見出し画像

映画鑑賞後の派生

ディカ様って知ってる?
タイタニック号の船首に女の子を立たせて磔刑ごっこしてた人。

そのディカ様が主演を務めた映画、『インセプション』を観た結果、よくわからん映画やなあと思って、映画の解説(事実はない。ほぼ誰かの考察)や関連する情報を調べた。

おれの意識はWebページを流れ流れて『インセプション』を作った映画監督、クリストファー・ノーランのある思考の断片に降り立った。

「ネットのせいでみんな本を読まなくなった。書物は知識の歴史的な体系だ。」

当該監督はインターネットがキライらしい。理由は、ネット上の抜粋された内容をかいつまんで得た情報では、コンテクスト(前後関係や背景から読み取れるもの)が失われると思ってるから。

おれは映画観るの好きだけど、評論家じゃない。理解能力や感受性が低いせいか作品の目に見える範囲の表面的な面白さ以外はよくわからんけど、それでも、『インセプション』を観て感じたことがあった。
おれの中にある、層について。
夢の中に深くより深く入っていくように、三層くらいのエリアで自分の思考回路が暴走する時期が、ままある。
自分の中に、違う自分を作って、放してる。するとそいつはおれが観察対象としてしか携われないから、こっちが想像もしない言動や思考を自由にみせる。そいつはおれじゃないんだけど、おれが内に作った自分だから、だれとも言い難い。
これが、1人じゃない。
複数人が、それぞれおれの心の中の違う層で、生きて、体験して、感じてる。
共通して言えるのは、常に監視されてる感覚。
見えないところに監視カメラがあって、身近な人がおれのことをずっと監視してる。そういうイメージが頭の中にへばり付いてる。
でも嫌な気分じゃない。みんなそれが当たり前だから。

"コンテクスト"ってことについて、調べてるうちに知らん人どうしのおもしろいやりとりを見つけた。

質問者Q.
クリストファーノーランがコンテクストが失われるからインターネットはやらないと言う趣旨の発言をしていたのですが、ここで言うコンテクストとはどういう意味でしょう?

応答者A.
その発言っていつ、どんな場面でなされたものなんでしょうか?
インタビューですか? インタビュアーは誰で、実際にはどんな会話の流れで、どんなふうに質問したんでしょうか? ノーランはその後で、もう少し補足的な説明をしていませんでしたか? その内容はなんでしたか? インタビュアーはそれに対してどんなリアクションでしたか?
そういう情報があれば、その発言における「コンテキスト」の意味もわかるか、ある程度は推測できるとおもいませんか?
それこそがコンテキストですよ。
この質問は、もとの発言からコンテキストを失わせることでわからなくなったり曖昧になった部分を質問していて、非常に自己言及的でおもしろいなと感心しました。

おれは自分が普段使わないような言葉に興味を惹かれて言葉の意味とか似たような言葉とかをネット上で調べる。おれはインターネット嫌いじゃないから。
それで、今回は"自己言及的"という言葉に吸い寄せられて、また流れ流れて、いま、ここ。

「自己言及のパラドックス」の例として最も有名なのは「私は嘘つきである」という発言である。 となり、同様にやはり仮定と結論が矛盾する。 つまり、「私は嘘つきである」という発言に対しては、真(本当)であると言うことも偽(嘘)であると言うこともできない。

OK、よくわかった。
言葉で表せることには限りがあるという認識を持たないと、言葉の沼にズブズブ浸かってしまう。
ギリのところで沼から出てくることができた。作業用の長靴はスポンと抜けて持ってかれたけど。

それにしても、写真のクリストファー・ノーラン監督は、ディカ様そっくりだと思わんかね?

いいなと思ったら応援しよう!