辿り着く場所はなくとも
それは突然やってきた。
代わり映えのしない、しかしそれゆえに、安らかな温もりに包まれた日々が終わりを告げた。
ぼくと共にあった、愛するものたちが去り、ちっぽけだが確かなものと感じてきた希望が嘘のように消えてなくなった。後に残ったのは、虚無、としかいいようのないからっぽの時間と空間だった。
気がつくと、ぼくは海岸線に沿って伸びる街道の道端に蹲っていた。灰色のコートを羽織り、素足に女性もののサンダルを履いて――。
風が強かった。道を走る車はなく、吹きさらされたアスファルトの路面に砂埃だけが舞っている。道の向こうはゆるやかな下りの斜面で、その先は灰色の砂浜と表情のない海だった。海には音のない波が絶え間なく打ち寄せていた。
ぼくは膝を抱えたまま長いことそこにしゃがみ込んでいた。夜が明け、日が昇り、また夜が明け、日が昇った。薄雲に遮られた陽射しはいつも弱々しく、ぼくのところに届く陽の温かさはわずかだった。
何日もの間ずっと同じ姿勢のまま、飲まず食わずでぼくは海を見つめていた。空腹も喉の渇きも感じなかった。疲れることも飽きることもなく、苦痛も感じなかった。したいこともすべきことも、ぼくにはなかった。
やがて、街道のはるか向こうに人影が現れた。重そうなトランクを下げ、たどたどしい足取りでこちらに向かってくる。ぼくはその様子をぼんやりと見守った。影は長い時間をかけてゆっくりと近づいてきた。
「ここ座ってもいい?」
ぼくの返事を待たずに影は隣にしゃがみ込んだ。女の人だった。年齢はよくわからない。
「こんなところで何してるの?」なんてことを彼女は訊かなかった。ただ軽くため息をつき、煙草をくわえて火を点けた。
「この先に行ってもたぶん同じよね」
彼女はそう言って、自分が来たのと反対の方角を見た。
「おそらくね」
ぼくはそう言った。喋ったのは何日ぶりだろうか。
「でも、行ってみるしかないわね」
「それは人によるかな」
「…そうね、たぶん」
彼女はそう言って煙を吐き出した。ぼくは小さく息をついてから言った。
「それでも行ってみようとする人と、引き返す人、そしてもうどちらにも行けない人がいる」
彼女はぼくのほうを振り返った。
「あなたみたいに?」
「そう、たぶん」
少し沈黙があった。
「ねえ、いいものあげようか」
彼女は煙草の火を消すと、小さなビンを取り出した。ビンの中で揺れる液体を見て、ぼくは本当に久しぶりに喉の渇きを覚えた。
「飲んでみる?」
「アブナイものじゃないよね」
「命に関わるものじゃないわ。安全かどうかは微妙だけど」
彼女はそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。彼女が表情らしいものを見せたのはそれが最初で最後だった。ぼくは彼女からビンを受け取り、薄い緑色をした液体を何回かに分けて飲み干した。液体は何かの花のような香りがして、かすかに甘い味がした。
「もう行くわ。これあげる」
彼女はそう言って、持ってきたトランクをぼくの脇に置いた。小さなショルダーバッグひとつになった彼女は「少し身軽になったわ」と言って歩き出した。後ろ手にぼくに手を振って。
ぼくも彼女の後ろ姿に手を振った。
あの液体を飲んでしばらくしてから、ぼくは自分の体に小さな変化が起こっていることに気づいた。ありえないはずのことが始まっていた。ぼくはその変化に驚きつつ、一方で不思議な安堵感も覚えた。液体がもたらした効果は少しずつぼくの全体に浸透していった。そして数日後には、ぼくの体は女性といってもいいものになっていた。
彼女が置いていったトランクの中には、女性ものの衣類と履き物、化粧品、ヘアウィッグが入っていた。ぼくは小さくため息をつき、それから彼女が残していった女性ものの衣服に着替えた。ブラウスにスカート、形のよくわからないふわふわしたコートを羽織り、セミロングのウィッグを着けた。サンダルを脱ぎ、なるべくヒールの低い靴を選んで履き替えた。化粧品の入ったポーチを手に取り、しばらく考えてからトランクの中へ戻した。
着替えるためにぼくはここに来て初めて立ち上がった。そしてぼくの背後に、つまり道路を挟んで海の反対側に山があることに気がついた。そう広くない草むらの奥に森があり、その向こうに山の稜線が広がっていた。山肌は鬱蒼とした緑に覆われ、ところどころに土がむき出しになっている箇所があった。ぼくはすっかり女性になった姿で山に向かって大きく伸びをし、深呼吸をした。もう一度海のほうを振り返ると、海は少し悲しげに見えた。
あたしはまだ海に向かってしゃがみ込んだまま、何日も何日もそのまま過ごしていた。不思議とお腹も空かなかったし、喉も渇かなかった。ただ、ときどき後ろに向き直って、山のほうを見た。生い茂った木々は深々と重なりあい、蒼黒い陰影がどこか底知れぬ場所へと通じているようにも見えた。
山と海と、どちらにしようかな――と、あたしはずっと考えていた。もう時間が迫っていた。風が吹き、土埃が舞い上がり、口の中がざらざらした。
もうこれでいいよね。そう思うと、体がすぅーっと軽くなる感じがした。あたしには辿り着く場所はなかったの――。
あたしは立ち上がり、道路を渡った。久しぶりに歩いたので、足がぐらぐらしてまっすぐ歩けなかった。何度もよろめいたりつまずいたりしながら、あたしは砂浜に降り立った。
靴を脱ぐと、あたしは海に向かって歩き出した。もう心は決まっていた。山にも後ろ髪を引かれるけれど、長いつき合いの海の顔を立ててもいいんじゃないかって、そんな気がしていた。
海の水は冷たくも温かくもなかった。何の匂いも、音もしなかった。波がなければ巨大な湖、いや実験用のプールか何かのようにも見えた。無味乾燥な灰青色の液体が意味もなく水平線まで湛えられていた。
あたしは不安定な足を引きずりながら、海の中へと入っていった。音も温度も何もないので、ドラマチックでもなんでもなかった。まあ、でも、そういうのが自分にふさわしいのかな、という気もした。
腰のあたりまで水に浸かったとき、突然“ぐわん”と何かが動くような衝撃を感じた。はっとして振り返ると、山があったところに海があった。
――えっ?
振り向きなおすと海だと思ったのは山で、あたしは森の入り口の草むらの中に佇んでいた。
あたしはもう一度振り向いた。海が波音を立てて目の前に迫っていた。潮の香りがし、ウミネコみたいな鳥の声が聞こえた。腰まで海水に浸かった下半身が、冷たく震えていた。
山からは遠鳴りでうぐいすの鳴く声が聞こえた。森の木々が濃い瘴気を発し、草いきれで息が詰まりそうになった。
あたし、どこにいるの。どこに行こうとしてるの――。
あたしは矢も盾もたまらず大声を出そうとした。でもその声はもうあたしの声ではなかった。男でも女でもない、何かの鳥のような声が、朗々と海と山に響き渡った。
あたしはいつの間にか頬に涙が伝っているのに気づいた。波が打ち寄せ、風が吹き寄せた。木々の梢が風に踊り、海の中では魚たちの群れが聞こえない歌を歌っていた。山が海を返し、海が山を返した。あたしはその狭間で、全身をわけもなく打ち震わせながら、生まれてから一度も味わったことのない悦びに満たされていた。
(おわり)
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