もう少し自分のことを-きっかけ
出版歴やタイに至るまでのおおざっぱなことは前回紹介したが、もう少し、ライター・高田胤臣(たかだたねおみ)が誰なのかということを書いておきたい。
まず、そもそもなぜタイに至ったのかというと、ほかの多くの人とは違った方向から入っている。それは、小学校5年生、6年生のころに遡る。
ボクはライターをやっているものの、子どものころは読書が苦手だった。そのため、よくあった夏休みの読書感想文なんかは小1か2年で観たアニメ「銀河鉄道の夜」の感想を毎年書き続けていた。そして、小5あるいは6年のときに自宅にあったスティーブン・キングの「恐怖の四季」を読んだ。これが映画「スタンドバイミー」の原作で、このときになんというか、「死体」に興味を持つようになった。
そして、高校生くらいのときに、当時レンタルビデオ店などにもあった成人指定の「デスファイル」シリーズを友人の兄に借りてもらい、観るようになった。この中で登場する場面の大半がタイであることをのちに知った。それは雑誌「バースト」に掲載されていた死体写真家・釣崎清隆先生の記事でタイの「華僑報徳善堂(ポーテクトゥング)」に同行取材していたということで、「死体を見るならタイに行け」というような言葉があった。いや、バーストじゃなくて、別冊宝島「死体の本」か、先生の著書「死体に目が眩んで」だったかもしれないけれども。
いずれにしてもボクはこの言葉を真に受けて、1998年1月下旬にタイに飛んだ。海外旅行も初めてで、そもそもタイがどこにあるかもよく知らないままに。それでもなんとかなるもので、2ヶ月間、バンコクで生活して帰ってきた。ちなみに、このときはタイ語ができなかったので、報徳堂に辿り着かなかった。そのため、連日、シリラート国立病院の「死体博物館」に行った。
そうして死体とは別にタイを気に入って、そこから行ったり来たりの人生になった。そうこうしてるうちに2000年7月からタイ語学校に通い、2004年に勤めた日本語無料誌の編集部から報徳堂に取材申し込みをして、念願の報徳堂同行が叶った。一番最初の死体は、警察本部に隣接する司法解剖室で解剖された大量の死体だった。次に見たのは国立チュラロンコーン病院の行政解剖室に保管されていた身元不明死体の数々。それから、12歳の少女が強姦されて焼き殺された死体遺棄現場だ。
ちょっとしたきっかけから釣崎先生の言葉に触発され、そのまま人生の半分以上がタイ漬けになってしまった。まさかこんなことになるとは。報徳堂に関しては、その後本部に直談判し、2004年12月からボランティア隊員になっている。外国籍ではほかにいないので、報徳堂では唯一、しかも15年も続いている隊員でもある。このあたりはほかにいない経歴なので誇っていいのかなと自分で思っている。
稚拙で恥ずかしい内容だが、報徳堂の活動や日々の生活を書いたブログをやっている。2005年から始めたもので、当初は「バンコクとレスキューと子育てとくだらない話と」というタイトルだったが、昨日からタイトルを変えて心機一転、できる限り毎日アップしようと考えている。
一時は全然アップしていなかったけれども、ブログが流行し始めた当初に開設しているので、もったいないからという事情もある。とりあえずこちらもよろしくお願いします。
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