【旅】和銅黒谷駅・聖神社〜多治比三宅麻呂の鋳造した和同開珎〜
今回の目的は、多治比三宅麻呂が鋳造を担った和同開珎に関する聖神社と和銅遺跡を訪問し、その痕跡を探すことだ。
和同開珎と多治比
和同開珎は秩父で和銅が発見されたことにより元明天皇の命により鋳造され、日本最古の通貨と言われていた。
近年の調査により日本最古の貨幣は富本銭と判明したが、和同開珎は未だ日本最初の流通貨幣とされ、日本人なら誰もが知る通貨だろう。
しかし、その和同開珎に多治比氏が深く関わっている事を知る者は少ないと思われる。
催鋳銭司に任命された多治比三宅麻呂
多治比三宅麻呂は秩父で和銅が発見され際に、和同開珎の催鋳銭司(お金の鋳造を担当)に任命された人物である。また、群馬県の多胡碑にその名前が刻まれるなど優秀な官僚と評されているが、晩年には島流しになる不遇な最後を迎えている。
島流しされた場所は現在の三宅島であり、なんと三宅島へ島流しされた最初の人物であり、一説では三宅島の地名の由来は多治比三宅麻呂とも言われている。
和同開珎、多胡碑、三宅島といった歴史的に重要な事案に関わる多治比三宅麻呂。その痕跡を探して聖神社・和銅遺跡に行くことにした。
なお、多治比三宅麻呂は自分のニックネームの多治比真人島(嶋)の兄弟でもある。
和銅黒谷駅
まずは和銅黒谷駅に到着。
駅のホームには和同開珎のモニュメントが飾られていた。
駅のホームのモニュメントにも関わらず、なかなか存在感が凄い。
案内板には和銅遺跡の解説文が書かれていた。「日本最初の通貨」という説明文が時代を感じさせてくれる。
「和銅」遺跡から産出された「和銅」をもとに「和同」開珎が造られたとされているが和銅と和同の使い分けがややこしい。
・通貨の和同開珎は「和同」
・和同開珎の原材料は「和銅」
・年号は「和銅」
直感では、通貨には「銅」、年号には「同」と感じてしまうが、逆なのだから混乱する。
和銅黒谷駅は現在は無人駅となっている。
かつては有人駅であり、その名残として窓口が残っている。ネットの情報によると有人駅だったころは荷物の預かりもしていたようだが、現在はコインロッカーの設置も無いため荷物は秩父駅に預けてからここに来た。
日本人なら誰もが知る和同開珎関連の近隣駅ですら、訪問者が少なく無人駅となってしまうのは寂しさを感じる。
近くの秩父駅は賑わっており過疎地域ではないと思うのだが・・・
和銅黒谷駅の外には謎の巨大な石が置かれていた。
近くに解説板が無く、ネットで検索しても情報が無いため詳細不明だが、おそらくは和同開珎の材料であるニキアカガネを意識したものだろう。
それにしても金銀ではなく日本初期の通貨に銅が選ばれたというのは不思議だ。物々交換が主流だった当時の人々は銅銭を信じることができずに通貨の普及に困難していたとある。銅銭でお腹は満たせないのだから当然の話である。
聖神社へ向けて出発
駅から徒歩で聖神社へ向かう。
途中にコンビニがあり看板もあるため迷わずに進めたが、下写真の看板では聖神社と和銅露天掘り跡の分岐があるので注意が必要だ。
聖神社
和銅遺跡と聖神社の入口に到着。
登り旗が気分を盛り上げてくれる。
観光地でよくみかける、少し寂れた観光案内図を発見した。今回は徒歩移動のため広範囲に移動出来ないため聖神社と和銅採掘露天堀跡の二箇所のみ訪問する。
聖神社は和銅が発見された祝に創建された神社だ。銅の発見が年号を変え、朝廷が祝いの神社を建設するほどに影響力があった、つまり1300年以上前の人たちが鉱山の価値をそれだけ理解していたというのに驚く。
聖神社の駐車場には広告入の綺麗な案内板が設置されていた。
日本初の通貨である和同開珎の材料が発見された関係で「お金儲けの縁起の神様」として注目されているとのことだ。
多治比氏が関わった通貨が銭神様となっていることが素晴らしい。
聖神社より先にある和銅露天堀り跡の解説板もあった。残念ながら案内板に多治比氏に関する記述は見られなかった。
案内板の確認を終え聖神社の境内へ向かう。
ここには聖神社と周辺の文化財の説明板があった。
説明文で興味が惹かれたのは蕨手刀が大野原古墳群から発見されたことだ。説明文によると、発見された蕨手刀の制作時期は7〜8世紀で、関東地方で発見されるのは珍しいとある。なお、通説では蕨手刀は蝦夷が愛用していたとされている。
そして、多治比氏は7〜8世紀に最も栄え、蝦夷討伐にも尽力している。そのため和銅遺跡採掘の際にこの古墳と関わりをもち、蕨手刀があったのではと感じてしまった。
さらに進むと手水舎がある。
手水舎の飾り付けにも和同開珎が用いられていた。
手水舎で手を清め、いよいよ聖神社の本殿へ向かう。
聖神社の境内
ついに本殿に到着。ここでは和風な音楽が常に流れていた。最初、何かの祭りをやっているのかと思ったが、どうやらスピーカーで常時音楽を流し続けているようだ。
本殿のすぐ近くに和同開珎のモニュメントがある。駅ホームのモニュメントと異なり手作り感満載の出来栄えだ。
和銅と和同開珎についての案内板がある。秩父から和銅が献上されたことを祝い年号が和銅に改元され、唐の開元通宝にならり和同開珎が誕生したことなどが記載されている。
ここでも多治比氏に関する記述を見つけることは出来ず、聖神社では多治比氏に関する物事を見つけることはなかった。
和銅鉱物館は利用者が誰もおらず入れる雰囲気ではなかったため今回は入館を断念した。また、宝物館にある銅製蜈蚣(下画像)を見たかったが宝物館の位置もよくわからなかった。見学したい場合は社務所に確認が必須だが、時間がないため断念。
和銅鉱物館を検索してみると、和銅保勝会HPの和銅鉱物館のページに興味深い名前があった。
鉱物を提供したとして名前のある正木丹治先生だが、この「丹治」というのは多治比の別称でもある。もしも丹治という名前で秩父出身であるならば多治比(丹党)と何か関係している人物なのかもしれない。
本殿の脇には和銅出雲神社(旧本殿)がある。
神社への願い事には、和同開珎というお金に関係する神社であるせいか一攫千金を夢見るものが多かった。その中でも宝くじの当選を願うものは多く、実際に当選者が出たという報告もあった。(なんとも不純な動機でバチ当たりな気がしないでもないが・・・)
自分が参拝中には大量の宝くじを手に持ち参拝している人がいたが、祈りは通じ当選したのか結果が気になる。
社務所で御朱印をもらい、和同開珎に関する商品を購入した。金運開運という文字を見ると、やはり運により大金を手に入れることが出来ないかと下心が湧いてしまう。
一通り見学を終えて聖神社を後にする。
次は和銅が発見された和銅露天掘り跡を目指す。
事前の確認では若干の荒れ道を通るようなので不安だが、徒歩で突き進むことを決意する。
多治比氏の痕跡は・・・
聖神社をひとしきり見学し、案内板等も確認したものの多治比氏の痕跡を見つけることは出来なかった。しかし、和同開珎の催鋳銭司として任命された多治比三宅麻呂に関連していることは間違いなく、多くの人々が一攫千金を祈る聖神社の歴史に多治比氏が関係していることが印象的だった。
(自分にも一攫千金の夢が叶いますように・・・・)