タイの救急救命事情【後編】
タイの救急救命に関する情報をここで紹介する。前回に続く、後編だ。公共の救急車が配備されたが、結局のところ課題解決には至っておらず、人口も増え、今以上に事件事故も増加すると考えると、しばらくは報徳堂のような慈善団体によるEMS活動が続くだろう。
EMSを支えるのはボランティア
ナレントーンが配備されたとはいえ、いまだに民間慈善団体がタイのEMSを支えている。結局のところ、EMSに不可欠なのはマンパワーで、ナレントーンだけでは資金も人手も足りていない。そのため、慈善団体も協力して助け合っていくしかない。
とはいえ、いくら名の知れた報徳堂であっても全国をカバーできるほどの資金はないし、それだけの職員を雇うことも困難だ。報徳堂は一般市民からの寄付金で成り立っているが、活動はEMSだけでなく、貧困者や学校などに数百万バーツの寄付や支援を行い、災害などが起これば救援活動も行う。海外の災害でも寄付金を送ることもしばしばだ。それだけの活動でも資金繰りは大変なことである。
そこで注目されるのがボランティアの存在だ。タイ語ではアーサー、あるいはアーサー・サマックと呼ばれる。
タイでは警察や消防、企業や地方自治体などあらゆる団体にボランティアがいる。レスキュー団体も例外ではない。報徳堂では本部のレスキュー部門の職員が200人いるかいないか程度に対し、ボランティアは少なくとも1500人はいるとされている(一説では3000人超とも)。
日本人からすると素人に応急処置を任せるのは心許ないと感じるだろう。確かにそれ以前にはプレ・ホスピタルケアに難があった。そのため、タイ政府はコンケーン県でトラウマセンター(事故センター)を設立し、それがナレントーンに変化してきた。そのナレントーンが主催する講習会も頻繁に行われる。
現在ではボランティアとはいえ、最低でもEMS初級の講習を受けていないとボランティアに応募することすらできない。私立病院や慈善団体、ナレントーンが行う講習を受け、その認定証を添付して応募するのだ。
入隊後も、ボランティアとはいえ講習に定期的に参加してブラッシュアップしていく。EMS技術は日々進歩し、昨日正しかったことが今日は間違いになることもある。報徳堂でも独自にボランティア向けの講習会を行っていて、長いものでは1週間もかかるようなものもある。
タイの医学や医療は日本のものとは異なる。救急医療の分野でも日本とは違う対応をすることがよくあり、日本人が見ると不安に感じる場面もあるかもしれない。しかし、その処置は間違いであるとは決して言えない。タイ医学の技術も高水準なので安心してほしい。タイの事件事故発生率は日本よりもずっと高いので、その分、ボランティアとはいえ場数を踏んでいるので技術は高いと言える。
一応、タイではナレントーンが最新の救急医療技術を持っている。救急車の装備も最新のものであることが多い。法令に抵触するならばそれを変えてでも装備を輸入できるので、ボランティアよりもいいものを持っているのは当然のことだ。
すでに述べたようにタイのEMSは一般市民から手を挙げたボランティアが支えている。実際、ボランティアの装備一式や活動費はすべてボランティアの自腹だ。救急車も制服も無線機も、なにもかもボランティアが自分たちで買っている。
そのため、個人で用意できる装備には限りがある。法令で輸入できないものもあるし、海外の医療機器のメーカーもタイの個人に売ってくれない。だから、ナレントーンは国がやっている分、なんでもできるというメリットはある。
とはいえ、ナレントーンの救急車の絶対数自体が少ない。かといって、報徳堂などの慈善団体が全土をカバーできるほどの資金もない。
だから、ボランティアなくしてタイのEMSは立ちゆかない。
いまだに語られるレスキュー抗争
事件や事故の現場では警察、ナレントーン、レスキュー本部隊員、ボランティアの順で命令系統が成り立つ。ボランティアはどの現場でも警察やナレントーン、本部隊員の指示の元で動く。
本部もボランティアも基本的には朝8時がその日の始まりとなる。これはあくまでもバンコクでの話で、他県は地域によって大きく異なる。少なくともバンコクの報徳堂と義徳堂は2交代制になっていて、18時ごろに早番と遅番が交代される。
ボランティアは朝8時を起点とする1日の中で自由に参加できる。ほとんどが昼間は仕事をしているので、夜の参加になるのだが。ただ、毎日、管轄地域に立つわけではない。
これには都市伝説とも言えるある事情がある。いまだにタイ人の多くが信じている話で、それを聞いた外国人も信じてしまっている。ウィキペディアの報徳堂のページにもそれが記載されているくらいで。実際にそういったことはあったのだが、今はもうないという話で、いわばスマートフォンの時代にPHSの常識を語るようなものだ。
その都市伝説的な事実とは報徳堂と義徳堂、報徳堂や義徳堂などとほかの弱小慈善団体が、事件事故の現場の主導権を争って、救急車で暴走するというものだ。
事実、かつては現場に急行し、ケガ人や死体に最初にタッチした団体がその現場の主導権を握るというルールがあった。新聞などに掲載されるので、活動をPRできるからだ。これが寄付金の増減に関係もする。
そのために、ときには慈善団体同士、ボランティア隊員同士で口論となり、場合によっては暴力事件などにも発展した。また、現場に急行中に無理な運転で事故を起こすケースもあったという。人を助ける側が傷つけ合うという、本末転倒な結果になっていたことは事実らしい。
さすがに政府や警察もこれを見過ごすことはできず、少なくともバンコクは管轄を分けることにした。まず、ボランティアは報徳堂に登録する中で、活動するチームを確定させる。なぜなら、そのチームリーダーが登録完了後に所轄の警察署に登録者を報告するからだ。つまり、ボランティアは警察署の管轄内のみでの活動になる。それ以外での活動は基本的には認められていない。近年は救急車も事前登録が必要なので、勝手にパトランプやサイレンをつけて走行すれば交通違反になる。
さらに、タイの2大レスキューとされる報徳堂と義徳堂の活動を限定させている。バンコクにおいてはペッブリー通りを境に南北に分け、朝8時で交代するのだ。たとえば今月の偶数日は北が報徳堂の担当日で、南が義徳堂となれば、翌日の奇数日は朝8時から北が義徳堂、南が報徳堂になる。
これは2000年以前に導入されているので、結構長く行われている措置だ。にも関わらず、一般タイ人はあまり知らない。
ほかにも一般タイ人は貧しい暴走族上がりがレスキューをやっていると信じている。事件事故の際に金品を盗むということまで言われる始末だ。
これも最早都市伝説だ。少なくとも報徳堂はこの噂に敏感で、搬送前の所持品確認は本人、その関係者、警察官の前で行う。もし本人が意識不明でひとりの場合は野次馬を近くに寄せてまで不正をしていないか見せながら確認を行う。それほど徹底しているのだ。
ボランティアは前述の通り、自腹で救急車まで用意している。それほど金に困っている人はいない。そもそも、自分のあいた時間を社会貢献に捧げているのだ。会社員は休暇を取ってまで訓練に参加し、善意でEMS活動に奉仕している。しかし、一般市民の認識はいまだに不良少年のイメージが強い。これもタイ政府がEMSを軽視し、手をつけてこなかったことの弊害であるとボクは思っている。
タイでは保険は必需品
タイのEMSではケガ人などは総合病院の緊急搬送窓口に運ぶことが多い。しかし、タイの場合、社会人に与えられる社会保険の指定病院が搬送時のネックになることが多い。
タイの社会保険は失業保険や年金のほかに医療費が大幅に免除される特典があるが、病院指定になっている。指定行院以外では基本的には使えないのだ。そのため、ナレントーンならともかく、ボランティア隊だと管轄地域から離れるわけにもいかないことと、ボランティアが燃料費も自分持ちのためあまり遠くに行くことは難しいということもある。そのため、社会保険がEMSの足かせになるケースもある。
また、指定病院は多くが国立病院だ。私立病院もあるが、選択したくても人気のために受け入れ定員数オーバーで加入制限がかかり選べないこともある。要するに、人気の病院から指定病院が埋まっていくので、ケガ人の指定病院に行ったとしても、その分利用者が多くて病床が埋まってしまい、受け入れてもらえないこともある。日本のように救急車に直通電話が搭載されていれば事前確認できるが、政府がそれを行ってこなかったので、そんなシステムはタイに存在しない。
そうなったときには私立病院にねじ込むことになるのだが、そうなればケガ人に現金かクレジットカードが必要になる。タイは医療費が高いことと、私立病院はボランティアではないので、金がない患者を受け入れてくれない。死にかけていてもさっさと追い払ってしまう。
そんな環境なので、ケガ人も私立病院を嫌がる傾向にある。しかし、国立病院に搬送しても、外来の患者が多く受け入れてもらえないこともある。
また、被害者が意識不明の場合、勝手に私立病院に搬送していいのかどうかも判断できないので、どうすればいいのかと頭を抱える場面も少なくない。このように、タイのEMSはいまだに課題が多い。しかも、根本的なシステムの部分での問題が多い気がする。
国民の意識が先進国並みに変わってきたタイは今以上に優れたEMSを持つことは必須だ。今後、タイ政府がどのように動くのかが注目される。