因果応報の意味 1 善と悪を分けるもの
因果応報とか自業自得とか、日常会話でも良く使われる言葉ですが、現実にそういう法則のようなものがあるのか、考えてみました。
もともと仏教の言葉で、善因善果、悪因悪果という言い方もされます。
良い行いをすれば良い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返ってくる、ということです。
しかし、ここで疑問が湧いてきます。
善悪は誰が決めるのでしょうか。
不倫は悪か?
例えば、不倫は悪と考えている多くの現代人にとって芸能人や政治家の不倫にまつわるスキャンダルは格好のターゲットで、メディアは徹底的に当事者を叩き、大衆はそれに飛びつきます。
もちろん自分の配偶者の不倫は絶対に許されることではありません。
裁判になったら負けるから、というのなら、未婚のカップルのどちらかが別の相手と交際することは悪でしょうか。
現代人なら、それはもちろん悪だと答える人が多いと思います。
しかし、縄文時代の人は違いました。
縄文時代には結婚と言う概念も特定の相手とだけという習慣はなく、子供にはたくさんのお父さんが居て、子供をみんなで育てるという社会が成立していました。
殺人は悪か?
人を殺すことは悪という考えは、戦時には変わってきます。
80年前の日本人はアメリカ人やイギリス人を「鬼畜米英」と呼び、彼らを竹やりで突くことを良しとしていました。
本当にみんながそう思っていたかどうかは知りませんが、少なくとも殺人に関する善悪の基準は今とは違っていたと思います。
これが戦国時代であればもっと違っていて、戦で敵の武将の首を取って持っていけば手柄になり金一封を受け取ることが出来ました。
このように善悪の判断は人間が決めることであって時代によって変わります。
豚を食べることは悪か?
イスラム教徒の間では豚肉を食べることは悪いこととされています。
仏教では殺生罪と言って豚だけではなく生き物を殺すことは罪だとされていて、もちろん誰かが殺した動物の肉を食べるのも同罪です。
しかしキリスト教徒にとって豚肉を食べることは悪ではありません。
善悪の判断は国や社会、時代によって変わります。
お年寄りに席を譲るのは善か?
あなたが電車の中でお年寄りに席を譲ったとしましょう。
席を譲られた人に喜んでもらってこその善行ですが、譲られた人が年寄り扱いされたと思って怒り出すかもしれません。
転倒のリスクは無視するとして、座るよりも立っていた方が足腰の運動になって健康のために良いということも言えます。
良かれと思ってする行動も相手にとっては”ありがた迷惑”だったり相手のためにならかったりするのですから、氣を使いますね。
善と悪、光と闇
ではどうすればよいのか、ということですが、自分の中の何らかの基準で良いと思うことをしていくしかないと思います。
新型コロナのワクチンを打つのが良いと思っている人に対し、その無意味さや危険性を説明してあげるのもその一つだと思います。
説明された方は怒るかもしれませんが、それはその人が信じている正義と私が信じている正義が違うからです。
当然対立が生まれますが、そこを通らずして次のより次元の高い方向へは進めません。
穿った見方をすれば、人間はぶつかり合いながらお互いに様々なことを経験し、因果応報でその結果を受け取っていくということだと思います。
それが良いことか悪いことか、光側なのか闇側なのかとかいう判断とは関係なく、やった行いに相応しい結果を受け取る...
それが因果応報と言うことです。
言い換えれば自身が世界を創造しているということで、これは曲げようのない宇宙の法則だと思います。
といきなり断言してしまいましたが、なかなか説明が難しいです。
どこかでこういう話を読んだか聞いたかしたことがあります。
これがヒントになります。
長くなりますので次回
因果応報の4コマ漫画
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