【デザイン思考で生きる】日本と米国の“良いトコ取り”を考える
約4年ぶりに日本に来ています。我が家も在米9年となり勝手も色々解ってきて米国生活もますます楽しくなっている。そしてこの2年半の騒ぎのおかげで3年以上も日本に来ることが出来なかったけれど、久しぶりにこうして日本に来て見ると、日本の良さ、そして日本と米国それぞれの良さや違いにあらためて気付かされます。今日はそんな日本と米国の“良いトコ取り”について考えてみます。
■情緒で自らの器を満たし潤す
米国では何でもやたらと速度が速い。日本語なら数分かかるような会話、例えばカフェでコーヒーとサンドイッチを頼む場合でも米国では「Ok,~You’re all set! Have a great day! 」と、気が付けば数秒で終わっている(笑)。レストランでもショッピングでも、病院や公共サービスでも、学校など教育現場でも、全てそんな調子だからティーンエージャーたちの会話や態度もとにかくスピード重視。ただし、時にその多くが「雑」でもある。言わば、多くの米国人が「合理的な“イラチ”」。ものごとがサッサと片付かないと気が済まない性格の集団の様に見える。
何でもゆっくり、じっくりが良い訳でも無いけれど物事によっては、もう少し手間暇掛けて丁寧に取り組んだ方が実り多く、気持ちも豊かになりそうな事もある。芸術性の高い映画のように本来掛けるべき時間が設定されている事もある。或いは仏教の「業(ごう)」のように「時間や手間を掛けることそのものに意味がある」行為もある。私見だが合理性や速度の過度な優先は情緒の潤いを乾かしてしまう。人間という器の奥底から上縁までしっかり情緒で満たし、潤すような生き方は日本独特の良さでは無いかと思います。
■”業”で研ぎ澄ます精神と丁寧な所作
日本の良さは他にもある。米国に移住した際、子供達は娘が9歳、息子は6歳だった。二人とも私同様に東京生まれの東京育ち。世田谷の私立保育園を経て公立の小学校に通っていた。今から思えばゆったりと落ち着いた生活環境だった。学習塾に通わせたりはせず、勉強よりも友達と遊ぶこと、スポーツ、そして家族との時間を大切に過ごした。学校外で唯一やらせていた学習が公文式。公文(KUMON)は米国でもアチコチにあり、創業100年を誇る日本独特の学習法、言わば現代に残った寺子屋教育として人気がある。
空間に集まっての学習と反復を重視し、現代の日本の一律的な教育環境と異なり自分の能力に応じてどんどん先へ行ける先取り学習が出来るのも公文式の美点。公文は子供達の漢字や算数の成績を上げる効果もあったけれど、何より自主性と丁寧さが身に付いた。良く見ると進度に応じて難度が緻密に調整されている計算式や漢字ドリルを毎日黙々と熟すと、反復と継続の力を本人も少しずつ実感していくし、その影響は成績のみならず、高い集中力と一つ一つの作業に対する丁寧さにも繋がっていった。伝統的な日本の思想に基づく教育には他国のそれには無い精神性が秘められているように思う。
■日米の違いはあれど…「魂の振る舞い」としての情
日本には伝統的に「惻隠の情」というのがあるだろうと思います。私自身でもこの感覚は強い。隣の家がゴミを出し忘れていたら代わりに出したり、チェーンが外れて困っている子供の自転車を直したり、調子の悪そうな人に話しかけたり、ごく自然としている。でも、そういえば、米国人も基本的には親切な人が多い。道など訊こうもんなら「Let me show you~!」とメチャクチャ丁寧に教えてくれます。でも全く間違ってたりもします(笑)。
宗教的価値観もベースにあり、困っている人が居たら、仮に確実に助けてあげられるかどうか解らなくても「助けてあげたい!」想いが、やや斜め上から強く出る米国人(笑)。これも米国仕様の惻隠の情と言えなくもありません。惻隠=相手の心を思い遣り、惻ること。その強度や角度に多少の違いはあれど、人であるが故の、他者を気遣う心。これは下からだろうが横からだろうが上からだろうが、他者との関りが様々な理由から希薄になりがちな現代社会にあって、今取り戻すべき最も大切な人間らしい「魂の振る舞い」であると感じます。
■自由の尊厳を取り戻すチャンス
私が米国の良い面と思っていることでも表裏はある。前述のようにスピードの裏にある煩雑さのように。とはいえ、私が米国で生活する最大の理由は少なくとも人間の尊厳としての自由が尊重される事にある。パンデミック(未だ不可解な騒動であり個人的にこのワードも適切と思わないが)を経て今に至り、ますます感じるのが「個々人の考えや行動が自己責任に於いて尊重される」ことの大切さ。例えば個々人の命に関わるような事象に対し、それぞれの人が最大限に情報を得ながら、取り巻く状況を分析し、それによって一人一人が判断し行動する自由が保証されていること。
今、最も恐ろしくも悲しいことの一つ。それは権力者からの要請でも、合理的なルールでもなく、暗黙の空気感が集団を同じ方向に誘導したり、その空気感に従わない者を叩いたり、告げ口したり、そんな空気感によって社会が硬直し、分断されること、そしてそんな圧力の弊害を最も被るのは子供たちであることだと思います。今回日本に来て、今やそんなことが遠い過去の事のように平常の生活に戻っている米国をはじめ多くの諸外国と比べ、未だ平常とは言い難い日本の現状を見て、やや愕然とした。
でも反対に言えば、この騒ぎがそんな日本固有の分断の構造や因子を解き明かし、日本らしい自由の尊厳が取り戻される機会になれば良いだろうと思っています。それを克服するのはオトナ世代の責任意識と一人ひとりの勇気だろうと。私も滞在中どれだけ同調のプレッシャーを受けようと子供たちの未来が狂ったものにならないようそんな責任と勇気を最大限に発動していきます。