選手引退から、どう英語を勉強したのか?
これまでの2つのブログは自己紹介と経緯説明でしたが、これからはテーマ毎に掘り下げていきたいと思います。まず、教え子から1番多い質問
コーチはどうやって英語を勉強したのですか? です。
そうですよね。教え子たちが大学生になり将来の仕事を考えた時に、中学時代に一緒に野球をしていたコーチが、ソーシャルメディアでアメリカ在住を知り、たまに英語で投稿してるのを見たら話を聞いてみたくなりますよね。
ということで、引退から英語を勉強してきた経緯をお話しさせて頂きます。英語の勉強法は沢山ありますし、タイミングや目的に合った勉強法がありますので、時系列に沿った形で、当時のTOEICの点数なども合わせて紹介します。
野球選手引退
26才の冬、パナソニック社会人野球選手から引退しました。引退時に野球部長や監督などのフロントと最後の面談、要は、引退を告げられる場がありまして、ここで色々と話をする訳です。
まず、戦力外通告です。そのシーズンは監督も代わり、起用法などで引退の予想はしていましたが、さすがにショックは受けた記憶があります。
次に、職場復帰に向けての話し合いです。(当時、業務時間のほとんどを野球の試合と練習に費やしてましたので、職場復帰と言いました。)
どんな仕事がしたいのか?と聞かれました。
シーズン途中から引退が頭をよぎっていたので、引退したら何がしたいんだろう、と自分が携わりたいと思える職種や事業を探していました。社内報だったと思いますが、当社がメジャーリーグベースボール(MLB)向けのB2Bシステムビジネス事例を取り上げている記事が目に留まり、こんな部署でスポーツに貢献したい。と強く思ったことを覚えています。
そこで、私は「スポーツで貢献するためにパナソニックに入社した。選手を引退しても、スポーツに携わる仕事がしたい」と伝えました。(他の選手は、営業・人事など職種を伝えている人が多かったと思うので、印象に残って後々まで覚えてくれていたのかなと今では思います)
フロントの反応は「パナソニック社員としての仕事のイロハを勉強」「スポーツビジネスに携わりたいのなら海外・アメリカ。まず、英語が出来るようになってから」の2つでした。
そこで、既定路線通り、野球部時代から配属されていたパナソニックエレクトロニックデバイス株式会社 セラミックBU 門真工場 調達課 契約係で職場復帰することになりました。(私が本当にラッキーだったと思う1つが、当時の上司、松下電器サッカー部(現ガンバ大阪)の選手だったことです。その話は別の機会に)
パナソニック社員としてのイロハは仕事をしていく中で覚えるとして、英語を勉強しなければなりません。ただ、野球選手として入社した当時のTOEICの点数は200点台というレベルでした。
門真工場 調達課時代 / 200点台〜600点
20年間、野球が全ての生活をしてきたので、野球を失った時に人生が終わったと思いました。捧げてきた全てを失ってゼロからスタート(のつもり)でした。(振り返れば、色々残っていたと気づけましたが)
パナソニック社員としての仕事のイロハと英語という課題をクリアしなければなりませんので、まずは、目標設定をしました。
目標設定(長期・中期・短期)
・スポーツビジネスに携わることが長期目標
・仕事のイロハを覚えた証明を主事(現主務)昇格と設定、昇格が中期目標
・昇格試験資格にTOEIC550点の条件があり、TOEIC550点が短期目標
今思えば、英語を話したいから英語を勉強するではなく、したい事の為に英語を勉強する。英語は目的ではなく手段だということが、野球の経験から自然と出来ていたので、諦めずにやりきれたのかなと思います。
野球部時代は休みはほとんどなかったし、特に毎週土日の連休という経験がなかった。ゴールデンウィーク、夏季休暇なんてもってのほか。初めての土日休みの丸一日は英語に充てる、長期休暇は半分、英語の合宿にすると決めて勉強しました。
勉強法も色々と試しました。社内語学研修 ゴールドプログラム、友達に家庭教師をお願いしたり、参考書を使った独学、英会話教室 ベルリッツなど。
短期目標のためにTOEICに適した勉強法にフォーカスしていきました。英会話中心の社内語学研修やベルリッツは二の次となり、家庭教師やTOEIC参考書の独学、TOEIC対策コースなどで勉強しました。
結果、1年半で550点を越え、3年目で昇格試験を受け昇格することが出来ました。
TOEICは点数で進捗を測れるので短期目標として適していたと思いますし、昇格という中期目標に直結していたのも継続する力になったと思います。
オリンピックマーケティング前期(バンクーバー〜ロンドン) / 600〜750点
小杉が3年でTOEICクリアして主事に昇格したという話が、野球部責任者や人事責任者の耳に届いたのと、北京オリンピックが終わるタイミングの組織変更が重なり、2008年10月に当時のオリンピックマーケティング室に異動となりました。
異動内示を聞いた時は嬉しい反面、非常に戸惑いました、、、なんせ、当時TOEIC600点越えた位の時でしたが、あくまでTOEIC対策の結果で。英語で仕事をする英会話力と心の準備は出来ていませんでした。ただ、戸惑う私とは別の人格の私が、2つ返事でよろしくお願いします。と言っていました。
異動元の上司から下期契約交渉のために9月末まで小杉が必要となり、9月1日付が10月1日付異動に変更となります。おかげで、この約2ヶ月、異動前最後の契約交渉を進めながら、不安だったビジネス英会話にフォーカスして勉強を始めます。
ビジネス英会話で一番効果的な教室はどこか?当時、行き着いた先は、ベルリッツでした。この2ヶ月間は毎週土日、丸一日をベルリッツで過ごして英会話の練習をしました。
オリンピックマーケティング室に異動して最初の仕事は機器納入契約の担当でした。調達時代に契約担当だったとはいえ、こちらは初めての英文契約です。また、オリンピック専門用語を覚えるのは苦戦しました。
100ページ以上ある英文契約書のドラフトを前にし、まずは、家電量販店に駆け込み、英文契約用電子辞書を購入。電子辞書を片手に最初から1ページずつ確認しながら読み解く日々が続きました。
バンクーバーオリンピックの準備の時期でしたから、カナダ販社やバンクーバー2010競技大会組織委員会(VANOC)との電話会議では、先輩が英語で話をするのを必死に聞きながら、先輩の話す真似をして使える言い回しなどを覚えていきました。
配属されて約1ヶ月が過ぎた頃、当時の上司からバンクーバーオリンピックのテストイベントがあるから1ヶ月間バンクーバーで現場と英語を勉強してきたら良いと出張させていただきました。VANOCオフィスとバンクーバー市内〜ウィスラーマウンテンで計2週間強を過ごすことで、パナソニックカナダやVANOCの仲間と話をする中で、本当に少しずつ話が出来るようになりました。
ただ、いつまで経っても英会話に自信が持てないまま、バンクーバーオリンピック本番に突入しました。
本番ではピンチの連続でした。ピンチは成長のチャンスとはよく言ったもので、例えば、オリンピック期間中は厳しいセキュリティチェックがあるのですが、私が持つアクレディテーション(IDパス)が良い意味で特殊なコードを持っていたので、何度もセキュリティゲートにいるボランティアの方に止められて、仕事が滞ります。
オリンピック開催前はボランティアの勉強期間と思って、丁寧に説明してましたが、本番ではそうはいきません。期間中は映像撮影を担当していたので、この選手の何時の出番に合わせて撮影しなければいけないのにセキュリティで止められる。
こんな時に、今まで頭で考えながら話していたぎこちない英語が、考えることなく必死に英語で説明していました。
忙しさにそんなことを気づく間も無くバンクーバーオリンピックが終わり、帰りの日本行きの飛行機の中で初めてのオリンピックを振り返った時に、あれ、俺、もしかして英語話せてた。と少し自信がつきました。
少し長くなってきたので、ロンドンオリンピック以降は次のブログで紹介させて頂きます。
ここまでのまとめ
・目標設定(長期と短期)
・英語全般でなく、必要な英語にフォーカス
・勉強時間は隙間を活用ではなく、まとまってとる
・インプット(聞く・書く)とアウトプット(話す)のバランス
・ピンチは成長のチャンス
スポーツが大好きな次世代のために