日本三古碑と多治比氏の奇妙な関係
日本にある石碑のうち、最も重要と言われている「日本三古碑」があります。日本三古碑のある場所はそれぞれ、宮城県多賀城市にある「多賀城碑」、栃木県大田原市にある「那須国造碑」、群馬県高崎市にある「多胡碑」になります。
それぞれの碑を調べていると多治比氏に関係が深いのでは?と感じたところが多々ありました。今回は碑の詳細はそこそこに、多治比氏と関連性が深いと思ったところを紹介します。
「多胡碑」と多治比氏と和同開珎と武蔵七党
三古碑の中で最も多治比氏に関係が深いのが群馬県高崎市にある多胡碑になります。碑に刻まれている内容は以下のとおりです。
多胡碑には、ずばりそのまま多治比(多治比三宅麻呂)の名前が刻まれています。あの有名な藤原不比等と同じ碑に名前が刻まれてのが凄いなと感じます。
しかし、残念ながら多治比の名前が刻まれていることがあまり知られていないように感じます。多胡碑を紹介している多くの書籍やサイトでは、羊太夫の伝承、藤原不比等、穂積親王の名前を中心に紹介している場合が多く、多治比の名に触れられることが少ないからです。
多胡碑に名前がある多治比三宅麻呂は、和同開珎の催鋳銭司としてが任命されているなど重要な役割を果たしているだけにもっと取り上げられてもいいのではと思います。
なお、多胡碑関連で有名な羊太夫は埼玉県秩父市の和同開珎を朝廷に献上したとされていますから、ここでも多治比との縁を感じます。
さらに、群馬県周辺にはかつて武蔵七党と呼ばれる武士集団が存在しており、武蔵七党の一つ丹党が活躍した場でもあります。丹党は多治比氏の末裔を称しており、和同開珎で有名な埼玉県秩父市でも丹党中村氏が活躍していました。
多胡碑に刻まれた名前、和同開珎、武蔵七党の丹党・・・・この地域は多治比氏とは何か深い関係がありそうです。
ちなみに、自分のニックネームとしている多治比真人島(嶋)は多治比真人三宅麻呂の兄弟でもあります。
「多賀城碑」と多治比と陸奥按察使
多賀城碑は設置者の藤原朝狩(恵美朝獦)が蝦夷平定を成し遂げた自身の功績を顕彰するために建造されたとされています。また、多賀城は神亀元年(724年)に陸奥按察使の大野東人が築城したとされています。
そして、藤原朝狩や大野東人が就任したことがある「陸奥按察使」ですが、多治比宇美や多治比浜成が就任した記録が残されています。ここでも多治比氏が関係しそうです。
蝦夷討伐の拠点である多賀城と、そこに残された多賀城碑、そして蝦夷討伐で活躍した多治比氏は何か関係があるのではないかと感じています。
「那須国造碑」と多治比と大田原市と大田原氏と武蔵七党
那須国造碑は大田原市にあります。大田原市は、かつて大田原城の城下町があり、城には大田原氏が居城していました。大田原氏は武蔵七党の一つである丹党を祖としているとされ本姓を「丹治」と言います。丹治とは多治比の別表記になります。
那須国造碑に記載されている内容と直接の関係はなさそうですが、碑が置かれている大田原市のかつての統治者が多治比氏に関連してるのは日本三古碑との奇妙な縁を感じさせてくれます。
最後に
日本三古碑のそれぞれと多治比氏に関連を見つけることができ、奈良時代に活躍した多治比氏の影響力の強さが感じ取れます。
特に那須国造碑に関しては奈良時代の多治比氏と直接関係はないものの、多治比氏の末裔とされる丹党の一派が存在した大田原市にあるのが奇妙な縁を感じさせてくれます。