大家さん
割と引っ越しは多い方だと思う。
あれは当時付き合った彼と同棲を解消して、1人になった時に住んだ家だった。 半ば投げやりな態度で家を探していた。 不動産屋も態度が悪いと思ったことだろう。 金銭的な問題もあって、なかなか良い家が見つからなかった。
そんな時、巡り合った家。 大家さんの戸建とつながるようにして建てられたアパートだった。 大家さんは70代くらいのご夫婦で、どちらもきれいな白髪がよく似合っていた。柔らかい表情をしていて、優しさが滲み出ていた。
アパートもきれいに手入れされているのが分かった。 薔薇や金木犀の木、観葉植物がたくさん並んでいて、それにすぐそばに川が流れていた。 川の両側は桜並木になっていて、まだ咲いていなかったけど、咲いた場所を眺めている自分が想像できた。
“大家さんが隣にいるなんて気まずいな。” 最初はそう思った。 でもこれ以上の好条件はなかったし、何よりお風呂場がすごく気に入った。 細かめのタイルに、白地にベージュのマーブル模様があしらわれた壁。 洗面台には曇り防止のスイッチがあった。 更にクローゼットは3枚扉になっていて、どちら側からも荷物が取り出せる造りになっていた。 住む人のことを思って作られたアパートだなと思った。
すぐに契約。 住み始めてみると、選んで大正解だと思った。 大家さんは心地の良い距離感を保ってくれた。 基本的にこちらから何か言わなければ干渉しないスタンス。 1階に住んでいた私は、朝洗濯物を干そうとベランダを開けるとお母さんが庭仕事をしていて。
「おはよう。」
「おはようございます。」
「暑くなってきたね。」
「本当ですね。」
「でも偉いわよ。家事もちゃんとして。」
口下手な私だったけれど、そんな風に褒めてくれたりもした。 しばらくすると窓をコンコン。 「きれいに咲いたでしょう。」 と言って、オレンジとピンクの色が混ざった大きな薔薇を一凛くれた。 慌てて花瓶を買いに行ったりしたっけか。
引っ越し直後に洗濯機のホースが入れられなくて困った時は、お父さんが心配して見に来てくれたり。 お母さんは趣味でやっているらしい農園の野菜をくれたこともあった。ご丁寧にレシピが書いた紙が挟まれていたり。 モロヘイヤとか、人参の葉っぱとか。 自分では買わないと思われるそれらを料理することも楽しかった。 美味しくできたこともあれば、うまく味付けできなくて不味かったこともあったけれど。
ギターを弾いて歌う私の声もきっと聴こえていたけど、注意されたことはなかった。 たまにお孫さんが遊びに来て、川沿いで遊んでいる声が聞こえることも日常になっていた。
だけど住み始めて3年目。 私は引っ越しを決めた。 前の恋人と住んだ街とはお別れしたかったし、誰も知り合いのいない街で一から住んでみたいと思った。 隣県の大学に通っていた私にとって、当時住んでいた街は割と車ですぐに行ける場所。 初めて1人暮らしを始めた思い出とか、就職をして当時奮起していた記憶とか。 そういう全てのものを置いて、別の街で暮らしたい思いが強くなった。
そこに何があるか分からない。何もないかもしれない。 でも。同棲をするから選んだ引っ越しじゃなくて、自分の意思で決めた引っ越しをしたかった。
転職先も決まって、住む場所も大体決めた引っ越し3ヵ月前の秋。 “そろそろ言わなきゃな。” そう思っていた。 大家さんとはそれからもばったり会って挨拶もしたし、その流れで言ってしまえばいいのに。 言えなかった。 私はいつも肝心なことが言えない。 なんだか悪く感じちゃって、そんなことは全然ないはずなのに、友達と遊んでて「そろそろ帰ろうかな。」の一言が言えないあの感じ。 とにかく自分からお別れを言うことが苦手だ。
結局言えず、期限の1ヵ月前、取り持ってもらった不動産屋に電話して伝えた。 大家さんには不動産屋を通して伝わった。 その後大家さんから電話がきたけれど、割と事務的だった。
引っ越しの準備をして、家具も思い切って捨てて。 それを見かけた大家さんは 「あんなに捨てちゃって、すごいね!」と笑いながら話しかけてくれたりもした。
最後の日。 引っ越し前日まで実家に帰っていた私は、大家さんに地元のお菓子を渡した。 何かを言いたくて。でも思い浮かばなくて。
「すごく良くしてもらって・・・住み続けたかったんですけど。転職するんです。」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。元気でね。」
そうやって別れて、私は駅まで歩いた。
ああ、私はここで少しずつ元気にさせてもらったんだな。 傷付いて、全て投げやりになっていたのに。 大家さんと何気ない会話をして。 生活のリズムをまた整えだして。 隣に住んで、それぞれの暮らしをしながら、それぞれの時間を過ごして3年。
私は元気になった。 心が落ち着かない夜なんて何度もあったけど。 会っても、会わなくても、そうやって生活してきた。 今思い返すとあの日々は貴重な時間だった。 何もないようで、すごく暖かくて、大事な時間。
春になったら川の桜を見て、夏はすぐ近所で上がる花火を見た。 秋は枯葉を掃いて、冬は雪かきをしていた大家さん。
これから先も何度か思い出す、大切な記憶。