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ドリアを食べるにはまだ早い。


ここ数年ドリアに弱い。子どもの頃はドリアといえばシチューを作りすぎた翌日にご飯にかけたものを指し、料理というより後処理のタスクだった。子どもながらにシチューをご飯にかけたものは「シチューをご飯にかけたもの」以外の何者でもなくドリアと呼ぶのは烏滸がましいなと、ドリアを慮る立場をとっていた。一方で、幼少期に初めて対面したドリアは残ったシチューをご飯にかけた食べ物だったので、激しい生活感を纏った存在となりお店でわざわざお金を払って食べるという発想には至らずに大人になった。ホワイトソースと炭水化物のコラボ料理といえばグラタンがその代表の座に君臨しており、ドリアがそこに並ぶことなど到底なかろうというのが数年前までの自分の中のドリアの評価だった。

何がきっかけだったか忘れたが、今までプロが作ったまともなドリアを食べたこともないにも関わらず一方的に格下と評価してきたことを申し訳なく感じた瞬間があり、店で食べようと思い立ったことがあった。しかし、この世にはドリアが食べられる店は意外と少なく、ましてやドリア屋と高らかに宣言している店は滅多にないため、あるかどうかわからないドリアを求めて洋食屋に入り失敗することがしょっちゅうであった。そんな中、書店を梯子して彷徨いた後にたまたま見つけたのが「ドリア&グラタン なつめ」という店なんであった。看板に堂々とドリアと書いてある上に「グラタン&ドリア」ではなく「ドリア&グラタン」であるのがグッときた。これは完全にドリアが主でグラタンが従の関係性だ。ドリアを店の代表選手に構える店に初めて出会い、吸い込まれるように入った。前日のシチューを片付けるための後処理ではなく、ドリアのために作られたドリアを食べたのはきっと初めてで、こんなにも満足感があるものかと恐れ入った。好きな食べ物の中にドリアが追加された瞬間であった。グラタンがここに入る隙はない。

その店は時々使う駅のすぐ近くにあるので月に何度か視界に入る。今週は特にその辺りに行く用事が多かったので、何度もなつめがドリアを訴えかけてきた。今日も割と頭脳労働で疲弊していたところに暖かみのある店の明かりに照らされたドリアの文字を見て、揺らいだ。このまま流れ込むように、ドリアを決めてしまおうかと。しかし疲れに身を任せておざなりに食べるのはドリアに申し訳が立たないし、今日はまだ早いなと思ってグッと堪えた。こういうのは食べたい欲求にしばらく蓋をすることでよりおいしさが高まるものだ。今日はまだその蓋を開けるには時期尚早であった。

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