会津藩の歴史に触れ、都市経営を考える
こんにちは、すっかり秋らしくなってきましたね。
週末は、地域で運営する週末マーケットを手伝ったり、友人のマルシェに行ったりとしていたのですが、久しぶりに子ども達と少し遠くまでドライブをしてきました。行き先は、会津若松です。
日帰りで行ける距離というのと、妻が鶴ヶ城をゆっくり見たいというので。
「個」を超える、圧倒的な「義」
会津では、鶴ヶ城を見た後に、夕方に白虎隊の最後の地である飯盛山へ行き、隊士のお墓参りをしてきました。
最近、コロコロコミック以外も読むようになった長男は、白虎隊の記録を読んで、相当ショックだったようです。16、17歳で戦地で自刃する運命は、小学生にとってかなり重い話だったようです。
そういう想像力を持って考えられるようになったことに感心しつつも、「彼らは決して、ただ可哀そうな時代の被害者ではないんだよ」ということを話しながら、山を降りてきました。
本当は親や兄弟、友達と日常を楽しく暮らしたかったはず。それでも自分の個人的な充足を超えた、圧倒的な公的使命感がそこにあったのだろう。
会津は、鳥羽伏見の戦いを経て薩長に政権が移るなか、戦を避けるべく恭順の意を示してきたが、新政府はそれを受け入れなかった。
それでもなお、会津藩は戦を回避しようと奔走しましたが、ことごとく拒絶され、もう戦うしかない状況に追い込まれていく。こうして、会津をはじめとする東北勢は奥羽越列藩同盟を結び、戊辰戦争に巻き込まれていきます。
天皇陛下のため、幕府のために尽くし、戦の回避を望んだ会津が「朝敵」と呼ばれ続ける。こんなことは受け入れられるわけがない。
そうした社会状況のなか、義を貫き、故郷の会津の誇り、アイデンティティを守るために、命を使った捧げた隊士達。
そこには、大義に殉じる圧倒的な「公」があったはず。
だから150年以上たった今でも、僕らの心を強烈に揺さぶるのでしょう。
まだ小学生の彼には難しいかもしれませんが、「個」を超える「公」という価値が、かつてこの地にあったことを感じてくれていれば嬉しいです。
16世紀の天才デベロッパー蒲生氏郷
鶴ヶ城を築城した蒲生氏郷(がもう うじさと)の展示を見て、この人は天才だと思いました。35歳の時に会津若松に赴任した蒲生氏郷は、鶴ヶ城を築城し、故郷の近江商人を招いて城下のビジネスを開拓しました。
当代随一の経営手腕を持つ近江商人を、地方都市のまちづくりにキャスティングして、地域経済を発展につながるプロジェクトを起こしたということです。それは、織田信長のビジネスモデルを、会津流にアレンジした領国経営でした。
そして、恐ろしいことに事業期間は、会津に赴任した35歳から亡くなる40歳までの、わずか5年です!
氏郷の没後、長い間、会津藩の財政を支えた産業に「会津漆器」があるそうです。この会津漆器も、氏郷が新たなビジネスを興そうと考え、故郷・日野町の木地師・塗師などの職人を会津に呼び寄せたことから始まりました。
織田信長から都市経営手腕を学び、それを自らの新任地の都市経営に活かし、日野(近江)という自分のオリジナリティを活かしたビジネスにアレンジしたと言えそうです。
そして、わずか5年の事業期間で展開した街づくりが、強い会津の礎を作り、その影響は数百年後も続いています。まさに、稀代の天才ですね!
※蒲生氏郷の企画展、11月までやっています
近代民主主義と当事者意識
封建時代の天才デベロッパーの話、幕末に「公」に殉じた隊士の話を聞き、翻って現代の都市経営について考えました。
統治する側(=government)にいる藩主は民間ではなく、確実に官側でしょう。しかし、蒲生氏郷は織田信長が目をかけるほど才能に溢れた経営者であり、ビジネスセンスある統治者でした。
どのように周囲を巻き込んで都市経営をしていたかは分かりませんが、たった5年で歴史の礎を築いた人物ですので、少なくとも自らのビジョンも無く「ワークショップをして、城下の民の意見を聞いて決めた」とは言わなそうです。
また、白虎隊の隊士たちは、自らの命を軽んじている訳ではなく、現代人では想像もつかないくらい「自分の命の使いどころ」を真剣に考えていたのでしょう。それは、想像を絶するくらいの「公共心」、「当事者意識」だと思います。
封建時代と近代民主主義を比較するのは、前提が違い過ぎると思いますが、
それでも、会津藩士の覚悟を見ると、近代民主主義が前提とする「自立した個人」、「合理的な市民」は、なんか嘘くさく思えます。
本来、民主主義とは覚悟をもった「個」の存在が前提条件でしょう。
・市民は自らの代表を主体的かつ合理性をもって選ぶ
・議員は、個々の事情よりも、地域の全体最適を優先する
・行政組織は、都市の将来に必要な施策を合理的に判断する
いや、そりゃちょっと難しいのでは。
都市経営とパブリックマインド
都市経営の領域を担うのは、なにも行政に限定されず、企業、市民、全ての主体だと思います。そして、個(=individual)の欲求を超えて、公の利益を考えること(=public mind)が、経営参画の要件でしょう。
その公(=Public)の領域は、必ずしも行政区画と一致せず、自分の家族や愛する故郷、市町村、国と、当事者意識を持てる空間に伸び縮みします。また、空間的広がりだけでなく、過去から、未来へと繋がる歴史の縦軸にも広がります。そうした、「個」から、縦・横に色がる「公」的領域に対する、主体的な意識が、パブリックマインドなんだと思いました。
一方、官(=goverment)は、基本的な都市機能、セーフティネットを支えるために用意された仕組みで、官がパブリックのすべてを統治する訳ではありません。
しかし、近代民主主義が前提とする「自立した、合理的な市民像」というのは、戦後日本においてリアルで無かった。市民は主体的な公との関わりを放棄し、地方政府(=官)も、結局は国の方針、財源に依存し、当事者意識の希薄な都市経営が続けられてきました。
それでも、人口・経済が拡大する社会はパワフルで、放漫経営でも問題が表面してこなかったんでしょう。
しかし、人口が減少し経営資源が縮小する都市においては、経営感覚を持った都市経営が必要となります。自治体においては、残す公共サービス、捨てる公共サービスを見極め、財源をはじめ調達可能なリソースを柔軟に考え、自治体の経営再建をする必要があるでしょう。
そして、現代の僕らの街には、蒲生氏郷は居ません。だから、経営感覚を持った民間との連携を考える必要があります。そのプロセスが、本来あるべき都市経営の姿を取り戻すことにつながる気がします。
長くなりましたが、秋の鶴ヶ城にて、会津藩士の「義」に触れ、「公」と「個」についてあらためて考えさせられました。
それでは、また!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?