AI時代をどう生きるか
共同体感覚の範囲で社会を考えよう
私たちは、5000年、10000年を見据えて、
どんな社会を作って次の世代に引き継ぎたいだろう?
まずここから出発することにしよう。
なぜなら、人間である限り、人類の運命に多少とも責任があるからだ。
人間は社会的動物であって、人間関係の中にあってはじめて、その人間関係の結節点としての自分が立ち現れる。世界から独立した自己の魂などというものは初めから存在しない。だから、自分を考えることは、とりもなおさず世界を考えることだ。
人の至誠は他の人に伝わり、人から人へ受け継がれて、永久に滅することがない。人類の歴史を通じて、数えきれないほどたくさんの先輩方が、志のバトンを受け継ぎながら走っている。その中から自分に合うものを継ぐだけでも、人生100周分くらいのやりたいことが湧き出てくるはずだ。そして、いわゆる名著を片っ端から読破したり、活躍されている社会人の方々とお会いする中で、先輩方がどれだけ人生の限られた時間に対して真剣に向き合ってきたかを知れば、たった一度の人生で自分が引き受けたいものも、きっと見えてくるはずだ。
「やりたいことがないというのは素晴らしいことじゃないか。現状に不満がないのだから。やりたいことが出てきたら、やってみればいいのだ」…と、かつては僕もそう思っていた。今は、他人にはそのポジションで話すこともあるが、自分や大切な人がそれを実践するにはあまりに機会費用が大きすぎる、と考えるようになった。腹落ち度が90点でも80点でもいいから、今すぐに人生のあらゆる側面において設定する方がいい、と今の僕は考えている。
キャリア教育やリーダーシップ教育の現場では、自分の原体験を深く掘り下げる中から、やりたいことのエッセンスを見つけ出し、現状の制約を超えて未来を描くという方法をとっている。自分のモチベーションの源泉は自分の記憶の中にあるので、これ自体は非常に重要なステップだ。
だが、実際の授業や研修の現場では、これまでに自分で人生を揺るがした意思決定を行った原体験が何も思いつかないという人もいる。(そういう時は感情に注目すればいい。)また、原体験を深く掘り下げるという名目で、ただ自分の過去の延長線上にしか未来を描けないとか、問題意識が子供すぎる(相対化できずに社会とうまく繋がっていない)とか、エッセンスの抽出がうまくいかず、現状の制約を超えて不連続な未来を考えるためのステップがむしろ制約を強調してしまっているように見受けられることがある。それは研修設計が悪いのではなく、介入者の自己効力感が低いと言外に「大きい目標は君には無理だ」というメッセージを無意識に発してしまうことや、そもそも体験を抽象化・相対化する思考力(いわゆる教養)が十分でないことが本質的な問題となる。特に前者の事情は迷宮入りしかねない問題だ。
それはあたかも、「自己を受容しましょう」と言われた時に、「自己を受容できない自己」を受容することから始めるのと同じだ。人は、現状の自分が受容された時に、はじめて変化を起こす勇気を持つからだ。
一般的な変革理論(Theory of Change)は問題定義・ボトルネック特定から始まる。しかし、人の変革は受容から始まるのだ。
これを「現状100点、未来∞(無限大)」という。
原体験がないと思っても、自分の意思で過去の人の至誠を継ぐことによってやりたいことを見つけてもいいし、そうやって自分でゴールを定めて試行錯誤して人と関わって困難を乗り越える中で、本物の原体験だって生じてくるのだ。
そういうわけで、自分がどう生きるかを考える際には、自分が引き受けられる共同体感覚の範囲内で、「どんな社会を作って次の世代に引き継ぎたいだろう?という問いから思考を始めませんか」というのが僕の最初の問いかけだ。
自分が引き受けられる共同体感覚の範囲は、経験学習が進むとともに広がっていく傾向がある。もちろん、自分の利益のためにしか人生を構想できない人は悪意ある人のカモにされるだけだが、共同体や社会の利益を構想する人はさまざまなチャンスを見出すようになり、さらに経験を積み、社会の構造が見えるようになることで、さらに革新的な機会を得る。ここから学べることの1つは、経験学習の効果は、今まで見えなかったチャンスやビジョンに気づけるようになることだ、ということだ。
社会環境について
人はどう生きるべきか、そのために社会はどうあるべきか?
という思考の順で考えよう。
僕にとっての良い人生を表す標語はたくさんあるが、代表的なものをいくつか挙げると「健康で文化的な最高の生活」「大切な人を大切にする」「知的好奇心の赴くままに」「茶筅型(中密・全方位型)のスキルセット」「望みのままに生きて人の役に立つ」「自分に優しく、人にはもっと優しく」など様々だ。
こういう信条は人によって様々だろうが、人々がより良く生きるためには、そうできるような構造が必要だ。
この構造を社会環境という。
さて、主体論と決定論の対立は根深い。一方では実存主義的に「人は自由意志を持っていて、どんなに過酷な状況であったとしても、主体的に行動できることが必ずある」と考え、他方では構造主義的に「自由意志だと思っていても、実は遺伝や環境や腸内細菌をはじめとする様々な外的要因によって、自分の意思決定や行動は決められているのだ」と考える。
自分の存在を仮定すれば、どちらも全く正しい。しかし、前述の通り自分というのは関係の結節点に過ぎないので、全ては認知次第でどうとでも捉えうることだ。
例えば、優れた野球選手は体格が優れていたのか、教育が良かったのか、本人が強い意志を持てたのか、運が良かっただけなのか、色々な説があるが、本当にどうでもいいことだ。そもそも優れた野球選手に「優れている」という評価を下しているのは自分自身である。僕が本当に優れていると思う選手は、自分やチームが世界チャンピオンであるのは当たり前で、それを通じて人類の健康増進に貢献したいといった大局的な視点を持てる人だ。そういう抽象度の高い意図が本人になければ、いくら野球が上手くても大衆の見せ物として消費されるにすぎない。これが、主体的に生きるかどうかによる最大の違いである。
一方で、ある社会の中で、人がよく生きるのにもメカニズムがある。戦争や災害で突然命を奪われることがないとか、法治国家で理不尽に罰せられることがないとか、致命的な差別がないとか、そういう自由主義社会が成立する前提となるハード・ソフトのインフラがあった上で、主体的に生きることが大切なのだ。つまり、一人一人が主体的に生きるのも当然重要だが、人が主体的に生きることができるインフラを建設するのも非常に重要だ。
イェール大のディキシットらによれば、戦略とは、相手がこちらを出し抜こうとしているのを承知したうえで、さらにその上をいく技である。そこで、まずは人類の持続的繁栄をゴールとして、脅威について考えてみよう。人類の死因といえば飢餓、疫病、戦争、日本の場合は災害だが、これらを人類が克服したと思うかどうかで想定すべきシナリオが分岐する。ハラリは「ホモ・デウス」において、人類は飢餓、疫病、戦争を解決したといえないまでも、壊滅的な災厄をもたらさない程度には抑え込めるようになったので、次は「不死」と「幸福」が人類のゴールとなるだろうと主張している。
一方で、どう考えても飢餓、疫病、戦争も災害も人類は克服できておらず、目前の課題であり続けているという考え方もできる。さらに、気候変動、森林破壊、公害といった環境問題も相変わらず残っていると言える。
僕はどちらかというと後者の立場に立っている。地球規模の噴火ひとつで氷河期に突入して生物ほとんど餓死するという最悪のハザードの存在は昔から全く改善していない。テラフォーミングで極寒の星を可住域にできるなら、地球の平均気温が0.1℃上がったくらいで騒いでいる今の人類は一体何なのか。少しづつ着実に人類は前進しているものの、人類が真に自由に生きるためのコア技術のいくつかは、まだ致命的に未熟だ。
鍵を握るのは、(広い意味で)インフラの維持管理が網羅的に機能するかどうかだ。
例としてハードインフラの課題を挙げよう。以前のインタビューで、安宅さんが日本のインフラのコストの高さについて述べていた。もちろん日本は災害大国なので、設計基準が他国に比べて厳しいのが主要な原因だとは思うが、それでも根本的にインフラの目的を問い直すことに示唆を与えてくれる。
人類は、数万年単位の生存を考えると噴火や核戦争をはじめとする絶滅級の脅威がたくさんあり、一人一人が持てる才能を発揮して社会のインフラを建設し、飢餓、疫病、戦争、災害などを徐々に克服していくことで安全を保障し、その中で主体的に生を謳歌していくことが重要であることを述べた。
重要なことは、人類の数万年単位での持続的繁栄の礎を築くことだ。
必要なことは、変えるべきものを変え、守るべきものを守ることだ。
では、社会環境はどうあるべきか。
自然権は自然に実存するのではない
必要なのは、変えるべきものを変え、守るべきものを守ることだ。しかし世界を見渡せば、世界の側が変わっていくのを理解するだけでも困難なくらいの変化に見舞われている。具体的に様々な変化の中で、社会環境はどうあるべきかを考えよう。
国際政治社会では、パクス・アメリカーナは終わりを告げ、国際分権・パワーバランスの時代が復活している。ハートランドでの露宇の衝突を調停するものはなく、東アジア・南アジアの危機はみるみる高まっている。かつての戦争との違いは、民生用インターネットの存在と、兵器の進化と、宇宙・サイバー・電磁波・認知戦といった戦場の変化だろう。特に認知戦については、戦争を導くプロパガンダは技術として確立しているのに、平和を構築するプロパガンダとしてのピースコミュニケーションは未だ技術が確立しておらず、その非対称性が人類の困難の核心となるだろう。そして日本は専守防衛主義を採りながら、スイスのように有事を想定したインフラも存在しないので、本土で戦争が起きてしまうと生き延びるのは非常に厳しい。判断力のある人は、あらゆるシナリオを想定して、自分と大切な人の身を守る行動を戦略的にとってほしい。(そもそも日本は地理的にアジアのランドパワーとの衝突が避けられないのだから、アジアの大陸をあらゆる独裁政権から解放してあげて軒並み親日国だらけにし、ランドパワーたちが間違っても太平洋への領土的野心を持てないように、ピースコミュニケーションを打つ必要がある。これはアジアが自律的に世界平和を実現する上での必要条件だ。)
金融社会では、利上げなどを背景に、シリコンバレー銀行、シグネチャーバンク、クレディスイスといった銀行が次々に経営危機に陥っている。しかし今起こっているこれらは氷山の一角の現象に過ぎず、本質的には株主資本主義の持つ根本的な「所有」と「縮退」の問題の現れなのだ。縮退については長沼伸一郎さんの「現代経済学の直観的方法」を参照されたいが、今後の金融社会の本質的な変化を起こせるかどうかは、一人一人が意図的に自分のキャッシュマシン形成と消費をコントロールできるかどうかにかかっているのだ。
技術社会では、じきに汎用AIと呼んで差し支えのないものが生まれそうだ。今、生成AI、ロボット、ブロックチェーンといったデジタル技術はますます激しく世界を変えている。人間はいよいよ本当のビッグデータをAIに与え、意思決定を自動化する方向に舵を切った。そこで鍵になるのは、事故に対して誰がどう責任を取るかという話になる。自分の運用している10万台のドローンのうち1つが何らかの事故を起こしたとして、その責任が所有者にやってきたのでは、いくら身があっても足りない。意思決定の主体が非常に優秀なのに故意責任を問えない、という時代が来るのだ。もちろん説明可能なAIなどのコンセプトはこの問題を解く上で重要な論点になるが、本質的には「意思決定の主体に責任を問えない」という一点にある。そもそも責任とは何なのか。権利とは何か。このことを確かめるべく、最近は「自然権」を発明したホッブズや、アダム・スミスなどの著作を読み漁っていた。
人権は、最も成功した虚構の一つだ。
人間を人間たらしめているのは虚構を信じる才能であって、これが協力という人間ならではの行動特性を生み、一人ではなしえないことを行えるようになったのだ。そして、人権だって紛れもない虚構である。
人権はそもそも象や虎の前では無に等しい。「私には生存権がある」といくら主張しても、踏み潰されるだろう。つまり、自然権は本当に自然にあるのではなく、人間たちが人権という概念を信仰することによって、人権があるとみなせる、ということなのだ。
これは西川貴章も同じだ。僕は、蝶や蜻蛉に「西川貴章です」と自己紹介したとしても、霊長類として認識されるかどうかすら怪しい。そういう意味で、虚構だ。でも、西川貴章という虚構を人類みんなが信じてくれることによって、西川貴章という役割の人間が存在するとみなせる。
この「信じる」というただ一点のために、権威があり、目標があり、デザインがある。
こうして、「AIが意思決定する時代に、責任をどう定義していくか」という問いは、「人間は何を信じていくか」という問いに読み替えられる。
次回予告:アイデンティティについて
今後考察したいことは、自分がどうやってアイデンティティを建設していくべきか、そして他者のアイデンティティの建設のために何ができるだろうか、という2点だ。これが「人間は何を信じていくか」という問いに直結するからだ。
アイデンティティには、経糸と緯糸(つまり縦糸と横糸)がある。
経糸は自分たちの親の親の、そのまた親の…と辿ったり、あるいは子供の子供の、そのまた子供の…と辿った先にある、歴史を貫く精神だ。
緯糸は、この時代に生きる人間としての時代精神だ。
この二つの糸の重なった点に自分がいて、経糸の探求を通じて原理原則を学ぶことと、緯糸を通じて時代精神に気づくことが、社会の次の時代を開くための鍵となる。
また、科学者、経営者、芸術家…といった名詞も、あくまで人間の自己イメージの構成要素、あくまで虚構であって、それが実存するわけではない。
ではアイデンティティとは何なのか。自分の未来についての記憶である。