社なのだが、今回に関しては理不尽にも程があるのではないか?

 と、ここで片岡メディカルの経営についても、少し説明を加えておこう。

 今から3年前、現会長が社長職を退くに伴い、長男が社長に就任した。社長は元々外資系コンサルティング会社勤務を経て6年前にやって来た人物だ。会長は堅物で有名で、社内ではカタブツ野郎と渾名されていたのだが、この外資系出身の社長はカタカナ野郎と揶揄されている。就任時のコメントがいかにも外資系コンサルが好みそうな横文字ばかりを並べていたのが原因なのだが。

 このカタカナ野郎が、一応勤務歴では上の次男のアホ専務を飛び超して社長になったものだから、次男のアホ専務がぶち切れて、その後社内抗争に突入した。

 昔ながらの体育会気質(というより実際は武闘派気質)の連中達がアホ専務を担ぎ上げるようにして、リラクゼーション事業部の乗っ取りを企み始めると、もはや組織が組織として機能しなくなり、権限を巡る闘いに発展していった。

 アホ専務一味が論外なのは言うまでも無いが、この外資系出身の社長も社長で、会長の意味不明なカタブツさを別方向に反転させたような四角四面な人物で、「血液青色ですか?」と突っ込みたくなるようなドライというよりは冷徹さを発揮している。だから、私もこの社長はどうかと思うし、現場レベルでは社長を気に食わないと感じている人は多い。正直、私が所属する会社、片岡メディカルみたいないい加減な会社にはふさわしくない人物なのだ。

 12月初旬になると次期マネージャーの大林が、引き継ぎのためやってくるようになった。引き継ぎと言っても、やることは殆ど無い。部下を紹介する程度で、顧客情報などはサブマネの成瀬君が把握しているので、私がいちいち伝える必要も無い。でも、昔からの慣例という事もあり、一応は1週間に渡って引き継ぎを行う。

 この碌でもないナンパ、セクハラ、無能野郎が、手塩に掛けて育て上げた渋谷店スタッフの上に立つと考えるだけで腹が立つ。その腹立ちを厳しさに変えて引き継ぎというより指導を行うのだが、大林も大林で「あれ、川尻さんは次はどの部署っすか? それとも転職っすか?」などと嫌味を返してくる。

 いや、嫌味どころではない。もはや、掃き溜め行きの人間など怖くないと言わんばかりに、時折タメ語で話しかけてきたり、私の指導に口答えする。私が怒りの表情を浮かべると、「冗談ですよ」と舐めた態度で返してくる。

 嫌な1週間だった。

 本当は会社慣例では引き継ぎ終了後も月末までは元の店舗に顔を出すのが通例なのだが、私はその慣例を無視する事にした。


13上司の山田さん

 引き継ぎを終えて以後、掃き溜め勤務がスタートするまでの間、抗議の意味も込めてサボるつもりだったが、アホ専務の横暴により退職者が相次ぎ、人手が足りなくなったらしく、結局はヘルプという形で千葉、川口、中野、小田原、横須賀、恵比寿、大崎、幕張といった店舗に出勤していた。

 13日連続ヘルプという、半ば労基法違反の助っ人勤務が終わる当日、山田さんと飲みに行く事になり、13日目の幕張店のヘルプを終えると待ち合わせの場所である品川駅へ向かった。 

 JR品川駅の改札を出てスグの柱の前でメールを打っていると、「坊主危ないぞ! 前向いて歩け!」と、とてつもなく大きい声と一斉に声の主に振り向く群衆の姿が周辺視野に入ってきた。

 その聞き覚えのある声に釣られるように顔を上げると山田さんだった。

 大声を浴びた坊主は、どうやら携帯ゲームか何かに夢中のまま、構内の黄色い点字ブロック上を白い杖をつきながら歩いていた男性の真ん前を突っ切った様子。大声を浴びた坊主もキョトンとしているが、白い杖の男性も急な大声に驚いたみたいで「オー」の口をしたまま胸を撫でている。

 間もなく、坊主が何度も頭を下げながら逃げるように改札に走り出し、男性も口を動かしながら軽く頭を下げた。恐らく「ありがとうございます」と言ったのだろう。山田さんは周囲を見渡し、大声に気付きやって来た駅員さんに「この方を向こうまで案内して上げて」とお願いし、「頼むよガハハハ」と笑いながら、改札へと歩き始めた。

 改札を出るとスグに私に気付き、山田さんにしては随分と小さい声で「お~川尻待ったかー」と声を掛けてきた。

「いえ、今到着した所です」
「そっか! じゃあ行くか!」

 二人で品川駅港南口の方へと歩き出した。

 山田さんはとにかく声が大きい。本人も自覚があるので普段は気を遣い小さい声を意識しているのだが(といっても普通の人より遙かに大きい声量なのだが)、ふと意識が外れると大型バイクをふかした時のエンジン音のような凄い声を発する。今はそのエンジン音だけで無く周囲の冷たい視線にも慣れたが、最初はあまりの声量に驚いたものだ。

 元ラガーマンらしいガッシリした体格に、稲荷ずしの角を丸めた四角とも丸とも呼べる楕円顔に、艶々なオールバックの髪型。異様に目立つごん太の眉毛、パッチリした目、たぷたぷの顎。

 社長が、外資系のコンサル会社勤務時代に協力関係にあった会社で山田さんは若くして課長を務めていたそうで、その山田さんに惚れ込んだ社長がコンサル会社勤務時代から「私が実家の会社に戻るときは君も一緒に来て欲しい」と誘い続け、山田さんがその心意気に打たれ今に至る。

 漫画にでも登場してきそうな豪放磊落キャラを地でいってるような人で、にも拘わらず高学歴エリートなのだから人は見た目に寄らない。

 目的のもつ煮込み屋(筑後屋さん)に到着する。40階くらいある高層ビル内で営業する飲食店だが、田舎の古民家風をイメージした内装に、入口の脇にはシンボルとなる木製の水車が電源で回っている。店主だかオーナーだかが福岡の田舎出身で、地元が水車で有名な町だったらしく、この水車だけはどうしても設置したかったのだという話を以前聞いた事がある。それにしても、コンセントの電源で回る水車という、実用から離れた(むしろ逆転した存在になった)水車から一体私達は何を感じれば良いのだろうか? アート? オブジェ? 

 来店する度に、どうも気になって仕方が無い。丘の上の海賊?じゃないが、存在意義を剥奪されてしまうと、どうも滑稽に見えてくる。

 電源で回る水車の横を通り過ぎ店内に入ると、店員さんの元気な挨拶を浴びながら、そのまま一番奥の4人掛けの席に通された。席に座るや否や山田さんはメニュー表を開き、目を細めにしてZの文字を描くように視線を移動させ、すぐに視線を上げるとメニューを閉じ店員さんを呼んだ。

「すいません!」

 板張りの天井に声が反響したのか、キーンという残響音がする。醤油を入れる作業をしていた店員さんが、背中をビクッとさせ驚いた顔でこちらを見る。山田さんが右手を挙げながら「お~い」と呼びかけと、その店員さんが首をすくめ「あ」の口にしながら小走りでやってきた。

「どうかしましたか?」
「注文お願い!」
「あ~、注文ですか」

 どうやら、粗相でもしたかと勘違いしていたようだ。ただの注文と知るとすくめた首が伸び、「あ」の口が端の上がった「い」の口になった。

「少々お待ちください」と言い残し小走りで去って行く。どうやらオーダー端末を忘れたようだ。

「何だ、新入りか?」

 年柄年中飲みに行く店なので、古くから居るスタッフさんは山田さんの大声には慣れている。しばらくすると、顔見知りの店員さんがオーダー端末片手にやってきた。

「いつもありがとうございます」
「彼は新入りさんか?」
「そうなんです。先週から入った子なんです」

 注文をし終えると、山田さんが新入りの店員さんに絡み始めた。最初に志望動機を質問し、次に筑後屋の売りを質問。新入りさんがまごつきながらも、何とかそれっぽい回答を捻り出すと拍手をしながら「君いいね」と誉めていた。


14左遷は私自身の問題だった

 ビールで乾杯をすると、山田さんの奥さんがトレーニングジムに通い始めてからヒップラインが魅力的になったという話。12歳と9歳の娘さんが、声が大きくて恥ずかしいからと、あんまり一緒に出掛けてくれなくなった話。アホ専務の下っ端をおちょくった話。などなど、いつも通り歓談からスタートする。

 歓談が段々アホ専務への愚痴に変わり、山田さんの焼酎が日本酒に変わると、急に声の調子が変わった。

「なあ川尻」
「はい」 

 山田さんにしては珍しく静かな声で腹に響くような声だった。

「お前ヤバいぞ」
「えっ、何がですか」
「お前が掃き溜めに飛ばされた理由だ」

 というと、山田さんが鞄からメモ帳を取り出した。

「いいか、真面目な話だ。よく聞け」
「はい」

 メモ帳を捲りながら山田さんにしては静かな声のまま今回の事実上の降格の理由について説明し始めた。

「お前の所だけ離職率が異様に高い。スタッフからのクレームが異様に多い。配属先を変えて欲しいと希望するスタッフが多い」
「いや、でも……」
「待て待て最後まで聞け」
「あ~、分かりました」
「先輩や後輩からの評判が悪い。もちろん慕っている人も居るが概ね悪い。お前の下には配属しないで欲しいと訴えるスタッフもいる。退職する際にお前に虐げられたと訴えるスタッフもいる。休みの日までお前の一存で出勤させられたという訴えもあった」

 確かに少しは心当たりがあるもものの、納得が行かない部分も多い。

「山田さん、それどうせ、しょうもないスタッフの言い分でしょ。被害妄想ですよ。だって僕のお陰で一人前になれたって感謝しているスタッフもいるでしょ」
「もちろん、全部がダメだとは言ってない」

 グラスを置き姿勢を正すと私は反論した。

「そもそも、本部が使えない奴を配属してくるのが問題じゃないですか。別に僕の下じゃなくてもどうせ辞めるわけだし、それは仕方無いじゃないですか」
「もちろん。普通に辞める分には問題無い。でもわざわざお前に対する恨み節を吐き出しに来るんだぞ」
「そんな事いったらアホ専務派のマネージャーだって同じでしょ」
「だから、アホ専務派のマネージャーで問題を起こしている奴は、現場から外れているだろ」

 確かにその通りだ。でも、彼等はマイナスしか無い。一方私の場合はプラス部分が相当大きい。だって圧倒的に結果を出しているのだから。

「山田さん。僕の指導の結果、出来るようになったスタッフだって多いですよね。それに仲良し小好しのサークルじゃないんですから」

 山田さんが首を横に振る。

「これは仕事ですよ。実力不足のスタッフを居残りでトレーニングさせるのは当たり前です。だって、頂いている給料分すらも貢献してない奴らなんですから」
「お前みたいなスパルタで教育する必要性は無い」
「いやいや、それで成長しますか? 大体、仕事に対する姿勢が舐めている奴に厳しくするのも、叱るのも、説教するのも当たり前でしょ。そもそも使えない奴ばかり採用する本部に問題があるでしょ」
「違うな。だってお前以外のマネージャーは、それでもそれなりに結果を出しているぞ。お前みたいなスパルタ指導なんてしなくても、ちゃんと一人前に育ててるぞ」

 私も首を横に振る。

「いやいや、それは違います。僕は現場で指導しているから分かりますけど、一人前の奴なんて希にしかいないですよ。それに大体ちょっとキツくしたくらいで根を上げるような奴ならば、どうせ将来性が無い奴なのだから辞めさせてあげた方が親切じゃないですか」

 山田さんが首を横に振る。が私は続ける。

「甘くすれば、結局質が落ちる。質が落ちれば客が減り商売が成り立たなくなる。それで苦しむのは誰ですか?」

 山田さんが大きく溜息をつきながら姿勢を正した。

「あのな川尻。お前が個人で経営する院ならばお前のやり方でも構わない」 

 諭すような口調になった。

「もちろん、お前が優秀なのは俺だって認めている」

 私は無言で頷いた。

「だけどな。リラクゼーション事業部のビジネスモデルの場合、フリーペーパーを見て応募してくるような全くの初心者であってもだ、2週間~1ヶ月の研修で回るような仕組みじゃないと駄目なんだよ。ビジネスとして成り立たない」
「あ~、まあ」
「お前のレベルを基準にビジネスモデルを組んだら、年柄年中人材不足に苦しむ事になるだろ」
「ええ、まあ確かに……」
「いいか、エリアマネージャーに求められる資質も、お前の考える優秀さとは違う。内のエリマネの仕事はな与えられた役割に対して60点~70点をコンスタントに出すことが大事なんだ」
「ええ」
「お前は逸脱する。逸脱は全体としては困る。勝手にチラシを作って撒くとか、勝手に付加サービスをつけるとか、ああいうのは店舗間のバランスを崩す」

 一瞬反論しようと思ったが、黙って頷いた。

「いいか、内のマネージャー職に求められる資質はそういう事では無い」「……」
「これがお前が掃き溜めに飛ばされた理由だ。だが辞めろと言ってる訳では無い」

 会社では掃き溜めに飛ばされる=辞めろという合図だとされているのだが、山田さんは副院長にしたのはそういう合図では無いという意味だと説明してくれた。

「ちゃんと勉強し直して戻ってこい。そういう意味だと思ってもらって良い」
「……」

 その後、山田さんの励ましと落ち込んだ私と濃い焼酎と日本酒と途切れ途切れの無駄話で時間が過ぎていった。筑後屋さんを出て品川駅に向かう途中も、私は落ち込んだままだった。

 別れ際、山田さんに「お前なら大丈夫だ。改めるべき点を改めれば良いだけなんだから、お前だったら出来るだろ」と励まされ「ありがとうございます」と頭を下げたものの、頭の中で走る言葉を前向きな言葉に切り替えるだけの気合いは無かった。

 理不尽な人事の理由は、アホ専務一味の仕業ではなく、どうやら私自身の問題だったようだ。ショックだった。自分は求められている人材では無かった。

 山田さんとの会食を終えた帰リ道。品川から渋谷へ出てTK線に乗った。時間は夜の10時過ぎ。まだまだ立っている人が多い車内。扉の前に立ち、窓ガラスに映る色々な顔を見ていた。9割方が疲れ切った顔をしている。以前は、こういう顔を見下していた。折角貴重な時間を仕事に充てているのだから、なんでもっと前向きになれないものかと。でも今、窓ガラス部分に映る私の顔も同じように疲れている。というより無表情。

 精一杯の努力は報われないどころか仇となってしまった。


15やり切れない感情の元素

 自宅のある梅ヶ丘駅で降りる。改札を出て自宅マンション方面へと歩き出す。夜の11時前。妙に寂しい町並みだった。

 自宅に到着すると、音を立てないよう細心の注意を払い玄関の鍵を開ける。同じく音を立てないよう扉を開閉し、こっそり家に入る。

 雄大はもう3歳で寝付きも良い方だから、小さい頃と違って、そこまで意識する必要は無い気もするが、もはや、この【こっそり】が習慣になってしまった。(ただ一度起こしてしまうと中々寝ない傾向はある)

 リビングはもう暗くなっていた。荷物を置き、足音を立てないよう注意して移動する。なるべく音を立てないようシャワーを浴びる。何か飲みたいと思いキッチンへ向かうが、廊下とリビングを隔てる扉の前で引き返した。

 そのまま玄関でサンダルを履き、音を立てないように玄関扉を閉めて外に出る。マンションを出てスグにある自販機で炭酸飲料と缶コーヒーを買った。

 玄関入口脇の、外からも家庭からも隔絶された自分の部屋でゆっくり飲む。溜息が止まらない。胸の辺りがモヤモヤとする。こみ上げてくるモヤモヤが溜息に変わらないよう、炭酸飲料でモヤモヤを押し流す。何か考えているような顔つきをしているが何も考えてない。

 ただボーッとしている。

 いや、正確には言葉にならないだけで、ネガティブな感情の素みたいな物が錯綜しているからか、ボーッとしているはずなのに頭の中は渋谷の雑踏のように賑やかだ。恐らく、言葉に変えると怒りとか悲しみとかのやり切れない感情に変わってしまうから敢えてボーッとしようとしているのだと思う。

 炭酸飲料を飲み干すとベッドに仰向けになり、天井を見つめる。

 突然、尿意で目が覚めた。知らないうちに寝落ちしていた。時計を見ると、まだ2時だった。その後、2時間置きに目が覚め、いつもの朝になった。

 引き継ぎを終えたので店舗に出る必要は無い。いや、社内の慣行的には出る必要はあるのだが、もはやそんなものはどうでも良い。

 また寝ることにした。


16無風の年末年始

 年末年始は暇だった。リラクゼージョン事業部が運営する店舗は、場所にもよるのだが、基本31日の大晦日と1日の元日以外は店を開ける。2日はそれほど混まないのだが、3日から家族の買物中のお父さんの待機場所として、または居場所に困った人達や、年末年始に仕事に駆り出された人達がどっと押し寄せてくる。

 一方、人員(シフト)は常に手薄になると共に、加えて年末になると派遣やバイトスタッフが突然止めてしまったり、無断欠勤からそのままドロンしたり、インフルエンザ(仮病も含む)で欠勤するスタッフが増えるため、常に人手不足状態が続く。

 特にアホ専務が事業部を仕切るようになってから、状況はより一層酷くなり、酷い時など昼休憩どころかトイレ休憩すら取れないくらい混雑対応に追われ、待たされてイライラする客の対応にも追われる為、スタッフが最も疲弊する時期でもある。

 私も片岡メディカルの社員になって以後、その混乱に巻き込まれてきたのだが、今年は本部からの「ヘルプ要請」も全て断り、12月下旬からずっと休んでいたので、何とも無風な年末を過ごしていた。

 年末、結婚して始めて3泊4日もの日程を組み家族旅行に出掛けた。

 特に息子雄大が生まれて以後、1泊2日以上の旅行は初めてだった。行く前は楽しみにしていたのだが、いざ旅行に出掛けると2日目にして楽しみよりも退屈さが勝ってしまった。例年に比べ刺激が少ないせいだとは思うが、何を食べても、何を見ても、どこに行っても楽しくない。

 正直2日目以降は楽しんでいる風の演技に終始していた。お陰で、家族旅行を終えた日の夜は、興奮して中々眠れない雄大よりも早い、午後9時過ぎには寝落ちし、11時頃に麻子に起こされ自分の部屋に移動してから、何と翌日の11時迄布団に入っていたのだから、仕事よりも疲れたのかもしれない。

 それも仕事の疲れと違い、眠りの質が悪い。仕事であれば、疲れ切った翌日の朝は大抵爽快感と共に目覚める。肉体の疲れは残っていたとしても、精神的にはスッキリしている。

 しかし、旅行から帰ってきた次の日の目覚めは、怠くて不快な感じだった。肉体だけでなく精神的にも疲れている。そんな不快感が寝起き直後だけでなく1日中続く。変な溜息が止まらない。

 正直、「俺は夫として親として大丈夫か?」と自ら疑ってしまうくらいだった。

 そんな私に気遣ったのかどうかは分からないが、1月2日から麻子が雄大を連れて実家へ帰省した。(帰省と言っても同じ横浜市内で30分程度の場所なのだが)「雄輔は自宅でゆっくり休んでたら」という、気遣いなのか別の理由なのかは問わない事にして、麻子の言葉に甘える事にした。

 一応、お義父さんお義母さんにお義兄さんと甥っ子と一緒に、どこかへ出掛けると話しており、お義兄さんのお嫁さんも不参加なので、どういう理由かは知らないが血縁の家族だけで集まりたいのだろう。

 1人きりでの気楽な休日。ダイニングテーブルで昼間からビールを飲んでいると、電話がブルブルと音を立てながら机の上を移動し始めた。携帯電話を取ると、「医療専門学校・戸田」と表示されている。スグに通話ボタンを押す。

「もしもし」
「もしもし。川尻か」
「おう、何だよ戸田」

 戸田は医療専門学校時代の同級生で、もう10年以上の付き合いになる。卒業後もほぼ毎月飲みに行くくらいに仲が良かったのだが、約2年前に戸田が結婚・独立して以後は、飲みに行く頻度も少なくなり、最近は1年以上も会ってなかった。

「川尻、元気か~?」

 妙に戸田のテンションが高い。

「おお。戸田はどうなんだよ。仕事は上手くいってるんの?」

 戸田が近況に触れる。どうやらの仕事の方(院の経営)は上手くいってるようだ。続けて専門学校時代の同期達の話題になり、同期話も一段落すると戸田が電話の理由を明かした。

「でさ、今日実はさ、お願い事があって連絡したんだよ」
「お~、なんだよ」
「まあ、詳細は会ってから説明するよ。結構スゲー話しだからサプライズ発表させてよ」
「何だよ。離婚でもしたか?」
「してねーよ。今もラブラブだよ」

 と戸田の返しに私も笑う。長い付き合いという事もあり、私と戸田との会話はいつもこんな感じだ。

 その後も下世話な話で盛り上がると、4日後に会う約束をし電話を切った。


17友人戸田

 1月6日の午後、中目黒駅で戸田と会うことになった。

 戸田は井の頭線の三鷹台、私がTK線の梅ヶ丘駅なので、双方の電車の乗り換え駅でもある渋谷駅で待ち合わせれば良い気もするのだが、「渋谷は混むから嫌なんだよ」という戸田の要望もあり、中目黒で待ち合わせる事になった。

 雲のない好天で、1月にしては日差しの強い温かい日だった。街行く人を見てもコートを手に持ちながら歩いている人が目立つ。少し早めに到着したので、改札を出て右前方に見える駅構内の案内図がある柱の前で待っていた。

 頭上で3回目の電車のガタゴト音がして少し経つと、改札口の方にピンクのシャツにチェック柄の青のジャケット、パンツ、足元は白のスニーカーという、メンズファッション誌に登場するような格好をした男性が手を振ってきた。

 よく見ると戸田だった。

「お~川尻。待たせたな」といって上げた右手には高級腕時計。

「お~戸田。何そのファッション」
「ハハハ。いや実はさ、午前中にさ起業家さんが集まる勉強会に参加してたんだよ」
「勉強会?」
「そうそう。朝ミーティングって言ってさ、7時から10時まで恵比寿のホテルでやってたんだよ」
「へ~。そうなんだ」

 右手の時計の風防がキラっと光った。

「あれ戸田って時計右手にすんの?」
「いや、これはね、説明とかする時に目立つように右手にしてるんだよ」「どういう事?」
「俺さ、ボディランゲージの時に右手をよく動かすんだよ――」

 つまり、身振り手振りの際に目立つ右手側に時計を付けた方が、時計と共に自分のクラスをアピールできセルフブランディングに活かせる。知り合いの社長に「そうした方がいいよ」とアドバイスをされ、右手に時計をつける事にしたそうだ。

 昔は変な色合いのジーンズにパーカーのダサい奴だった戸田が、ファッション誌に登場してもおかしくないような格好をしているものだから、私にとっては違和感しか無い。それも、1年ちょっと前に飲んだ時は、髪型も服装も昔の戸田のイメージのままだったので、私からすると激変というワードがふさわしい。

 戸田が右手の時計の風防をキラキラさせながら続ける。

「まじさ、社長同士の集まりだと見た目って大事なのよ。最初は全然相手にされなかったんだけど、スーツを替えただけで相手にされるようになったんだよね」
「へ~。そういうもんなんだ」
「そう。そういうもの。だって殆ど初対面だからね。見た目って大事なんだよね」

 戸田の誘導で駅から10分弱の場所にあるレストランへと移動する事になった。何でも戸田の知り合いの社長がオーナーを務めているレストランだそうだ。

 しかし、こうして2人並んで歩いてみると、まるでビフォーとアフター。

「お宅のダサい旦那さんも、プロのスタイリストと美容師の手に掛かれば、こんなに格好良くなります」というテレビで良くあるコーナーの改造前と改造後みたいだ。

 もちろん、私がビフォーで戸田がアフター。口調も以前に比べて自信に満ちているように感じた。というのも、専門学校以来の付き合いがあるから分かるのだが戸田は良い奴だし、職人としての腕は悪くないのだが、正直ビジネスが得意というタイプでは無かった。

 そのアフター……、じゃなくて戸田が「バックエンド」がどうの、「ローンチのタイミング」がどうのとマーケティング用語を連発しながら、「今思案中」というビジネスモデルの話をしている。

 大通りの喧騒から逸れ川沿いをしばらく歩くと目的地のレストランに到着した。

 戸田がその知り合いのレストランについて得意気に説明し始めた。が、説明する顔をよく見ると目の周りが落ち窪んでいる。一見健康そうに見えた色黒の肌もよく見るとカサカサで弾力性に欠けているし、何より頬から首筋辺りが以前に比べてやつれた感じがする。

 戸田はレストランのオーナーが凄い人という話を身振り手振りを交えてしている。手振りの度に文字盤を覆う風防が白く輝く。一通り話しを終えると、瞼を数秒ギューッと閉じてから目をパチパチさせた。ギューッと目を閉じた際のしわの具合で分かったのだが、やっぱり以前に比べてやつれてる。以前は、もう少しふっくらしていたのだが仕事で忙しいのかもしれない。


18起業家戸田

 ヴィンテージ加工が施されたダークブラウンの木製扉を開き店内に入ると、髪を後ろでキュッとまとめた女性の店員さんがやってきて頭を下げた。

「何名様で」

 戸田がオーナーらしき名前を挙げ、知り合いである事を伝えると、「あ~戸田様ですか」と声がワントーン上がり、先ほどよりも深く頭を下げた。観葉植物と、オブジェのような物を飾る棚で区切られた一番奥の窓際席に通され、間もなくウェルカムドリンクと称するジンジャーエールが運ばれてきた。

 お互い近況を報告をしながら運ばれてくる料理を食するのだが、味については何とも微妙としか言いようがない。私の舌に合わないだけなのかもしれないが、お世辞にも「おいしい」と言えるだけの要素を見つける事が出来なかった。

 戸田によるとオーナーはコンサル業をやってるそうなので、料理に関しては素人なのかもしれない。ただ、机、椅子、棚、壁、観葉植物、店内装飾に関しては、細部に至るまでオーナーのこだわりが貫かれており、流石(面目躍如)の空間演出と言った所だ。

 デザートのティラミスを食べ終え、食後のティーが運ばれてくると、話は本題に。

「そうだ川尻、サプライズ発表があるんだった」

 戸田が鞄から何やら資料を取り出し、テーブルの上に広げた。資料を広げ終えると、少しもったいぶったような態度を取った後でサプライズとやらの発表を始めた。

「川尻、発表するぞ」
「おお、早く教えろよ」

 資料を、クイズ番組のフリップみたいに持ち、私の方に向けた。

「俺な、今度本を出すんだよ」
「えっ!」

 本当にサプライズだった。

 知らない間に、戸田は本を出せるくらいの成功者になっていたのだ。サプライズに続き、戸田から本のプロモーションへの協力をお願いされた。

 どういう事かというと、戸田の著書をベストセラーにする為にプロモーションサイトを作るので、そのプロモーションサイトに推薦者としての言葉が欲しいとの事。本のプロモーションを、サイトを通じて発売日直前から直後に渡って行い、一気に販売部数を伸ばし売り上げランキングを上げる事で、さらに部数を伸ばすという戦略らしい。

「OK。協力するよ」
「マジ、サンキュー。顔出しは必要ないけど、苗字と社名は欲しいんだよね。片岡メディカルみたいな大手の同業から推薦されるのは大きいんだよね」
「いいよ。いいよ。顔も出すよ」
「ホント、許可取らなくて大丈夫?」
「平気平気、あんなクソ会社いつ首になっても構わないからね」
「あっそうなの。だったらお願いするよ」

 私は、「何があったの?」という返しを期待していたのだが、戸田は自著のアピールに夢中で私の誘い文句に気付かない。その後も、何度か誘い文句を会話の中に撒くのだが、戸田は気付かない。

 仕方なく、自分から話す事にした。

「俺も起業しようかな~」という切り出しから会社での「理不尽」について愚痴りに愚痴った。戸田は全面的に私の愚痴(会社批判)に同意してくれた。同意だけでない、「それだったら」と起業を薦めてきた。

「川尻、まじでそんなんだったら辞めちゃえよ。大して給料も良くないんだろ。俺でも2~3年でここまで来たんだからさ、川尻だったらもっと行けるだろ」

 というと戸田が鞄から冊子を取り出し、私の前に置いた。毛筆体で{板東塾}と打たれた冊子の天から、黄色い細めのポストイットがにょきにょきと飛び出している。戸田がそのにょきにょきの1つの頁に指を入れ、開いた頁を私に見せてきた。そのページに視線を移すと、腕組みをする戸田に、{開業2ヶ月目にして月収100万円を突破!}という赤のゴシック体の文字が飛び込んできた。

「えっ、戸田じゃん」
「そうだよ」
「えっ、まじで2ヶ月目で100万行ったの?」
「驚くだろ」

 確か戸田は接骨院で開業したはず。正直、あり得ない数字だ。なぜあり得ないかと言うと、通常の接骨院の場合、売り上げの殆どは保険診療になる。保険診療の場合、応急手当の内容ごとに、報酬となる額が決められており、安いものだと数百円にしかならない。だから、どれだけお客さんが来て繁盛しているように見えても、1つの院で稼げる額はたかが知れているのだ。

 戸田が笑いながら答える。

「え、接骨院でどうやって?」 
「ハハハ。他の仕事で稼いでいるんだよ」
「仕事は経営だからね。何も接骨院だけで稼ぐ必要は無いし、接骨院で稼ごうと思うと無理があるだろ」
「なるほど」
「それに接骨院じゃなくて、俺の場合はハイクラス向けの整体とかリラクゼーションでやってる。接骨院の保険診療じゃそんな稼げないからね」
「そっか、そっか、そうだよな、そうだよな」
「凄いだろ。俺でこれだぜ。川尻だったら。絶対もっと行けるだろ」

 確かにそうだ。戸田でも、ここまで行けるのならば、私だったらもっと行ける気がする。戸田がパンフレットを読むよう薦めてきた。戸田に勧められるままに板東塾のパンフレットを読んでみた。

 最初のページに身なりの良い白髪の男性が写っている。ビジネス誌で見掛けた事がある人物だった。

「戸田、この人ってさ、すげー有名な人だよね」
「そうだよ。起業界隈では一番有名な人じゃないかな」

 その率直な文章に妙に惹かれた。

{会社が合わない、上司から煙たがられている、会社に居場所がない人こそ起業に向いてます。}

{レベルの低い人間が、あなたの優秀さを理解出来るはずがない。}

{レベルの低い人間の下で働き続ける事は、あなたの人生にとって無駄でしかありません。}

{たかだか年上だからとか、勤務歴が上だからとか、役職が上だから、という理由だけで、なぜあなたが評価を下される側にならなければいけないのか。}

{会社に不満がある。会社から理不尽な仕打ちをされた。馬鹿な上司に辟易している。もうそれがあなたが選ばれた側の人間である証拠です。}

{常識がどうの、みんながどうの、といったレベルの低い人間達の下らない論理を真に受け、我慢すること、耐えること、レベルの低い人間達に付き合うこと、そうやってあなたの才能を浪費すること、それはもう罪です。掛け替えのないあなたの人生に対する罪です。}

{さあ、どうしますか、それでも今まで通りの社畜人生を過ごしますか、それともあなたのような選ばれた人間が、本来歩むべき人生へと一歩踏み出しますか。}

 背中が熱くなり上気するように顔が火照りだすと、続けて全身に力が漲ってくるような気がした。

「なあ、戸田、ちょっとこの塾について教えて欲しいんだけど」

 戸田が机に肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せると、低く明瞭な発音で「川尻、マジ人生変わるよ」と断言した。続けて戸田が鞄から{板東塾入塾案内}と題されたA3用紙を2つ折りにして数枚重ねた資料を取り出した。その資料を2枚ほど捲り、私に見やすいよう180度回転させながら、目の前に置いた。

「川尻、今度セミナーがあるんだよ」

 資料には、大きめサイズの太字で{板東塾入塾希望者向けセミナー}とあり、その下にセミナーのプログラムが書かれていた。

 戸田が説明を続ける。

「セミナーは塾に入塾するかどうかを確かめる場所」
「起業塾は先生で決まるから、先生の話を聞いて決めると良い」
「違うと思ったら、入塾する必要は無い」
「俺でもこんな結果が出てるし、滅多に無いチャンスだから、本気で起業するつもりならば、このチャンスを逃さない方が良いと思う」
「俺の紹介があれば塾費の割引きが出来る」

 要するに、参加費1万円のセミナーを受講した上で、入塾するかどうかを決めれば良いとの事。もし、入塾するのであれば、戸田の紹介状を提出すれば、年200万円の塾費が150万円にまで割引される特典もある。

 ちょっと怪しいなとも思ったが、板東先生はビジネス誌にも登場するような著名人だし、戸田は「そんなもんだよ」との回答だったし、そもそも目の前に板東塾で成功者になった人間が居るのだから、これ以上疑う必要が無い。

 しかし、幾ら割引されたと言っても塾費は150万円。一応、それを上回るくらいの貯金額はあるものの(我が家は親から譲り受けたマンションのため家賃が浮く上に昨年から相続対策で始めた贈与分もある)、問題は麻子の承諾が得られるかどうかだ。

 戸田は分割払いがあると説明するが、150万円は流石に金額としては大きすぎる。間違いなく却下される。

「150万円か~」
「いやいや川尻、150万円って言っても実質的にはもっと安くて済む」「ん? どういう事?」
「あのね、塾の中でビジネスに取り組むのよ。そのビジネスで……」

 というと、資料をパラパラ捲り、指さしながら見せてきた。

「ホラ。そのビジネスで、後に独立した人の平均値で91万円稼げるんだよ」

 そこには塾期間中の稼ぎという見出しの下に、円グラフがあり、円グラフの真ん中に平均約91万円というゴシック体の赤文字が躍っている。

「え~。マジで?」
「そうそう。だから実質的には60万円みたいなものだし、独立する時に板東先生の会社の支援を受けられるから、どうせスグ回収できるのよ」
「そうか、そうだよな。戸田だって2ヶ月目に100万以上稼いだんだもんな」
「え? あっそうそう。そうだよ。そうなんだよ。だから、このチャンス逃さない方がいいよ。俺の紹介割引も数が限られてるからさ」
「あっ、そうなの」
「そうなんだよ。俺も色々な人から紹介して欲しいって言われてるからさ……」

 戸田が目を細め、もったいぶったような口調になる。

「今回を逃すとね~。ん~、次は紹介割引出来ないかもしれないな~」

 私は「ん~」と唸りながらしばらく考えてみた。が、掃き溜めに飛ばされる=会社での出世は無くなった、のだから何を躊躇する必要があるのだろうか。

 大体、板東先生も言ってるじゃないか。

{会社が合わない、上司から煙たがられている、会社に居場所がない人こそ起業に向いてます。}

{レベルの低い人間が、あなたの優秀さを理解出来るはずがない。}

{レベルの低い人間の下で働き続ける事は、あなたの人生にとって無駄でしかありません。}

{たかだか年上だからとか、勤務歴が上だからとか、役職が上だから、という理由だけで、なぜあなたが評価を下される側にならなければいけないのか。}

{会社に不満がある。会社から理不尽な仕打ちをされた。馬鹿な上司に辟易している。もうそれがあなたが選ばれた側の人間である証拠です。}

{常識がどうの、みんながどうの、といったレベルの低い人間達の下らない論理を真に受け、我慢すること、耐えること、レベルの低い人間達に付き合うこと、そうやってあなたの才能を浪費すること、それはもう罪です。掛け替えのないあなたの人生に対する罪です。}

{さあ、どうしますか、それでも今まで通りの社畜人生を過ごしますか、それともあなたのような選ばれた人間が、本来歩むべき人生へと一歩踏み出しますか。}

 確かにその通りだ。板東塾に入塾するということ、それは私にとっては私自身の才能が活かされる場所に行くというだけのこと。理屈は簡単だ。今が場違いだったのだ。 

 この時私は、今すぐ決めるしかないと思った。

「戸田!」
「おう何だ」
「俺、板東塾入るよ。決めた。俺独立するわ」

 戸田が笑顔になり、握手を求めてきた。戸田の手を握り返す。手汗でベッタリしていたが、気にせずさらに強く握った。

「OK川尻。今紹介状書くから、後はこれネットから申し込んでな。急いだ方がいいよ。定員数決まってるからね」
「戸田。マジでありがとう」


19入塾を決意

 戸田と別れ帰路につく。

 入塾は決めたものの問題は麻子にどう承諾を得るかだ。150万円であれば、一部を支払った上で私個人のクレジットカードで分割払をすれば可能な額ではあるものの明細でバレてしまう。

 ここが一番の問題だった。

 戸田にメールを送る。スグに戸田からメールが返ってきた。{誰かお金借りられる人は居ないの? どのくらいだったら麻子ちゃん説得できる?}。過去の経験からすると年60万円くらいであればどうにかなりそうな気がする。

 以前、会社と揉めて辞めようと考えた時、通信で中小企業診断士講座を受けたのだが、確かそのくらいの額だった気がする。問題がスグに解決した事もあって、講座の2割しか受講せず放置した為、あれこれ文句を言われたものの、そのくらいであれば恐らく大丈夫だろう。

 戸田には、{60万円くらいだったら大丈夫だと思う。借りられる人は数人心当たりがあるけど戸田は?}と送った。戸田からは、{俺が貸すのはマズいな。前に問題になった事がある}と返ってきた。{なんで問題になったの?}と私が送ると、{悪い!仕事の電話が入ったので、少し後で返すね}と返ってきた。

 中目黒駅から電車に乗った。

 途中、板東先生の本を買おうと思い立ち、そのまま横浜駅のデパートに入る広めの書店へと向かった。書店に入りビジネスコーナーで板東先生の著書を見つけると同じタイミングで戸田からメールが返ってきた。

{ごめんごめん。トラブル処理に手間取った。問題になった理由は、借りた人が途中で塾でトラブルになって貸した人に噛みついたんだよ}

 スグに私は{えっ?どういうこと?}と送った。

 私は返信を待つ間、板東先生の著書を2冊選び購入した。

 しばらくして、{要するにお前が紹介した塾で問題が起こったのだから、お前にも責任があるから、お金は返さないって揉めて、それがキッカケで板東先生が紹介者がお金を貸すのを禁止にしたんだよ}と返ってきた。

 私は{なるほど。確かにそれは問題だな。OK他を当たるよ!}と送った。スグに戸田から{ごめんな、俺も規則が無ければ貸せるんだけどね}と返ってきた。

 という事で他を当たることにした。

 この場合、麻子とは関係が無い人を当たる必要がある。最初に思い浮かんだのは私の小学校以来からの先輩で、私と麻子が結婚する際に仲人役を務めてもらった高山先輩だったのだが、高山先輩とは家族ぐるみの付き合いがあり、お金を借りるなどと言い出せば、麻子に伝わる危険性があるので、それ以外の人を当たる事にした。

 辞めるつもりの会社の人間に借りるのは何か嫌だし、学生時代の友人は麻子とつながる危険性があるので却下だし(私と麻子は高校時代の同級生)、親や親戚も危険だ。

 が、しばらく考えていると、良い候補が見つかった。専門学校時代の友人で小宮山という男なのだが、2年前に独立し結構稼いでいるという話を聞いたことがある。小宮山は3年前に離婚している為、誰かに反対される心配が無い。小宮山さえOKならば借りる事が出来るはず。どうせ、独立すればスグに返せる額だし、小宮山が渋る事は無いと思われる。

 そこで、早速小宮山にメールを送った。

{お願いしたい事があるんだけど、今度会えないか?}

 スグに、{おお!久しぶりだな!会おうぜ! でお願い事って何? 今教えて}と返ってきた。

 デパートの階段の踊り場に移動すると、小宮山に電話をする。

 小宮山がスグに出た。

「もしもし」
「お~川尻、お願いって何?」

 私は事情を説明した上で「スグに返すので100万円貸してもらえないか?」と率直に伝えた。小宮山は躊躇無く、「OK。いいよ! 俺も起業は賛成だね。川尻だったら絶対成功するよ」と承諾してくれた。多少は質問されるかと構えていたのだが流石小宮山。戸田と同じ独立組だから、変な常識に囚われてない。後日、藤沢にある小宮山の自宅に訪れる約束をし電話を切った。

 これで、一つ目の障壁はクリアーした。

 問題は次の障壁だ。麻子をどう説得するか、である。いきなり起業などと言えば、まず間違いなく反対される。というのも、麻子の父親が独立して痛い目に遭った人なのだ。

  • 会社の上司と喧嘩し独立したがバブル崩壊で痛い目に遭い、精神的に追い詰められ人が変わってしまった父親により家庭が崩壊寸前になった。

  • 麻子の母親がそんな父親を支えるために苦労した。

  • 最後は喧嘩した上司に土下座して古巣に戻った。

  • それだけでなく、古巣の社長が、グレーな資金も含め、まとめてくれ、危機を脱することが出来た。

  • ただ、麻子の兄はそれがキッカケで進学を諦め就職。(その後、税理士資格を取り、今は独立)

  • 父はその負い目と残った借金を返済する為に、古巣を退職した今も、古巣の手伝いや警備員の仕事をしている。兄が提案した相続放棄という選択肢も、お世話になった恩人に申し訳ないという理由で却下した。

 こんな話を、結婚前も結婚後も、何度も聞かされてきただけに、いざ起業となると、一筋縄ではいかないのは間違いない。一応仕事柄、資格柄、キャリアプランの延長に、例えば接骨院の開業といった独立という形がある、という事は何度も説明したこともあり、一応理解してはくれている。

 ただ、現状について言えば、説得に足りるだけの要素が足りないし、麻子の回答はまず間違いなく、「よく会社と話し合ったら」と言った具合になるだろう。何しろ、自分の父親が会社の上司と喧嘩し飛び出した結果、痛い目に遭ったのだから。


20どう説得しようか?

 自宅最寄り駅である梅ヶ丘駅の一駅前で降りると、ゆっくり歩いて帰りながら作戦を考える事にした。駅の裏手の道をジグザグに曲がりながら、時間を掛けて考えた。

 恐らくだが、最終的には「もう仕方ないよね」という状態に持って行くのが得策だろう。積極的な賛成を得るのは無理に違いない。

 だから、自分の意志ではなく、会社に追い詰められた結果の独立、という方向性で、まずは様子を見てみようと思った。様子を見ながら、作戦を練り、じわじわと押し進めていくのが一番良いだろう。どこかで説得が効くタイミングが訪れるはず。

 帰宅すると、洗面所で洗濯機を操作する麻子を捕まえて、深刻な顔を作り「話がある」と低いトーンで伝えた。「何、急に?」と不安そうな目をする麻子を自分の部屋に連れて行く。間もなく、ドタドタという音と共に雄大がリビングからやってきたが、「ちょっと大事な話があるから」とリビングに戻すと部屋の扉を閉めた。

「え、どうしたの?」
「あのね、心配するといけないと思ってこの前は言わなかったんだけどさ」「え、何?」

 充分間を取り、深刻そうな表情を作る。

「掃き溜めに飛ばされた理由をね、山田さんに聞いたんだよ」
 麻子がうんうんと首を縦に振る。
「あれね辞めろっ意味らしいんだよ」
「そうなの? 山田さんに会社に掛け合ってもらった方が良いんじゃない」「うん、今ね、そうしてもらってるんだけど、向こうもさ報復で俺を飛ばしてるからさ、誤解とかじゃないからね、ちょっと難しいらしいんだよね」「そうなの?」
「そう。だから、転職先とかをさ今探してたんだよ」

 麻子の目がまん丸になる。驚いた時や、意外な事が起こると、いつもこの顔になる。

「そうそう。今日もそれで人に会って来たんだよ」

 今日、人に会うことは伝えていたが、戸田に会うとは伝えてなかった。

「じゃあ、もう転職は決まりなの?」
「そうだね。ん~、あと、一応柔道整復師の資格も持ってるからね。接骨院の開業もね、一応選択肢の1つに入れた上でね、今後どうするか考えているところ」
「ホント、よく考えた方がいいよ」
「うん、そうだね。だから、色々転職とか、そういうセミナーとかにも参加してさ、今後の身の振り方を決めようと思ってるんだ」
「セミナー?」

 嫌なところに反応された。

「セミナーは、まあ情報収集だよ。情報収集で。え~、ホラ、俺の業界特殊だからさ。普通の企業と違うからさ。進路が難しいんだよ」

 少し動揺したせいか、変な返しになってしまった。そこを麻子は見逃さなかった。

「そうなの? でも、よく考えて決断してよ。雄輔さ、イライラしたり焦ったりしているとさ、危なっかしいことやるでしょ」
「どういうこと。俺、危なっかしい事なんてしたことある?」

 まずい流れになってしまった。質問した後で、素直に「そうだね。ホント気をつけないとね」とでも返して終わらせておけば良かったのだが、もう手遅れだった。

「うん。あるよ。高校の時に、文化祭で来た変なヤンキーが中島君のことをおちょくったらさ胸ぐら掴みに行ったでしょ」

 中島君とは小学生の頃からの友人で、小さい頃、交通事故が原因で足に障害を抱え、片足を引き摺るような歩き方になってしまっていた。その中島君を、少々偏差値の良い学校で本格派の不良やヤンキーが居ない事を良い事に、調子に乗って高校デビューしたような半端者ヤンキーがおちょくったので、ムカついて胸ぐらを掴みに行ったのだ。

「まあ、ただそれは向こうが悪いからさ……」
「いやいや、だって、外で仕返ししようと待ち伏せしてるからって、わざわざ知らせてくれたのにさ、『返り討ちにしてやるよ』って言って、柔道部の先輩とか後輩連れて飛び出していったでしょ」
「まあまあまあ、でも、あれはだって向こうが悪いからね」
「そうかもしれないけど、下手すれば停学だよ」

 完全にしくじってしまった。この流れはマズい流れだ。

「修学旅行の時もそうだったでしょ。広島の地元のヤンキーに喧嘩売ってさ~」
「いやいや、それは向こうが絡んできたからだろ」
「違うでしょ。屯しているど真ん中を突っ切ったからでしょ」
「え~そうだっけ?」
「そうだよ。私は違う道行こうよって言ったのにさ、屯しているあいつらが悪いとか言って、無理矢理手を引いてったでしょ」

「そうだったっけ?」
「そうだよ」
「でも、高校時代の話だろ」
「今もそうでしょ。社会人になってからも会社の人と散々揉めてたでしょ」「それは向こうが悪い。俺は悪くないからね」
「でも、大人になってまで取っ組み合いの喧嘩なんて普通しないでしょ」「俺から喧嘩売った訳じゃ無いからね。向こうに非があるし、そこで引いたら調子に乗るからね。ああいうアホ連中は」

 その後も差し出がましい口を利いてきた。何も分からない癖に、アホ専務一味と話し合えだの、本部長に相談しろだの……、何の権限があってこんな指示をするのか、途中まで我慢して聞いていたが、非を認めた上で謝罪しろと言われた時は流石に腹が立った。

「もういい。俺が決める事だから、いちいち口出しするな!」

 麻子が一旦は口を開くが、言葉を発する事なく、口を閉じ、鼻から息を吐いた後で数度頷き、「うん。分かった。でも相談はしてね」と言い残し、部屋を出て行った。

 完全に失敗だった。だが、ただでさえ理不尽な目に遭いイライラしている所に、身内からもまるで私に非があるかのように責められるとは思わなかった。

<続く>


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