「年齢=恋人いない歴」が24年目に突入しました
11月22日、筆者は24歳の誕生日を迎えた。
これで、「年齢=恋人いない歴」をまた1年更新したことになる。
6つ年の離れた妹(高校3年生)にも恋人がおり、悲しいかな、いつの間にか先を越された形になっていた。
しかしながら筆者は、強がりでも何でもなく、このまま恋人ができなくても(作らなくても)良いし、生涯独身で問題ないと思っている。
後述するように、生涯独身でいることにも一定程度のデメリットがあるが、それを認識した上でなお——「いい夫婦の日」生まれであるにもかかわらず——、交際や結婚をするつもりはない。
本noteは、干支が2周したこのタイミングで、自分の恋愛観・結婚観を自分自身で客観視するための機会を作ることを目的とする。
具体的には、まず、筆者が恋愛や結婚をしない/できないと感じる理由について明らかにする。その上で、このままの状態がつづけば待っているであろう「生涯独身」という肩書きについて、若干の懸念点を明らかにする。
恋愛しない/できない理由:他人に興味がない
恋愛や結婚といった文脈に限った話ではないが、筆者は他人に対してそれほど興味をもてる部類の人間ではない。
もちろん、人間は社会的存在であり、他者とのかかわりや他者からの助けなくしては生きていけないことは十分承知している。しかし、日常生活を安定的に送る以上の情緒的繋がりは、筆者には不要である(というより、むしろ煩わしい)。
人として最低限の礼儀はわきまえているつもりであるし、アルバイトやサークル活動などの場面で、自分に期待されていることは期日を守り着実にこなす。
それゆえ、——自画自賛のようで恐縮だが——筆者に対する周囲からの反応は好意的——「真面目」で「安心感がある」などといった評価——であることが多い。
つまり、いざというときに頼ることができ、また頼られるような互酬的な関係性は十分に構築できているといえよう。
しかしながら、そうした互酬的な関係性があると自負しているにもかかわらず、筆者は相手のパーソナルな情報——家族構成や趣味・嗜好、恋愛観など——をほとんど知らないし、また、自身のそうした情報を相手に開示することもない。
たとえば、大学院で筆者の研究を見てくださっている指導教授の家族構成・趣味・年齢などを、その教授のもとで2年近く学んでいるのにもかかわらず何ひとつ知らない。
その教授とは、毎週「研究指導」という授業で顔を合わせている(しかもマンツーマンで)が、雑談をすることはほとんどない、というのがその理由かもしれない。
こうした状況は、「学生-教員」といういわば階層化された人間関係だけにとどまらない。アルバイト先や同じ研究科の院生、サークルなど比較的水平的な人間関係が構築されている場でさえ、筆者は他者のパーソナルな情報をほとんど知らない。
そのコミュニティで円滑な人間関係を築く上での最小限の情報——大学院であれば研究テーマ、学部時代に所属していた軽音楽サークルであれば音楽的趣味、といった具合である——さえ伝達し/伝達されていれば、それ以上は必要ないし、その代わり筆者もそれらを開示しない。
他者をまるで道具のように扱っているという批判を免れないかもしれないが、必要なときに必要な情報を提供したり・手助けをしたりしてくれれば十分で、それ以上のパーソナルな部分には踏み込むつもりもないし、踏み込んで欲しくないというのが正直なところである。
もちろん、聞かれたことには誠意をもって回答するが、そもそもそういった「雑談」がなされることは稀である。
たとえば、LINEでレポートのお題や締め切りについて確認され、それに回答してやり取りは終了、といった具合である。「ご飯に行こう」「今週空いている?」などといったメッセージ——しかも自分からは誘わず、全て相手からである——は、1年に1回あるかないかである。
さらに極端な例を挙げれば、元日に相手から「あけましておめでとう」というメッセージが来て、それに返信してまた1年間一切やり取りなし、という状況もあった。
こうしたことから、あるコミュニティの中で当然のように共有されている情報——たとえば、誰が誰と付き合っているのかなど——を、筆者は知らないことが多かった。
知ったところで筆者の人生が豊かになるわけでもないし、当該コミュニティの中で孤立するわけでもないため、こうした状況に陥ることは何ら不利益ではない。無理やりポジティヴに捉えれば、「ドライな人間関係を好む」ということになろうか。
これと関連して、いわゆる「恋愛感情」というものが筆者には欠落していると感じられる。
確かに、一緒にいて居心地の良い他者は(少ないながらも)存在する。
しかしながら、そういったつながりであっても、生活環境の変化などでひとたび関係性が途絶えれば自然消滅しそうなものばかりである。
他人への興味・執着の欠如という筆者の特性ゆえ、数多くの時空間を共有する必要のある恋愛というものに対する想像力も欠如しているものと思われる。
結婚しない/できない理由:結婚に伴う各種リスクが高すぎる
つづいて、結婚に対してネガティヴな感情をもっている理由について述べる。
それは端的に、結婚が自分とパートナーだけで完結するものではない、という点に求めることができる。
自分の兄弟姉妹・両親・親戚はおろか、相手方の兄弟姉妹・両親・親戚で問題が起こったときも、関係者として、その問題に意図するとせざるとにかかわらず巻き込まれてしまう。
それが顕著に現れるのが、遺産相続をめぐる問題ではないだろうか。以下、やや長くなるがこれについて詳述する。
はじめに断っておくと、筆者は将来的には相続放棄をする予定でいる。
父親は60代、母親は50代半ばのため、あと20〜30年もすれば「終活」にかかわることになり、遅くとも40年後には、筆者は長男として両親の遺産相続という問題に直面することになる。
結婚すると、自分の両親のみならず、相手方の両親の死去に際しても配偶者としてかかわることになる。
たとえ、自分自身に直接の利益・不利益がなくとも(いや、だからこそ)、土地・建物・預金などのかたちで多様に保持されていた遺産をどのように分配していくのかという、面倒で、ときには醜悪な争いまで繰り広げられる場に参加したくはない。
結婚したとき、両親とは別世帯として生活していくことはもちろん可能だが、それが介護や死亡といった、人生の終盤のライフイベントになってくると話は別である。
「血縁」というキーワードでもって、望むと望まざるとにかかわらず繋がりを(行政によって)見出され、なんらかの対処の義務や責任が生じる。
父方の祖父母との同居や、父方の祖父の死去をめぐって母親が苦労していた姿を見ており、血縁的には全くの「部外者」であるはずの母が、なぜここまで面倒に巻き込まれなければならないのか、と同情してしまう。
母方の祖父母が亡くなったときには父親が、血縁としては繋がりがないのにもかかわらず、相続問題に首を突っ込むことを余儀なくされる。
相続をめぐる議論の場に直接参加せずとも、相手から不平不満を聞き、ときにはそれらの捌け口として、サンドバッグ的に利用されるようなことも想定できる。
いずれにせよ、精神的にかなり追い詰められるのは間違いない。
もちろん、結婚する前から配偶者や自分の「死」を意識したり、揉める未来を想像したりするなど縁起でもない、という意見はあるだろう。
しかし、人はときとして醜悪であり、また死から逃れることはできないのは(少なくとも2024年現在では)確かではなかろうか。
その一方で、遺産相続やそれにまつわる揉め事などは、事前に対策をしておくことで負担をいくらかは軽減できる。そうした「厄介ごと」を極限まで減らそうと思うなら、結婚することを諦め、また両親の遺産の相続を放棄することは、極めて合理的ではないだろうか。
筆者は、自らが被相続人になったときには——ただし、両親より長生きする/できるという保証はどこにもないが——「相続放棄をする」ということを両親にすでに話してある。
弟と妹がそれぞれどういう判断を下すか、また、結婚してイエを継いでいくのかどうかは不明だが、少なくとも2024年現在の筆者は、我々の代でイエを終わらせるつもりである。
このように、自分とパートナーの問題に周囲の人々を巻き込み、また周囲の人々の問題に巻き込まれる可能性が高いのが、結婚するときに受容せねばならないひとつのリスクである。
確かに、結婚生活が順調に行っているときには、独身の人間よりも精神的・物質的に満たされる可能性は否定しない。
しかし、それがいつまでつづくのかは誰にもわからない。
しかも、結婚すると、パートナーやその親族という自分では如何ともし難い変数をも背負うことになる。
自分ではコントロールできない要素が増えることは、筆者には負担感が大きい。
恋愛・結婚をしないことによるデメリット1:飲み会などのネタに困る
さて、ここまで恋愛・結婚に否定的である理由について記述してきた。
以下では、恋愛・結婚をしない/できないという選択をしたことによるデメリットについて、2点記述する。
第一に、恋人や配偶者がいないことは「普通」ではないということにより、飲み会などのネタに困る、という点がある。
恋人がいない/できない/作らないといった状況は、世間から見れば「普通」ではないことは、筆者も理解している。
『リクルートブライダル総研』が実施した「恋愛・結婚調査」などでは、日本社会における未婚化・晩婚化の傾向が指摘されて久しいが、恋愛・結婚を善とする価値観はいまだに根強いのではないか。
そもそも、未婚化・晩婚化・交際の未経験といった事象が「問題である」という認識がなければ、こうした現象に名前が付けられ、議論されていることもないはずだ。
*これは、たとえば「同性愛」を「異端」とみなしてラベリングする一方で、「恋愛」といえば「異性愛」であることが「普通」であるという理由から、「異性愛」ということばはさほど使われてこなかった、といった問題と地続きであろう。
ともかく、恋愛をしないという選択肢を取る場合、世間からの好奇の眼差しに耐え、それに応対していくだけの手間と覚悟が必要になってくる。
それを強く実感したのが、ある会社の懇親会に参加したときの経験である。
ちなみに筆者は、長期インターン生としてその会社に入社し、現在1.5年が経過している。
懇親会の中では、配偶者や子ども、交際相手の有無といったトピックも当然のように登場する。
筆者は、こうした話を聞くことにはさほど抵抗を感じないが、このトピックについて全員が話さなければならない、という状況を最も嫌う。
不意に発したことばに尾ひれがついて、後々面倒なことになっても困るし、かといって雰囲気を壊さずに受け流す・誤魔化すといった高度な芸当は、あいにく筆者の苦手とする分野である。
人の恋愛話を聞くことはさほど苦ではないが、自分は話したくない、というのはなんと自分勝手なことかとは思うものの、避けられる話題は避けたい。
筆者は、今回の懇親会では、たまたまこうした話題を振られなかった。
筆者が文系大学院生であるという、珍しい立場の人間として参加できたことが良かったのかもしれない。
研究や大学、就職活動について聞かれることが多く、今回ばかりは自分の肩書きに助けられた。
しかしながら、筆者は、博士前記課程終了後に一般企業への就職を考えているため、遅かれ早かれ「恋人はいる?」「結婚はいつする?」「最近キュンとした出来事は?」などという質問に正面から向き合う日がやってくる。
筆者は、基本飲み会は断るようにしている——そのお金と時間で、家でちびちびとウイスキーを楽しむ方が幸福度が高い——ため、こうした場における立ち振る舞いの経験が欠如している。
今のところ、「どうでしょう?」「そのうち話します」など曖昧な返答をして誤魔化している——飲み会の場での会話は酔ったノリでなされているに過ぎず、何としても知りたいとは思っていない(はずだ)と考えて——が、果たしてこうした対応がいつまで通用するのか、若干の不安は抱えている。
*そもそも、恋愛/結婚をしないという選択をする人に対して配慮が欠如している、という社会状況も問題ではあるが…
デメリット2:1人はコスパが悪い
1人で生きていくという選択をした場合、コスパが悪くなることは受け入れなければならないだろう。これが、第二のデメリットである。
たとえば、家賃等の生活費がある。
パートナーがいれば、単純に考えて収入は1人のときの倍になる。
その一方で、家賃や水道光熱費、食費といったものは必ずしも倍にはならないだろう。その意味で、一人当たりの負担金額は減少する。
そのほか、キャベツやレタスなどの生鮮食品などの購入も、1人だと扱いに困る場面もある。大きいものを買った方が安いが、1人だと使い切る前に鮮度を落としてしまう可能性が高いからだ。
また、筆者が好きな旅行の文脈では、客室設定が2人以上からしかなかったり、複数人で泊まる方が一人当たりの代金が安くなったりする。
美味しそうなコース料理も、2人からが基本である。
このように見ていくと、1人でいるという自由は、コストパフォーマンスを犠牲にした対価として与えられているともいえよう。
筆者の場合は、こうした金銭的なデメリットを認識した上でもなお、1人を選択する。
自分の予算や日程、その日の気分に合わせて柔軟に対応できる——これは、旅行に限らず就寝・起床時間、休日の予定、日々のルーティーンなどあらゆる物事においていえるが——という自由・自らの意思で自分の行動をコントロールできるという充足感を味わってしまった以上、もう元には戻れない。
終わりに
ここまで、恋愛や結婚について、なぜこれらに否定的な感情をもっているのか、筆者の見解を述べてきた。
筆者は、1人でいることが好きな内向型の人間であり、他人にさほど興味をもてない。これによって、他者と親密な関係性になることを求められる恋愛・結婚という行為自体に興味がもてなくなっている。
さらに、結婚となると、義理の両親・兄弟との関係性や相続をめぐるいざこざなど、懸念すべき事柄がさらに増える。
筆者は、そうした数々の面倒を引き受けてまで恋愛・結婚をしたくはない。
1人でいることのデメリットはいくつかあるが、割り切って受け入れれば良い(もちろん、結婚することのデメリットも割り切って受け入れれば良いのだが…)。
1人でいることのメリット/デメリットと、恋愛・結婚についてのメリット/デメリットを総合的に比較して、筆者は、生涯独身・恋人なしで人生を終えるつもりである。
この国の少子高齢化にますます拍車をかけてしまうようで恐縮だが、筆者は、結婚や恋愛で得られるメリットを上回るだけの魅力を「孤独」に見出してしまったのだ。