南越語は孔子をベトナム語で読めばきっとわかる
「巧言令色鮮し仁」は
「xảo ngôn, lệnh sắc, tiển hĩ nhân」だった。
ベトナム語を覚えるのには時間がかかり、漢字とセットになっている南越語からでも覚えたいと思ってましたが、昔の漢文をベトナム語で読めば、出てくる単語が南越語だと気づいた嬉しさ。
日本でいうところの、カタカナが外来語が多いのかと日本人以外が分かったときの嬉しさにきっと似ています。
田中克彦さんの書籍を一冊だけさっと読んだところで、言語学には単語の起源を考えるベクトルと、文法の起源を考えるベクトルがあり、単語は簡単に貸し借りができるので構造の類似性を考えるのが言語学だという考えがあることが分かった。それはそれで言語の歴史を紐解くのに重要だと思う。アルタイ語系を理解している人が日本で中国語の文字に触れ、その人の独自解釈でアルタイ文法の中国単語である日本語ができたのかなという歴史推測は楽しいものがある一方で、この学問のベクトルを各自が未来にもっていこうとすると、文法がこれから変わる事よりも単語がどう変わっていくかの方が興味が深い。以前weekly ochiaiで落合さんが平井さんとの会で「デジタルに対する漢字を考えたい」という話を言っていたが、令和だけでなくこういう単語案を世の小説家に作り出すのが生きた動的な言語学なのかなと感じ始めてます。福澤諭吉のような。そんな気持ちを抑えつつ、次の言語学の本でも読もうかなと思います。
ちなみにデジタルは中国語ではおそらく「数码」、数を積み重ねるという意味らしい。ベトナム語ではおそらく「Kỹ thuật số」、技術の数字という直訳になりそう。カタカナで西洋語を表すという文化は簡単に言葉の輸入ができる一方で、日本が気づいてきた借り物でない自国としての漢字の使いこなした文化を少し後退させてしまってると感じました。「ケータイ」の単語のように、デジタルは本来の文字以上の意味がついていると思いますが、こういうのは時代とタイミングなので、きっと日本は「デジタル」という言葉で意味を広げてしまったので、置き換わるタイミングを逸してしまったような気がしてます。