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父が若かったころ

私の父は苦労人である。
7人兄弟姉妹の長男で、上に姉が1人、下に弟2人、妹が3人いた。
母子家庭であったため、姉と2人で苦労して下の弟妹たちを学校にやり、卒業させた。
北海道に住みながら、2人の弟は上智大と中央大を卒業している。東京の私立大に通わせ、卒業させるのは並大抵の苦労ではなかったのではないだろうか。妹たちも地元の短大を卒業させている。

父は、高校卒業後、大学には進学せず、すぐに働き始めた。
最初の職は肉屋だった。肉屋に勤めたのではなく、肉屋を自分で始めた。
商売道具の牛を牽いて、北海道大学のキャンパス内を抜ける近道を通っていたら、北大生となっていた高校時代の友人たちに偶然会ってしまい、一体何をやっているのか、と聞かれたこともあったそうである。

父は21歳の時、結婚した。長男である私は父が27歳の時の初めての子である。27歳までは子供を産んで育てるところまで生活基盤が出来なかったのであろう。

結婚してからも、まだ弟妹たちの生活もみていたので、日々の生活のやりくりに非常に苦労したそうである。
質屋通いもしょっちゅうであった。
流してしまった質草も多数あっただろうが、流せないものもあった。

ある日、とうとう、結婚指輪を質屋に持っていかなければならなくなった。
これには絶対に手をつけない、と心に誓っていたものであった。

質屋の女将が、「あら今日は何?」と出てきてくれた。父は、手に持った指輪の入れ物に目を落とし、「実は、」と言ったとき、そのあとポロポロと涙が出てきて、言葉にならなかったそうである。

その時の質屋の店先の情景や、きっと日頃からよくしてくれていたであろう女将の様子はどうであったろうかなどと想像すると、こちらも少し泣けてくる。

私がある程度大人になってから、その指輪が幸いにも母の持ち物の中にあることを確認した。流さなくて済んだのである。
どんな親にもそのような苦労があるだろう。

父は最終的には自分で会社を興し、その会社をある程度大きくしてから引退した。その会社で肉屋から数えて10個目の職業であったそうだ。
その会社が順調となり、生活の心配が無くなってからも、無駄使いをせず、つつましい生活を送っていたことを思い出す。金の心配が心底身についていたのであろうと思う。

今、自分はすっかり大人になってしまった子供たちからどのように見られているのかわからないが、自分にも父の質屋の件に似たような出来事があったことをいつか書いてみたいと思う。

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