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タイの救急救命事情【前編】

 タイの救急救命事情について紹介したい。ボクはタイのレスキュー慈善団体「華僑報徳善堂」に2004年12月からボランティアとして参加している。その中で見てきた、タイの救急救命の様子や、あまり知られていない救命の慈善団体について紹介したい。

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タイの救急救命は報徳堂から始まった

 タイの救急救命活動(=救急医療サービス、EMS)はこの「華僑報徳善堂」が先駆けとなる。一般的には「報徳堂」として知られ、タイ人は中国語読みをそのままに「ポーテクトゥング」と呼ぶ。

 報徳堂は2010年に創立100周年を迎えた。それほど前から報徳堂は活躍しているし、逆に言えば、わずか100年前でさえもタイには救急車などが存在していなかった。

 報徳堂の設立経緯は中山三照氏の「公的補助金に依存しない社会事業の実現」(トレンドライフ発行)に詳しく書かれている。次はその一部の引用だ。

この華僑報徳善堂の由来については、1896年に華僑の馬潤が、郷土である広東の潮陽県からバンコクのチャイナタウンへ宋大峰祖師金身塑像を持ち運び廊に納めたことが始まりである。(中略)それゆえ、1910年には、同じく華僑の鄭智勇をはじめとする12名の華僑有志により、社会慈善福利事業の全面的な開拓を目的に慈善団体として本格的に報徳堂(現華僑報徳善堂)を設立したのである

 宋大峰祖師とは1120年頃に広東省潮陽県で災害に苦しむ人々を助けた僧侶のことで、報徳堂本部の寺院にこの像が祀られている。宋大峰祖師はタイではタイホンコンと呼ばれている。

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 報徳堂の設立当初はリアカーで行き倒れの遺体を回収し、埋葬することを任務としていた。1937年に慈善団体としてタイ政府に認可され、活動の場が広がり、かつタイ人にも存在が知られるようになると、遺体回収活動だけでなく、徐々にEMSが中心になり、現在の形になった。

 結局のところ、報徳堂は中国移民たちが自分たちを守り、かつタイに貢献して認められることを目的としているとされる。バンコクの中華街ヤワラーは1880年ごろに形成され始めた。しかし、当時この辺りはバンコクの東端で、要するに外国人である中国移民は隅に追いやられていた。今でこそ華人たちはタイの経済や政治を牛耳っているが、当時は今のLCM(ラオス・カンボジア・ミャンマー)と同じ扱いだった。

 そこで当時の移民たちは、タイ人たちが嫌がっている行き倒れている死体を回収し、タイ社会に溶け込もうとしたとされる。同時に、中国人としてのアイデンティティーを守る意味合いもあった。その結果、報徳堂はバンコク郊外に中国語学科が強いとされる大学「華僑崇聖大学」を有し、また都内の「華僑医院」は報徳堂が運営する大きな総合病院で、近くには中国伝統医学に特化した「華僑中医院」もある。中国人としての根を守りつつ、タイに貢献しようという意志がそこに見える。

 報徳堂の活動はすべて一般市民からの寄付で成り立っている。こういった活動モデルはのちにほかの慈善団体にも影響している。中でも報徳堂に並ぶ規模の「華僑義徳善堂(ルアムガタンユー)」や、パタヤや他県で展開する「明満善壇(サワンボリブーン・タンマサターン)」が報徳堂のシステムに倣って活躍している。

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政府運営の救急車が登場したが・・・

 多くの方が疑問に思うのは「タイには公共の救急車がないのか」ということだ。

 一応、タイにも公共の救急車は存在する。現在はタイ公共保健省直轄の救急救命部門に「ナレントーン」がある。今でこそ知る人が増えてきたものの、知名度では報徳堂ほどではない。それには大きな理由がある。それにはタイ政府の救急車導入の流れを知る必要がある。

 まず、タイ政府は救急車導入の試みとして、1993年に公共保健省がコンケーン県の「コンケーン病院」に「交通事故センター」を設立した。慈善団体に任せっきりになっていた救急活動の中で、プレ・ホスピタルケア(病院前救護)の技術が低いという問題点があり、その改善に取り組み始めた。

 プレ・ホスピタルケアというのは事件事故の負傷者を搬送する際の技術や知識のことだ。誤った知識と方法による応急処置や搬送方法が横行し、受傷時そのものだけでなく、搬送が原因による後遺症も多発していた。その問題の解決を、公共保健省は日本のJICAなどの指導を受けながら、なぜかバンコクではなく東北地方の街から始めている。

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 翌1994年、公共保健省はカオサン通りなどが近い、バンコクの旧市街にあたる地域にある「ワチラパヤバーン病院」に「SMART」を設立した。この名称はSurgico-Medical Ambulance and Rescue Teamの略で、実質的なタイ政府の救急車導入となった。タイ政府に育成された救急隊員が活躍し始めたのだが、残念なことに病院周辺の活動で、全国に名を馳せることはなかった。

 そして、ナレントーンは1995年3月に戦勝記念塔にある国立病院「ラーチャウィティー国立病院」に本部が設置された。報徳堂の設立から実に85年も遅れての登場だ。当初はラーチャテーウィー、パヤタイ、ディンデンなど、バンコクの下町エリア限定の活動だった。おそらく資金面の問題があたたのではないだろうか。そのため、2001年4月にタイ全土に一斉配備されたにも関わらず、一般市民の認知はなかなか進まなかった。

 そんな中、2004年12月にプーケットで津波が発生し、世界中から集まった支援部隊から「タイにはEMSの総合的指揮系統がない」ということを指摘された。そうして、やっとタイ政府も動き始め、公共保健省が改めてナレントーンを宣伝するようになり、徐々に知名度が上がりつつある。

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課題の多いタイのEMS

 ナレントーンがやっとタイの公的救急車だと認知されつつあるが、結局のところ、いまだEMSに関しては報徳堂などの慈善団体の方が活躍している。

 というのは、ナレントーンは全国配備されているとはいえ、実際には各県の主要な病院に数台ほどしかない。そして、主要病院は基本的にムアン(日本でいう県庁所在地)にしかないことがほとんどだ。

 つまり、ナレントーンがカバーできる範囲はたかがしれているということなのだ。埼玉県で想像してみると、秩父で急患発生のため救急車を要請したら、大宮辺りから出発するようなものだ。これでは間に合わないので、結局慈善団体が活躍することになるのだ。

 このため、問題も実は多い。特に法的な面、それから人々の緊急走行に対する認識やその意味の周知が日本や欧米と比べると、タイは恐ろしいほどに遅れている。

 そもそもEMSの技術は常に更新され、装備もより優れたものが登場し続ける。つまり、EMSというのは維持管理に金も人員も必要で、容易ではない。だからこそ、タイ政府は国民を守るためには絶対的に必要なものを民間に任せきりだった。100年もの間、報徳堂や義徳堂にタイEMSの役割を担わせてきた。
 報徳堂などは民間団体なので、法律を変えたりするほどの権限もなく、活動には限界と制限がある。元はタイ人(ここでは民族としてのタイ人)たちが見下してきた移民たちの団体なので、なおさらこの団体に権限を与えることはなかったし、下に見ていた人たちの行動を気に留める人も少なかっただろう。

 たとえば、タイでは緊急車両が通行中でも道を譲ることがない。タイの道路交通法にも緊急車両は緊急走行中に限って信号無視や道路標識を無視することを認められているが、緊急車両を優先するようには書かれていないし、妨害を罰する法律もない(取材時なので、もしかしたら法令が少し変わっているかも)。

 2012年か13年にタイ政府がTVコマーシャルを制作した。信号で救急車に道を譲らない青年に救急隊員が「患者が亡くなった」とクレームをつける内容だった。オチはその患者が青年の親だった、というものだ。

 このコマーシャルの効果がかなりあったようで、2014年以降はだいぶ緊急車両を優先する動きが出てきた。しかし、今さら感は拭えない。本来なら、国のEMSネットワークに報徳堂や義徳堂があるべきだが、政府は後手後手で動いてきた。国が法の整備や活動の意義・意味を啓蒙しなければならないのにそれを怠り、さらに国民の認知の元の協力も不可欠であるにも関わらず、救急車の緊急走行の意味まで一般タイ人(このタイ人はタイ国籍保有者)は考えてくれない。

 2020年の現在もタイが抱えるEMSの問題点は100%解決・解消されているとは言いがたい。これはしばらく続きそうなタイのEMSの課題のひとつである。


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