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経験学習と経験過学習、構造主義、多モデル思考
今日の記事のあらすじ
近年の教育界では経験学習が持て囃されているが、経験過学習はむしろ思考の硬直化を招く。いかなる思考枠組も完璧ではありえないのに、学習が進むほど現状の思考枠組の盲点が見えなくなるからだ。この場合、複数のモデルを組み合わせることで、柔軟な思考を保つことができる。そのためには、読書などを通じた大量の代理体験を生涯にわたって継続的に得て、多様な文化やコミュニティに共感的に接する機会を持つことが重要だ。
経験過学習の罠
一般的に、経験と学習のバランスは大切とされている。
まず経験し、そこから学ぶことで、次の経験の質が高まり、さらなる学びにつながるという好循環があるからだ。
たとえば、デイビッド・コルブの経験学習モデルでは、「具体的経験」「内省的反省」「概念化・抽象化」「能動的実験」の4つのステップからなるサイクルを繰り返すことで学習が進むと言われている。
僕も、経験学習の必要性や重要性には同意する。
だが、たかだか数十年しか生きていない我々の人生経験で、学習を十分に進められるのだろうか?経験学習論者なら、「経験からしっかりと学びを得て前に進んでいれば、そうでない場合と比べてはるかに前に進むことができるだろう」と言うだろう。しかし、それでは経験学習が(他のあらゆる学習スタイルと比較して)最速の学習法であることの証明にはなっていないのだ。直接体験による経験学習だけでもなく、代理体験だけでもなく、それらを総動員して学ぶことが良い、と考えるほうが自然だ。
将棋の棋士でいえば、自分で無闇にたくさん将棋を指してそこだけから学び続ける人よりも、本だけから学ぶ人よりも、本や映像を通じて序盤中盤終盤のあらゆる戦法や筋を熟知しながらも実際にたくさんの将棋を指しこなし、さらにAIの指し手を見て研究したり、体調管理やメンタルヘルスにも気を配ったりするような、上達のためにあらゆる知を総動員して学習しつつ将棋に打ち込む棋士の方が大きな学習効果を発揮するだろう。
機械学習に「過学習」という言葉がある。これは、AIをつくる際に、学習データにだけ適応した学習ばかりが過剰に進んでしまい、未知のデータに対して推定する性能が下がってしまう状態を指す。
当然ながら、人間にも過学習はある。エミール・デュルケームが提唱した社会学に、社会化 socializationという概念がある。社会化とは、自分の帰属する社会の価値や規範を内面化していくプロセスであり、約15年で凝り固まると言われている。人間も齢を重ねるにつれて、自分の人生経験にだけ適応した学習ばかりが過剰に進んでしまうと、未知の状況に対して推定する性能が下がってしまう。これが、周りから見ると、頑固な老人の時代錯誤の言動のように映ってしまうのだ。
社会化のメカニズムは、自分が尊敬する誰かを模倣したい、というモデリング本能に根ざしている。子が親を見て育つように、模倣は生得的な本能の一種だ。そして、模倣するうちにパターンを認識し、徐々に自分の中でモデルやフレームワーク(思考枠組)を形成していく。当然、それ自体は悪いことではない。ただ、宇宙138億年の歴史の中で、たかだか数十年というたまゆらの命の時間で、しかも自分の属する狭い文化圏で、いたずらに時が流れると過学習を招くのは当たり前のことだ。しかも悪いことに、人間は見たいようにしか見ないので、過学習が進めば進むほど、思考枠組の盲点が見えなくなり、みるみるモデルを強化していくのだ。ここまでくると、ベテラン占い師が「私は占いが外れたことはない」と言うのとさほど変わらない。
構造主義と適用範囲
サルトルの実存主義→レヴィ・ストロースの構造主義→ジャック・デリダの脱構築…という哲学史上の一連の反駁合戦を知っている人も多いだろう。
(一般に、麻布生は実存主義が大好きだ。そう聞くと麻布生は否定するだろう。
あたかも、大阪人に「大阪の人って、みんな一家に一台たこ焼き器持ってるってほんと?」と聞いたら一斉に「さすがにそんなことないと思うで。うちはあるけど」と言うのと似ている。)
マルクスは、西洋史を観察し、そこからパターン認識して特徴を抽出することで、史的唯物論の発展段階説を提唱した。
これに対してレヴィ・ストロースは、西洋以外の社会にそのような傾向は見られないことを指摘した上で、西洋以外の社会は西洋と比べて発展段階の遅れた社会だと考えることは西洋中心主義の傲慢にすぎないと考えた。
世の中には、史的唯物論の発展段階説以外にも、たくさんの発展段階モデルが存在する。
経済発展段階説だけでもたくさんある。
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他にも、
エリクソンの「心理社会的発達理論(psychosocial development)」(「乳児期」「幼児前期」「幼児後期」「学童期」「青年期」「成人期」「壮年期」「老年期」の8つの発達段階)
マズローの「学習の4段階」(無意識・無能力、有意識・無能力、有意識・有能力、無意識・有能力)
ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」(ベージュ「古代的-本能的」段階、パープル「呪術的-アニミズム的」段階、レッド「呪術-神話的」(力のある神々)の段階、ブルー「神話的秩序」の段階、オレンジ「合理的」(科学的達成)の段階、グリーン「多元的」(感受性豊かな自己)の段階、イエロー(ティール)「統合的」な段階、ターコイズ「全体的」(ホリスティック)な段階)
ジョエル・ディーン「プロダクト・ライフサイクル」(市場の発展段階を「導入期」「成長期」「成熟期」「衰退期」の4段階に分けた)
エヴェリット・ロジャース「イノベーター理論」(新しいアイデアや技術は、「イノベーター」「アーリーアダプター」「アーリーマジョリティ」「レイトマジョリティ」「ラガード」の順に人々に普及していく)
サミュエル・ローランド・ホール「AIDMAの法則」(A…認知・注意(Attention)I…興味・関心(Interest)D…欲求(Desire)M…記憶(Memory)A…行動(Action))
コンドラチェフの波(景気が70年サイクルで循環する説。もはや学説というより占いに近い)
などがある。
(このように、ひとくちにモデルと言っても、様々な領域に様々な抽象度のモデルがあるため、モデルたちを整理するモデルとか、モデルを生み出すためのモデルといったメタモデルも存在する。人は、事象を「一般化」「歪曲」「省略」することによってモデルを形成している、というものだ。
だから、不合理なモデル化してないかな?と思ったら「一般化」「歪曲」「省略」を疑えばいい。NLPは、これをコミュニケーションスキルとして教えている。)
モデルを作っては反例を出し、ということを繰り返すのは良いが、理系の教育を受けた身からすれば、そもそもモデルには適用範囲が伴うものだ。ちょうど、計測器具に最大容量と最小目盛りが伴うように。
(容量 100 mL、最小目盛り 0.1 mLのメスシリンダーでは、100Lの水を計ることも、0.05mLの滴を計ることもできないだろう。しかしそれは、決してそのメスシリンダーが無用の長物だということにはならないだろう。)
したがって、モデルが使えるのか無用の長物なのかを知るためには、モデルの例外を見つけてくるだけでは不十分である。しかも、ある理論の適用範囲を実証的に見つけようにも、「目の前のケースで理論通りかどうか」の判定は恣意的にならざるを得ない(占いが当たっているかどうかと同じ)。しかし、反例を提示するという実証主義的なやり方以外に、理論の妥当性を検証する手段がないのだとしたら、上に挙げたような理論は検証(反証)不可能ではないか。
科学と擬似科学 pseudoscience との間での線引き問題は長らく科学哲学の中心的問題だったが、今ではこの問題設定自体が擬似問題(解なし)だと言われることも多い。
四季を例にあげよう。春夏秋冬だって、「1年を通じて気温が4つのステップからなるサイクルを繰り返す」という一つの立派な理論だ。しかし、世界を見渡せば、乾季と雨季しかない地域もあれば二十四節気や七十二候などもあり、4つの必然性があるとはいえない。そして反例をあげようと思えば枚挙に暇がない。春も秋も猛暑で雪も降らない年があるかと思えば、冷夏で飢饉に陥ることもある。その原因も、緯度の違い、エルニーニョ現象などの有無、地球規模の数百年単位の気候変動などさまざまだ。だから、「今年の冬は暑かったから春夏秋冬はアテにならない」という主張はナンセンスだ。では、反例を提示する以外に、春夏秋冬という枠組み自体が機能しているかどうかを客観的に判定する方法はあるだろうか。あるいは、そんな問いは考えるだけ無駄だろうか。モデルが使えるかどうかわからない中で、我々は目の前の事象をどう考えれば良いのだろうか。
多モデル思考
解の一つは、モデルを目の前の事象に適用する際に、アレンジや批判を試みることだ。四季の例でいえば、七十二候は中国で提唱された理論であるため黄河流域に最適化されていたが、黄河流域と日本とでは気候の変化に伴う自然現象に1ヵ月ほどの差異があって一致しなかったため,江戸時代にはいわゆる本朝七十二候が作られた。このように、目の前の事象にあわせてモデルを作り変え続ければ、よりシンプルで正確な理論が得られる可能性がある。ただし、適用範囲は相変わらず不明だ。
脱構築はモデルを批判(というより破壊)するのに便利な思考様式だ。特に、現状の社会構造の中で二項対立の優劣関係がある場合に、その優劣は変えられるかもしれないという大きなヒントが得られるだろう。
いずれにせよ、理論や構造は教条主義的な決定論ではなく、それを踏まえて(ある場合には、踏み破って)理想の未来を作っていく、主体論の道具であるべきだ。
もう一つの解は、目の前の事象の構造的把握を試みる際に、たくさんのモデルの構造を援用することだ。これがいわゆる多モデル思考だ。
複数のモデルを組み合わせることの恩恵が大きい、というよりも、一つのモデルを使い続けることはリスクが大きい、と言ったほうが良いかもしれない。
放射線の健康リスクの議論が好例だ。健康リスク評価には、閾値(しきい値 Threshold)仮説とLNT仮説(しきい値のない直線 Linear No-Threshold)があり、どちらが妥当かでずいぶん長らく論争が続いていた。100ミリシーベルト以下の被ばく線量のリスク評価は、実測によって検証することができないからだ。それでも、複数の理論モデルの仮説を持ってぶつかるからこそ、それぞれのモデルの限界も自覚できるのだ。もし線形モデルだけを武器に15年生きていたら、しきい値という発想自体が生まれないだろう。
もちろん多モデル思考にも限界はある。力学で例えると、目の前の事象は線形か非線形か、もし非線形なら弾塑性で通用するのか、といった理論の吟味は、応力ひずみ曲線のようなグラフ全体の概形を実験によって予め知っていることが前提となる。しかし、上に挙げたようなたくさんの理論に関して言えば、実際の社会や人間はあまりに複雑で、グラフ全体の概形を先験的に得ることは不可能だ。したがって、この世界に関して、枠組み自体が機能しているかどうかを客観的に判定するには、多モデル思考も十分ではない。
つまり、理論が機能するかどうかはわからない、ということを自覚し続けた上で、たくさんのモデルを援用し試み続ける必要があるのだ。それも、「こうしたら大丈夫」「これくらいやれば十分」という保証を誰も与えてくれない中で、できる限りの努力をする必要がある。その「できる限り」を支配している変数は唯一つ、自分の基準だ。換言すれば、自分のゴールと、自己能力に対する自己評価だけだ。たとえば、現代の人類にできるベストの知的水準に達しようと本気で思う人は、現代の人類が持つあらゆる学問分野のあらゆるモデルを自分の道具にする必要があると考え、自然にあらゆる学問を深く修めることとなるだろう。
これは、客観的評価基準を持たない大抵の仕事について言えることだが、仕事の質は自分の基準以上に高まることはない。自分が「これでいい」と思ったらそこで終わるのだ。
多モデル思考は実際に可能なのか
自分の依拠しているパラダイムの限界を認識した上で、たくさんのモデルを援用して目の前の事象に向き合う。このようなことは実際に可能なのか?
十分に勉強すればできる、というのが当面の答えなのだが、僕は経験学習に加えて、読書や人の話を聞くといった代理体験による学習の重要性を強調しておきたい。なぜなら、直接体験による経験学習の重要性は(教育学や禅などの影響で)徐々に認知されつつあるが、たかだか数十年という経験不足はどうにもならない上に、現代人の代理体験は劣化しているからだ。
twitterやブログ文化(半分くらいアフィリエイトだが)によって、ネット上には情報が溢れ、現代人の活字消費量は人類史上圧倒的に多いという。しかし、ネットを開けば好きな話題ばかりがレコメンドされ、自分のSNSでは自分と似た意見や思想を持った人々をフォローし、そうでない人をミュートして、居心地の良い空間を作り上げたうえで、意見や思想や価値観の似た者同士で交流・共感し合うことにより、特定の意見や思想が増幅するエコーチェンバー現象 Echo chamber を繰り返している有り様である。これでは、社会化を早め、モデルの凝固を促進しているだけだ。凝固剤を加えるのは豆腐だけにしておこう。その質は、教養レベルは、先人たちの足元にさえ及んでいるかどうか。
経験から学べば、一生分の人生経験を積めるだろう。
さらに人の話に耳を傾ければ、一生分以上の人生経験を積めるだろう。
さらに本を読めば、何十人分以上の人生経験を積めるだろう。
特に、自分の何十倍の人生経験を持つ人が書いた、時代を超えて人々に影響を与え続けるような、名著と言われる本とどっぷりと対話すれば、何ヶ月の思索にも相当するくらいのヒントが得られるだろう。
(もちろん、それが「知ったつもり」で終わるかどうかは直接体験の有無によるので、経験学習の重要性は揺るがない。)
人はそれぞれのモデルを持っている。モデルはいわば、世界を見るときのフィルターだ。それらが凝り固まる前に、たくさんの他のモデルと突き合わせて、トンボの複眼のようにたくさんの見る目を養うことが重要だ。
そのためには、多様な文化やコミュニティに共感的に接する機会を持つことだ。「共感的に接する」というのが重要だ。敵対意見を批判的に思考するのは猿でもできる。それでは溝が深まるばかりだ。敵対意見であっても共感的に理解できてこそ、より高次の解決策に至ることもできるだろう。そして何よりも、異文化に触れたり、自分の学問領域や興味範囲をあえて飛び出してみることは、新たなモデルを与えてくれるだけでなく、それまで自分が当たり前だと思っていたモデルに適用範囲(限界)があることを思い出させてくれる。
最初の一歩としては、「毎月1つ以上、人生初の体験を何かする」というマンスリーミッションを持つことをお勧めする。毎月の月末「来月は何をしようか」と楽しみになること、請け負いだ。
補注:基礎を固めることについて
「基礎を固めよ」というアドバイスは有益だ。立派な構造物も、立派な基礎があってこそ。特に、上に何を建てればいいかわからない人は基礎をおろそかにしやすい傾向があるので、何かが上に建つことを信じて基礎を固めることは非常に大切だ。
一方、基礎を固めることは、価値観が凝り固まることとは異なるはずだ。
だからこそ、3つのことに留意しなければいけない。
1つは、どこに基礎を打つか。誤った場所に何十メートルの基礎を打とうが、目標とする構造物は建たない。いわば、「適切な場所に基礎を固めよ」だ。
2つ目に、上に建てたい構造物が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、基礎はたくさん広く深く打つ必要がある。いわば、「たくさんの大きな基礎を深く固めよ」だ。
3つ目は、一度建設した基礎も劣化するので維持更新が必要だ。いわば、「基礎を打ち続けよ」だ。
何にでも基礎はある。だが、大抵の場合、基礎でつますく人は、そもそも何が基礎かがわかっていない場合も多い。
音楽を演奏する場合、よく音楽を聴き、体幹を育て、基礎的なテクニックを身につける必要がある。
武道の場合、心技体それぞれに基礎はある。
人間関係の場合、インテグリティや気骨があることが基礎となる。
学問の場合、国語や数学を基調とする論理的思考力が基礎となる。理系に進むなら微分方程式、さらに工学に進むならラプラス変換が基礎となる。
基礎に習熟するに連れて、基礎は高度化していく。
何が基礎かは先人に聞くしかない。
だから、十分に高度化した基礎のことを「奥義」という。
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