差異への感度——バラエティ「芸能人格付けチェック!」から考える——
筆者はテレビを全く見ないのだが、つい先日、家族がバラエティ番組「芸能人格付けチェック! 」の録画を見ているタイミングで、居間に入った。
筆者が居間に入ったとき、ちょうど、オーケストラの演奏とソプラノ歌手の歌が、プロによるものか、アマチュアによるものかを判別する、という「チェック」がおこなわれていた。
試しに筆者もやってみたのだが、見事に外れてしまった。
6歳離れた、高校2年生の妹は、「間違いなくこちらだろう」といって、筆者とは違う方を選んだ。
筆者の間違いを、バラエティの中での一幕として、笑いに昇華させたり、「途中から見ていたから」などと、言い訳めいたことばを並べたりすることは、比較的容易だろう。
しかし、筆者は妹と比較して、劇団四季のミュージカルやオーケストラによるコンサートの鑑賞など、いわば「本物」に触れた回数は、明らかにおおい。
「耳が肥えた」筆者は簡単に正解し、「本物」に触れる機会がすくない妹は間違える、という筋書きがあっても良いはずだ。
しかし、現実はそうではなかった。
筆者と妹の違いは、どこにあるのか。
そう考えたとき、キーワードとして浮かび上がってきたのが、タイトルにある「差異への感度」だ。
妹は、楽器の強弱や歌い手のブレスなどを聴き分け、プロ/アマを峻別していた。
妹が着目した観点を意識して、巻き戻してみると、なるほど、全く違っている。
音声情報としては、筆者も妹も——とくに聴力に問題がないと考えられるため——、ほとんど同じものを受容しているといって良いだろう。
しかし筆者は、妹が見出した「音声情報の差異」を看取することができなかった。
ヒトは、外界から受け取る刺激を、何らかの基準にもとづいて差異化し、意味ある刺激として受け取っている。
たとえば、ある言語の意味を理解するためには、一連の音声を「単語」というカテゴリで切り分けていく必要がある。
その言語を理解しないものにとって、ことばは、切れ目のわからない単なる音声か、雑音にしか聞こえない。
これと同じように、オーケストラ演奏の「格付けチェック」についても、わずかな刺激の変化を「差異」とみなせるか否かが、成否を分けるものになっていることがわかる。
ブレスの音というのは、鼓膜を振動させる刺激として、筆者の耳もとらえていたはずだ。
しかし筆者は、そのブレスの音を「認知」することができなかった。
その刺激を他の刺激と差異化し、意味づける認知の枠組みを所持していなかったからだ。
ところで、高いお金を払ってでも「本物」に触れるべきであるという言説が、——とくに「自己啓発」の文脈で——取り上げられることがある。
これは、わずかな刺激の違いを認知するための、差異化の枠組みを構築する上で、もっとも手っ取り早い方法であろう。
しかし、筆者の妹の事例のように、必ずしも「本物」に数おおく触れていなくても、微細な刺激の差を感知できる感覚をもつ人物もいる。
差異への感度を(適度に)上げること。
そのために、「本物」に触れるなどして、刺激を差異化できる枠組みを整えていくこと。
これが、「格付けチェック!」から得た、筆者の学びである。