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ロベルト・バッジョ取材
その昔、正確には2003年の初秋。東京の某編集部から指示を受けた私は、カルドーニョという名の町(イタリア北部、ビチェンツァ近郊)にいた。まずはブレッシャの練習を取材し、広報と話し、了解を得ることができれば『ロベルト・バッジョ』のインタビューを取るように。これが東京からの指示だった。だが、広報は『本人次第』としか言えず、したがって私は練習を終えたバッジョに直談判し、しかし当のバッジョもまた自らの代理人との関係から言葉を濁すより他なく、何ら確約が取れないまま私はとりあえず自宅へ帰るバッジョの車を追った。そして、カルドーニョの町へ着き、息子(当時12歳)の試合を観に行くバッジョをなおもマークし続け、しかしそこはプライベートな場所と時間であるため失礼があってはならぬと注意しながら、話を聞けるタイミングを待っていた。
そして子供たちの試合が終わり、バッジョが地元のファンに囲まれる中、車に乗り込もうとするところでようやく言葉をかわすことができた。
『ほんの少しでいいので話を聞かせてくれますか?』
『いや、せっかく来てくれてたのに申し訳ないんだけど、今は落ち着いて話ができる状況ではないんだよ』
だが食い下がり、バッジョもまた可能な限り時間を割いてはくれたのだが、それでも結果はといえば、とてもインタビュー記事として体を成す文量には達しない。フィレンツからブレッシャまでは片道約300km、深夜2時に出発して満を持していたのだが、こればかりは致し方ない。
もちろんプレッシャーは小さくなかった。財政的に厳しい中で経費を出す以上、編集部としては是が非でも取材を成功させなければならないからだ。当然、それがいかに難しい取材だとしても、我々フリーランスが指示に応える責任を負っていることは百も承知だ。
■編集部の反応
しかし結果を変えることはできない。したがってありのままを東京へ連絡すると、その担当編集者は私に、あからさまに怒気を含んだ声でこう言った。
『たったそれだけしか聞けなかったんですか?』___。
続けて大きな溜息と舌打ちが受話器越しに聞こえてきた。ねぎらいの言葉などあるはずもない。
そして、あれから17年もの時が流れたにもかかわらず、この私の非力は相も変わらずである。先日も、『ジェンナーロ・ガットゥーゾ(現ナポリ監督)』のインタビュー取材を依頼され、同僚イタリア人記者たちの協力も得ながら文字通り八方手を尽くしながら3週間に及ぶ取材交渉を行ったのだが、ついに締め切りまでに取材に漕ぎ付けることはできなかった。担当の編集者へのメールに『力及ばず、申し訳ありません』と書くより他ないその悔しさは、同様の経験を積み重ねる度に増していく。
(ちなみに、取材に成功しなければ報酬はない。3週間に及ぶ取材交渉を東京の編集部は「仕事」としてカウントしないからだ)
ところが、例えば私のような日本人がイタリアで外国人記者としてマイナーな選手の取材にすら苦慮している一方で、日本のとある雑誌複数には、『イブラヒモビッチ』、『バロテッリ』、『クリスティアーノ・ロナウド』や『レオ・メッシ』といった取材に応じないはずの大物選手らの単独インタビュー記事が「独占取材」として載っている。
一体どうやればそんなことが可能なのか。
実に摩訶不思議である。■
2003年4月30日撮影