↑2010年3月26日 13:46 多分無人販売にあった一つ100円の大根
・富岡鉄斎は明治大正期に活躍した京都の文人
・吉田寮の茶室には鉄斎の菜根図が飾られていた
・長男の謙蔵は京大文学部創生期の講師
・当時の山川総長が鉄斎に依頼して学生集会所に贈ったもの
・西島総長はいつでも学生ら見せれるようにしたいとのこと
「発見」された鉄斎の作品
吉田寮には創建当時から茶室が存在し、今は学生の居室として活用されている。玄関入って右手のあたりだ。
この部屋は動画としても記録されている(京都大学吉田寮記録プロジェクト 2018年)。写真集「京大吉田寮」曰く、茶室にはこんなエピソードがある。
日本で初めてカレーを食べた男こと、六代目総長山川の時代だ。この菜根図、大学側の出版物にも役員フロアに存在することが確かに記載されている。2013年にホームカミングデイのイベントで、当時の松本総長が言及している。
また、別の京大広報には図つきで掲載されている。
当時の西島総長が自慢している。
1988(昭和63)年には総長室に飾られていたらしい。
なんで、鉄斎が京大に
そもそも富岡鉄斎って誰なのか。鉄斎は京都生まれで、左京区の聖護院村にも住んでいた、長生きな文化人だ。歴史家であり画家でもある。
熊野神社のすぐ西にも住んでいたらしい。今のラーメン第一旭熊野店かその正面あたりかしら。右上に大根畑も見える。また、熊野神社のすぐ北にあった歌人太田垣連月の旧居(今のからふねやとか京大病院入口辺り)に私塾を開いたり、熊野寮から西の丸太町橋を渡ってすぐ右にある山紫水明処(頼山陽旧居)にも住んでいた。鉄斎の長男である謙蔵はその山紫水明処で生まれた。京都帝国大学に文科大学(のちの文学部)が開かれた1906年の翌年、東洋史学三講座が開かれた際、謙蔵は羽田亨とともに講師となっている。羽田亨は光華寮の名付け親でもあり後の総長だ。美術雑誌に、鉄斎と京大に関わるこんな記載を見つけた。寄稿者は東洋学者であり、その祖父の友人である伊藤介夫は謙蔵にとって漢学の師である。
のちの文学部である文科大学設立に、富岡鉄斎は色々と関わっていた。例えば、付属図書館の初代館長島文次郎にも鉄斎謙蔵父子の影響があった。
謙蔵の日記をもとに、当時を振り返っていらっしゃる。
この日記に、鉄斎から京大へ菜根図が送られた経緯が記載されているとのこと。
すこぶるって言葉がお好きなのかな。総長代理の中山親和に関しては、京大文書館に〔中山親和氏ヘ弓術部名誉顧問嘱託ノ件〕(1918年12月18日)という文書が所蔵されていた。
また、別の美術雑誌にも、1915(大正4)年に当時80歳の鉄斎に、山川総長の依頼により、「菜根図」を学生集会所のため揮毫とあった(「富岡鉄斎年譜」近代の美術 (4), 至文堂, 1971-05 p. 111)。
カレーを日本で初めて食べた男と鉄斎
「美術研究」には鉄斎と最期まで最も親しかった一人に、山川健次郎の名が挙がっている。
さらに、山川は個人的に鉄斎の作品を所蔵していたようで、その一つは「墨絵の蕪の自画賛」であり、物が少ないシンプルな部屋にかけている。これ菜根図の別バージョンだったりして?
水墨画だけでなく書も所蔵している。
山川が明治25年に初めて上洛した際、鉄斎に蔵書を借り受けて勉強したとある。また、鉄斎も山川に新年の祝詞を送り、賞揚している。鉄斎は山川より17歳年上であり、物理学者と文人という、年代も立場も違う両者の間に親密さがあったことが伺える。若い研究者らと、鉄斎と謙蔵父子が地元史家とつなげたという話は確かなのだろう。設立して間もない大学の研究者と、それ以前の思想家達の間には、こうした草の根的な連携があったのだ。
学生集会所の設立と最後
菜根図が贈られた大正期に建築された学生集会所の建物は2013年8月に解体され、2024年現在は建て直されている。筆者が在学中の2007年頃は写真のような感じで、当時も交響楽団などのサークルに利用されていた。吉田寮と同じ敷地内にあり、開放的な空気感が似通っている。
確かに、すこぶる荒廃している。菜根図がここに贈られたのは1915(大正4)年であり、学生集会所竣工の4年後のことだ。吉田寮の建設された1913年のすぐ後だ。
昭和初期の写真が大学文書館に残されている。
その機能を振り返る、こんな資料もあった。
「(前略)学生が趣味・芸術に親しむ場としても当集会所は期待されていたようである。また使用方法についてもできるだけ学生の自主性に任せる自由な風土があったと考えられる。」とあり、文字通り学生が主体になる場所だった。開設当時の総長も
と開場の演説で述べている。
こうした場所に、大学から依頼してゆかりのある人物の水墨画が飾られたことから、当時の学生と教員らの一体感ががうかがい知れる。
いっぽう、2013年の解体前における空気感をしのばせる寄稿文が京大交響楽団HPに掲載されている。1916年の設立から、解体前の学生会館とも100年近く歴史を共にし、今も活動している。
いつも、この場所から楽器の音が響いていたことを覚えている。
総長からのお言葉
菜根図に戻ろう。菜根図が1955年に「発見」されるまでの間、吉田寮の茶室に移動した理由は不明だが、学生会館はすぐ隣の建物なのでちょっとしたきっかけだったのでないかしら。
とある総長から卒業式で学生へ送られた言葉に、こうも書かれていた。
学生やOPがいつでも見られるようにしれくれるとのことだ。素晴らしい発想だ。最近の絵の動向を確認したところ、2015年には兵庫県立美術館に貸し出されていた。
2024年現在、大学の貴重資料デジタルアーカイブにすらないようだが、まだ大学にあるといいな。総長のお言葉からもうすぐ26年経つが、学生やOPがいつでも見れるようになるのが楽しみだ。
菜根譚の解釈
鉄斎は自身の作品に対して絵よりも賛、つまり文字の方に注目してもらいたいと主張されていた。なぜ中国宋代の古典である菜根譚を題材を選んだのかは、想像するしかない。人によって微妙に解釈が異なる。並べて比較してみよう。
最初の三者は「成功のためには我慢が大事」的なニュアンスだ。宋代中国の大根や蕪はそんなに固かったのかしら。最後のひとつは「シンプルであれ」と解釈している。う~ん、鉄斎は当時の学生にどういうメッセージを伝えたのだろう。漢詩の背景知識が双方にあったであろう当時、世代を超えて対話がなされていたのだろう。
大根の歴史をさかのぼると、原産は地中海か中東あたりで、中国南部から日本に伝わったのは8世紀ごろにさかのぼる。菜根譚の書かれた宋代中国でも、鉄斎の生きた明治期の日本でも、一般的な食べ物だったようだ。個人的には、鉄斎が住んでいた聖護院村は大根が名物なので、その近くに出来た学生集会所に送る題材に選んだ理由の一つでないかしらと思ってる。
ちなみに宝塚市にある鉄斎美術館もある清荒神清澄寺には、上記と別に菜根図の扇子もあるらしい。見たい。
さらに、鹿ケ谷の泉屋博古館には大正12年作の「扇面菜根図」がある。
同じ年の作なので、ひょっとしたら清荒神清澄寺から持ってこられたものかもしれない。
訴訟の行方
いっぽうで、現代の学生と大学の関係性はどんなもんだろうか。話が飛ぶようだが、本日2024年2月16日、吉田寮住人が大学に訴訟された裁判の判決がなされた。
吉田寮自治会は一貫して、裁判でなく話し合いを求めている。
裁判の勝敗よりも寮自治会が求めているものがある。
菜根譚に話を戻すが、個人的には「本心とちがった生き方は自戒すべきだ」とする朱氏の注記が好きだ。真摯な対話を生むために必要な態度かもしれない。
まとめ
吉田寮の茶室には富岡鉄斎の菜根図が掲げられていた。それは、山川総長が尊敬する鉄斎の水墨画を学生集会所に贈ったものだった。のちに、大学によって茶室からしぶしぶ搬出され、総長室や役員フロアに飾られた。西島総長はその図に触れ、学生がいつでも見れるようにしてくれると卒業式で発言していた。
過去の菜根図をめぐるやり取りから、対話とは何ぞやと考えだしてしまう。